聞こえぬ声

唯月湊

聞こえぬ声

 視界がゆがんだ。立ち上がったベッドから数歩と歩まぬ内に、身体が傾いだ。自分が床に倒れる音はどこか遠くに聞こえ、その身に受ける衝撃は思っていたよりもずいぶん軽い物だった。

 くすんだブロンドの髪を無造作にひとつに束ねた女性が駆け寄り、女を抱き上げる。

 枯れ果て折れ朽ちる寸前のような細く頼りない腕を上げ、言葉を紡ごうとする女性の口を女は人差し指で制した。

 わかっていたわ、と女は告げた。

 彼女達ふたりの関係は、おとぎ話に出てくる夢を飾りたてた砂糖菓子のように甘いものでは決してなく、怨嗟と呪詛を煮詰め煮詰めてできたカラメルのように苦いもの。

 女性の顔はこわばっていた。その群青の瞳は、懐かしい海を思い起こさせた。

 彼らに疎まれ恐れられながらも、女が生きる世界だった、広い海を。


 これは、まだ空を飛龍が駆け、森には妖精が棲み、人々の隣には魔法が存在していた遙か昔の話。


 言葉に思いを、節に力を。一つ紡げば風が舞い、二つ謳えば海が踊る。

 その歌は生を喜び尊ぶ賛歌。けれど聞く者によっては死を呼ぶ呪歌となる。

 彼女が見る夢はいつもこれだ。彼女はいつでも歌っている。何故なのかは分からない。幼い頃に首に傷を負ってからというもの、歌など一度も歌ったことがないというのに。

 だが、それでも酷く懐かしい。ふと意識をやれば周囲は真白の鳥の羽根に覆われている。どこからやってきたのかと視線をこらすこともなく、彼女にはそれが何の羽根であるかが見て取れた。

 あぁ、これは――――


 目を覚ませば、そこに見えるのは漆喰の天井。意識の霧が晴れ、シルフィエはゆっくりと身体を起こした。ベッドに座ったまま何気なく視線を前へ向ければ、そこには備え付けの鏡がある。

 濃緑の瞳がこちらを見つめていた。赤茶色の少し癖のついた長い髪は腰のあたりまであり、寝間着のシンプルなワンピースを着ている女性が、そこには座っていた。

 その姿でひときわ目を引くのが、その細い首についた大きな傷跡だった。古傷のようになってはいるが、それなりに深い怪我だったのは見て取れる。

 いつもの朝。だが、こうしてこの姿をみると、言いしれぬ違和感に襲われる。

 何かが足りない。自分は何かを忘れている。

 そう思ったとたんに、いつもの頭痛が彼女を責め立てる。呻きすらもらせない痛みが彼女をさいなみ、できることと言えばベッドから落ちないようにあらかじめ倒れておくことだけだ。

 この痛みが責めているのは彼女が「忘れている」ことなのか、それとも「思いだそうとする」ことなのか。シルフィエには分からない。

 しばしベッドで時間をおけば、彼女をさいなむ頭痛も収まった。深く息をつき、乱れた呼吸をゆっくり整える。この作業も一体何度目だろうか。

 そこへ、部屋の扉が開いた。そこにいたのは一人の女性。少し癖のあるブロンドの髪を後ろで一つにまとめ、冷めた群青色の瞳をしていた。その瞳と同じ群青の石がはまった指輪を、チェーンに通して首から下げていること以外に取り立てて他に特徴があるわけでもない、見た目二十歳前後のその女性――イーリスはその手に二人分の朝食をのせたトレイを持っていた。

「大丈夫?」

『えぇ、ありがとう』

 シルフィエはそうゆっくりと体を起こし、脇に置いた筆記具でそう綴った。シルフィエは声が出せない。そのため、いつも傍らには筆記具がある。

 イーリスがシルフィエの髪を手早くまとめ上げて貝をあしらったバレッタで止める。

 野菜入りの卵焼きに、軽く焼いた丸いパン。サラダとスープをつけた、ごく一般的な朝食を向かい合わせで食べはじめる。

『今日も工房?』

「そうね。多分今日も採掘船が出るから、今の分はあらかた済ませておきたいの」

『あまり無理をしないようにしてね』

「そこまで数は残っていないから、夕方前には戻れるわ。――ごちそうさま」

 そのまま家を出るイーリスに、シルフィエは行ってらっしゃいと手を振った。


 四角い石造りの小さな家や店が建ち並び、街には水路がいくつもひかれている。果物や野菜、魚を載せた船、道渡しとして人々を乗せたゴンドラが行き交うそこは水の都。

 さほど大きくはない、どちらかといえばこぢんまりとした街だった。それでも、朝と昼の市場の時間になれば大通りには多くの露店が並び賑わう。

 少し水路を下れば港にでる。大型の帆船がいくつも碇を降ろし、出航の時を今か今かと待っている。

 イーリスとシルフィエが暮らしていたのは、そんな港街の片隅だった。

 外には出られない彼女を一人残して、イーリスは仕事場の工房へ向かう。

 彼女は細工師だった。魔石を加工し、宝飾品を作ることを生業としていた。それほど売れ行きがいいわけでも悪いわけでもない程度のセンスしか持ち合わせていなかったが、この街特産の「海鳴石」と呼ばれる魔石を加工する技術を持っていたため、食べていくのに困らない程度の稼ぎを得ている。

 半年前までは、兄が海底の採掘場で「海鳴石」を採り、イーリスが加工して宝飾店へおろす、という生活をしていた。

 ただ、その兄は半年前、突然の海嵐に遭って船が難破し命を落とした。今その形見となった指輪はイーリスの首にかかっている。

 一階の宝飾店の裏から二階の工房へとあがる。入った正面にある唯一の窓には遮光カーテンが掛かり、部屋は少々薄暗い。窓の前には机が一つおいてあり、まだ加工途中の石や道具が散らばっている。左右の壁には棚が備え付けられ、ハンマーなどの工具類や加工前の石がごろごろと雑多に置かれていた。

 机の上に置いたランタンに火を入れた。この時間の日光は強すぎて海鳴石の加工には向かない。少し薄暗い部屋の中で、不純物をそぎ落として磨き上げ、魔法で装飾を施していく。時折削りかすを払い、ランタンへかざして光の具合を確認する。

 そんなことを夕刻まで行い磨き上げの終わった石を持って、最後の仕上げのため家へと持ち帰る。


 イーリスが仕事へ出てから、シルフィエは家の雑務をこなす。彼女自身にも任された仕事はあるが、それは全て済ませてから、と決めていた。彼女にとって仕事は趣味の延長線上ともいえたからである。

 この家はイーリスのものだ。半年前に彼女の兄がなくなり、一人では広すぎる、という理由でシルフィエが招かれた。シルフィエも他に身寄りはなかったこと、それから彼女の仕事の観点からも、一緒に住んでいた方が何かと便利が良かったからだという。

 太陽も傾き夕刻に近づいたころ。イーリスが家へと戻ってきた。シルフィエはそのとき自室で紙に呪文を書きつけていた。

「今から?」

 シルフィエはこくと頷く。それを見てイーリスは今日磨き上げたものをこちらへ渡し、「夕飯の準備をしてくる」と部屋から出ていった。これから行う作業に雑音が入るのをさけた、という意味合いも強いだろう。

 そうして作った簡易的な呪譜をろうそくの炎で焼く。声が出せず呪文が詠唱できない彼女は、こうして魔法を行使する。

 前の机にはイーリスの磨いた海鳴石を数個置き、片手には吟遊詩人が持つような小型の竪琴があった。

 紙が燃え切ると、机に置いた海鳴石が淡く光る。シルフィエはそれを確認してから竪琴をつま弾き始めた。

 海鳴石は一定の魔力を与えると周囲の音を内に刻み、再生するという特性がある。それを利用して、短い曲を海鳴石に刻み込んでおけば簡易的な装飾オルゴールができあがる。

 一曲奏でながら、ふと気づけば自分の声のでない口元がかすかに動いていた。まるでその曲を歌い上げたことがあるかのような錯覚を覚えるほど、脳内では自身の声で歌が響いていた。

(――歌がうたえたなら、よかったのに)

 そう願えば、彼女の首についた傷がずきりと痛んだ。

 呪譜の魔力が切れるころ、ちょうど曲も終わりを迎えた。海鳴石が普通の宝石程度の輝きへ戻るのを静かに待ってから、シルフィエはそっと竪琴を置いた。


 竪琴の壮麗な調べが始まったことを聞きながら、イーリスは下拵えをして置いた料理に火を入れる。

 彼女とともに暮らし始めてから半年、海鳴石の音入れを任せるようになってからは四ヶ月が経っていた。ほぼ毎日彼女の奏でる竪琴を聞いているというのに、今でもまだ気を抜けば聞き入ってしまい、自身の作業が進まないことがある。さすがはムーサに愛された存在、ということなのだろうか。

 イーリスはそんなことを考えながら、どこか割り切った様子で淡々と食事の支度をしていく。

 今日シルフィエが奏でているのは古い歌曲。あまり音楽には詳しくないイーリスでも耳なじみのある曲だった。やはり、歌曲を選ぶのか、と。塩胡椒をして香草と共に蒸し焼きにした白身魚を盛りつけながら思う。

 海鳴石に刻む曲は彼女にすべて任せてある。シルフィエの頭の中には古今東西の音楽が残っていた。そんな中で、歌のいらない器楽曲も多く覚えているだろうに、シルフィエは歌曲を好んで奏でた。

 その理由にイーリスは心当たりがあるが、シルフィエ自身が自覚しているのかどうかは分からない。

(たとえ分かっていたとしても、あれに歌はうたわせない)

 竪琴の鳴り止んだ部屋へやった視線は、凍てついた海を思わせた。


 音入れを終え、商品として完成した海鳴石をシルフィエは片づける。おそらく、そろそろイーリスが食事の支度をすませている頃だろう。用意された箱へ収めると、ちょうどイーリスが夕食を持ってくる。竪琴を片づけ、二人で夕食を開始する。

 そうしてあらかた食べ終えたところで、イーリスが大ぶりのカップになみなみと深緑色の薬湯を注いで持ってくる。小さくため息をついた。

『飲まないとダメかしら』

「ダメに決まってるでしょ」

 きっぱりと言い捨てた彼女はと言えば赤色のお茶を入れて飲んでいる。一つ息をついてシルフィエはそのカップを持ち半分ほど飲む。言いようのない苦さ、そして喉を焼けつくような熱さが通り過ぎていく。

『――おいしくないの、これ』

「えぇ、知っているわ。作っているのは私だから」

 シルフィエはあまり身体が強くない。身体の免疫が元々そう強くないのか、はたまたつきにくいのか。ひと月の内に体調不良で寝込まない月はないほどだった。そのため、シルフィエは晩に一度この薬湯を飲んでいる。

『イーリスの料理はどれもとてもおいしいのに』

「ずいぶんと辺境の土地には、「良薬口に苦し」という言葉があるそうよ。ぴったりね」

 イーリスがこの薬湯の味を改善するつもりはないのだと、その言葉で悟る。仕方がない、とシルフィエは残り半分の薬湯を一気に飲み干した。


 翌日。イーリスがいつものように工房へ仕事に出てから、シルフィエは雑務を済ませて数冊の書籍を持ってきた。この部屋は彼女の兄の部屋であり、彼は採掘を生業にしていたというだけあって、鉱石関連の書籍が多い。

 シルフィエは海と音楽に関する知識はなぜか多いのだが、そのほかの知識はほとんどないため楽しく読んでいた。

 一度会ってみたかったな、と思う。イーリスの兄ならば、きっと素敵な人なのだろう。

 そうしてページをめくっていると、一枚の紙がしおりのようにして挟まっていた。

 それは写真だった。そこには、イーリスとうり二つの青年が写っていた。

 その写真を見た瞬間、頭を割らんばかりの頭痛がシルフィエの意識を闇へ追い落とした。

 酷く微かに、「思い出せ」と言われたような気がした。


 イーリスが家へと戻ってくると、シルフィエは既にベッドで横になっていた。ここ数日、彼女は日に日に弱っていた。食事もうまく喉を通らない。イーリスは彼女に薬湯を飲ませ、部屋を後にする。

 扉を閉めて、一つ息をつく。左手は形見の指輪を握っていた。

(あと、少し)

 イーリスと兄は双子の兄妹であった。両親を早くに亡くした二人は施設で育った。他に頼るところもなかったが、お互いさえいればきっと大丈夫だと思っていた。

 兄が最後に海に出た日は海も穏やかであり、天候を読む星読み達も、あの日は船が沈むような天候の荒れは予期できなかった、と口をそろえた。

 とはいえ、海の天候が変わりやすいのは周知の事実であったし、星読み達が完全に天候を読み切れるわけでもないのもまた事実。イーリスもそうしてどこか割り切る形でやりきれない感情をなだめていた。兄の死体があがってくるまでは。

 兄の死体はふやけ食い散らかされ顔の判別はおろか五体満足にそろえることも難しいような状況だった。それでもなんとか集めてもらった中に、彼女の初めて作った、今見ればひどく不格好な指輪があった。兄はそれをいつも身につけていた。

 兄の葬儀が終わって、唯一の形見となった指輪を握って家へと戻った。兄が最期に聞いていた音を聞けたらと、海鳴石を再生した。何も音が入っていない可能性の方が圧倒的に高かった。それでも別に良いと思っていた。

 ノイズ交じりに再生されたのは嵐の音。だが、嵐の雨音に紛れた微かな「それ」にイーリスは気づいた。

 それは歌だった。荘厳でいて華やかな、この世のものとも思えぬ歌声が、そこには入っていた。

 それを聞いて、イーリスは一つの存在を思い出した。おとぎ話に過ぎないと言われながらも、この街すべての人間が心の奥で信じている、その存在を。

 セイレーン。海の魔女とも呼ばれるそれは、半人半鳥の姿をした亜人の名。花咲き誇る島に身を置き、ただ一人音楽の神ムーサにも愛されたというその歌声は妖しくも美しく、男を惑わせ嵐を呼んで船を沈めるという。

 兄は何も知らずに死んだのだろう。

 もしこのセイレーンが実在するというのなら兄と同じように何も知らないままに死に逝くべきだ。

 そんな妄執にイーリスが囚われるまで、そう時間はかからなかった。

 セイレーンの歌声の魔力は女性であるイーリスには届かない。イーリスがセイレーンを捕えるのに一番苦労したのが出会うことであったほどに、簡単にそれは彼女の下へ堕ちてきた。

 セイレーンは食事の必要がない代わりに歌をうたわなければその魔力を失い石となって砕け散るといわれていた。だからこそ初めにその声を奪った。記憶を植え付け翼を落とし足を与え、それを維持させるために毎日薬湯を飲ませ続けた。


 シルフィエがベッドに居つくようになって一週間。とうとう彼女は倒れた。近いうちに訪れることだろうと、シルフィエ自身も分かっていた。

 イーリスが彼女を抱き上げる。シルフィエは彼女の言葉を制した。言葉などすでに必要はなかった。

「わかっていたわ」

 声を出せぬようにされていた喉の深い傷が強い魔法による錯覚だとは、イーリスと兄の写真を見たあの日、全てを思い出した時に気づいていた。声を発すれば、彼女の服の背を破って羽の抜け落ちた翼の残骸が生え、膝から下は爪を持つ鳥のそれへと『戻る』。

「分かっていながら、どうして――――」

「―――楽しかったの」

 個体としての「セイレーン」という呼び名しかなかった彼女は、どのような目的であれ名前を与えられたことに喜びを覚えた。例えイーリスの下を離れ生きながらえたとしても、謳わねば生きていけない彼女は孤独にどこかでまた嵐を呼び、船を沈め続けることしかできないと分かっていた。

 ただ歌をうたい楽器を奏でるだけの生には戻りたくなかった。

 それならば、たとえ偽りであってもその優しさにおぼれて死にゆきたい。

 既に彼女の身体のほとんどは石と化していた。そのまま波にさらわれるように、シルフィエは意識を手放した。彼女の身体は石から砂へと変わり、その場にはイーリスの渡した貝のバレッタだけが残った。

(こんな形でなければ、私はあなたともっと長くいられたのかしら)

 それは、誰にも届くことなく虚空へと消えた。



了 

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聞こえぬ声 唯月湊 @yidksk

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