僕の世界

@rabbit090

第1話

 眠気覚ましの一杯はふとした瞬間に煮え立っていた。

 僕にとってのそれは唐突で急な出来事だった。まさしく眠気覚ましのあの温かく熱いくらいのコーヒーとひどく似通っていた。

 僕は中学2年生で、もう大人になってきているのかもなんていう感覚を体に感じていた時だった。

 中学2年生というのはそんな甘ったれた感性とは裏腹なほど苦々しいものだといずれ思い知るのに、まだ気づけてはいなかったのだ。

 「はい、終礼して。」

 そう短く言い切るのはクラスの中で浮足立っている女、いや表現が的確ではなかったかもしれない。だが僕が言いたいのはあの人は本当におかしな人だということに限る。

 「じゃあ、解散ね。」

 そう言って僕達のクラスは1日を終える。

 「秋本君。ちょっと来てくれる?」

 え、何だ?

 僕に話しかけてきたのは未次氏清みじしせい、このクラスの雑用を全て押し付けられ学級委員という肩書に満足しているパシリ女だ。

 関わりたくない。

 僕は変でおかしなやつとは関わり合いを持ちたくない。

 そもそも僕は保守的で、人生の中で特筆して苦しさを強いられた経験もなく苦い思いをさせられたことも全くない。

 だが最近はそれこそもしかしたら変なのかもしれないと思えてしょうがないのだ。生きているのに、呼吸をしているのに、人と関わって生きているはずなのに、何の変哲もないなんておかしいじゃないか、絶対に。

 「何?僕なんかしました?」

 関わり合いを持ちたくない人とは距離を置く。そういう風に決めている。

 僕は人生を重ねていく毎にマイルールを増やしていって、もっともっと自分に都合よく快適に暮らしていきたいと願っている。だから、

 「そんなことより、知らないの?最近クラスに来ていない蒲倉がくらさんのこと。仲良かったはずでしょ?」そう言われて、ギクリとしてしまった。

 蒲倉ビエは僕の幼馴染だ。

 ビエはどこかの国の人と日本人のハーフではっきりとした顔立ちをしている。だから僕は、あいつのことを嫌っていた。幼いころの人間というのは本当に大人が想像して求めるような思慮というものは全く持ち合わせていないのだから、誰かをとてつもなく酷な目に合わせることもいとわない。

 きっとそんな想像力すらまだ獲得していないのだから。

 ビエは僕が主導していじめていた。

 ビエはどんどん憔悴していって、表情は引いてしまう程、正直うっと思ってしまう程空っぽだった。本当に、恐怖を感じるといってもいいのかもしれない。

 「ビエ、悪かった。ビエ、ごめんな。」

 そして物心がつき始めた当時の僕は同じマンションの隣の家に住むビエの部屋に向かってぼそぼそと謝罪を呟いていた。聞こえるはずはないのに、聞きたいはずもないのに、僕はビエに謝り続けるしかなかったのだ。

 ビエ、ビエ。僕はあいつをそう呼び捨てにしていいはずがないのに、やっぱり突き放すように名字で呼ぶのも違っていたと思う。だってあいつは隣の家に住んでいるのだから。ずっと近くで育ってきたのだから。

 あいつの両親はいつも誰も何もしゃべらない。

 というか姿を見かけることもほとんどなく、ビエはどうやら一人で過ごしているみたいだった。それは小さい頃からずっとで、まだ僕と仲が良かった頃もそうだったから、あいつの空白を想像させる虚ろな眼差しはひどく恐ろしかった。

 だから印象に残っているし、だから僕は冷静をが取り戻すことができたのだ。

 あいつをいじめ抜いていた僕はふと我に返った、自分は何て残酷なことをしていたんだって、現実に引き戻されたような感覚になっていた。

 「ねえ、蒲倉さんのこと知らないの?私学級委員だからあの子にプリントを届けないといけないんだけど、一応親しい人と一緒に蒲倉さんの家に伺ってみなさいって言うから…。」

 へえ、なるほど。

 この人は変な人だけれど、しっかり学級委員なんて仕事をやらされているのだなあ、とぼんやり思う。

 「僕は蒲倉とは別に親しいわけじゃない。ただ一方的にあいつに話しかけていただけだ。」

 これは本当のことで、僕は、まともを取り戻したはずの僕は、その罪滅ぼしのために蒲倉ビエに話しかけ続けていた。いつかきっと答えてくれるかもしれないという、淡い思いを抱いていたこともあるのだけれど。

 「ビエ、今日のテストどうだった?僕は補講だってさ。ビエは頭がいいからきっと点数も高いんだろう?」そう吹っ掛けてでも、あいつは何も答えない。聞いていないのだろうか、もしくは聞かないようにしているのだろうか、そう思って一度あいつの顔を覗き込んだことがあるのだ。

 そこにあったのは何にも関心を抱くことのできない虚ろな表情をしたあいつがいた。

 思い返してみると僕とビエは仲が良かったような記憶がある。幼い頃の話だ。

 ビエは見た目が可愛かったから割とモテていたのだ。そしてそれだけじゃなく飛びぬけて仕草が可愛かったのもある。

 皆ビエに好感を抱いていて、男も女も隔てなくビエを取り囲んでいた。

 しかしクラスが違っていて久しぶりに同じクラスになった小3の頃、明らかにビエは昔の様子とは異なっていた。あいつに備わっていたはずの魅力が全て削がれてしまったように灰の色、といった感じでおかしくなっていた。

 僕はビエに話しかけたのだけれど、ビエは返事すらしてくれなかったのだ。

 それから僕はビエに執着し始めていじめという結果に至った。少し言い訳じみているかもしれないが、これが僕の感情や主義主張を織り交ぜた正直な感想のようだ。

 「未次氏さん。分かったよ。僕が一緒に行こう。っていうか隣の家だからな。」そう言い放って鞄を持ち僕は未次氏と一緒に蒲倉ビエの元へと向かうことになった。

 「ビエ、起きてる?」

 ああ、またか。

 まだ寝ぼけているというのに、早々こんなやつと会話しないといけないなんて。

 体の中にまとわりつくイラつきを隠すことができず叫ぶ。

 「放っておいてよ!」

 そして部屋の中に散らかるものを押しのけながら私は外へ出る。

 もう耐えられない。

 「もう耐えられない。顔から涙がにじみ出てくる。何でよ!」滲ませたくもない涙に怒りをぶつけながら、私は理不尽の渦中でうずくまる。

 外を歩きながら部屋着で涙を浮かべツカツカと歩く私の姿ははたから見ればさぞ滑稽だろう。私は歩く見世物だ。

 あんなにまともじゃ無い中で、順当にまともにならなかっただけなのに。

 世間一般のまともな生活を与えられた奴らがそのまま順当にまともになっただけでデカい顔を効かせて町中を闊歩している。

 「何がまともなのよ…。」

 私の中に眠るまともな感性が私の顔を赤く染め上げている。つまり、恥ずかしいのだ。

 このどうしようもない矛盾にいつも心が食われている、本当に苦しい。

 「ああ、また朝から最悪だ。」そう一人言葉を吐き冷静になった頭をこしらえて学校へと向かうために、制服等を身に着けるためにまたあの家へと戻ることにした。

 ガチャ。

 玄関の扉を開けるともう父親の姿はなかった。

 あの男はおかしい。もう生きている次元でおかしい。おかしいということにも気づかないのだから、さぞおかしい。

 おかしいという中で生きてきたのだから私もまたおかしいのだが。

 「もう人生なんて終わらせてしまおうか。」いつも通りこのぼんやりとした時間に、あの嵐のような感情の起伏を経験したその後に、私は死んでいなくなりたくなる。

 結局誰にも伝わらないのだし、結局そのままではダメらしいから。

 私がそのままでいると社会からは排除されるらしい、順当に。

 「ビエ、ビエ。」

 急に声がする。

 部屋の中にいるはずなのに、なぜ?

 ああ、そうだった。私は玄関を開け放ったままにしていたのだった。こんがらがった頭を冷やしたくてドアクローザーで閉まらないように栓を足元につっかけといたのだ。

 じゃあ外から誰かが私を呼んでいるの?

 と思って玄関の方に目を遣ると、そこにいたのは秋本令あきもとれいだ。

 憎いのか何なのかは分からない。ただ私をひたすらにいじめ抜き苦しめた張本人であることは間違いようがない。

 呆然とした私の前に急に現れたのは、昔なじみの男だった。

 「ねえ、蒲倉さんってどんな子?私あまり話したことないから…。」未次氏は僕にそう言うから、「見ての通り可愛い子だよ。」そう突き放すように吐く。

 「そうなんだね。でも秋本君は蒲倉さんとよくしゃべってるよね?そういう見た目のことじゃなくて性格とかについて話してくれない?私知らない人と話すと緊張しちゃって、先にどんな人か知っておきたいんだ。」

 この人は蒲倉のこともクラスのことも学校というものに対して非常に熱心なんだなと僕は思った。

 この学齢期という時期を誠実に過ごそうとすると未次氏のような女が出来上がるのか、と一人変な感慨を抱いていた。

 そうこうしているうちに僕は自宅兼蒲倉の家でもあるマンションの前にたどり着く。

 「ここか…。」

 「結構立派なマンションね。この辺住宅街だから一番高いんじゃない?私たちの学区の中で一番高層だと思うわ。」

 妙にませた口調で未次氏は呟く、というか僕の顔を伺いながら少しおののいているようだ。でもそれも無理はない、と思う。

 だって僕らが住んでいるマンションは果てしなく大きいのだから。上を見上げても天井が把握できないといったような高さになる。

 もともとこのマンションは特別で、国から許可を得て建築された実験的なマンションらしい。だから入居者も選定されて選ばれたということで、なぜ僕のような平凡な家庭にいる人間と、蒲倉のような見放された子供とが両立して存在させられているのか本当に分からない。

 特段の疑問は、だからこのマンションに住める人間の選定基準が何かということなのだが、知りようもないのでしばらくする内にどうでもよくなってしまった。

 「ここって、確か特殊なマンションらしいね。おばあちゃんが言ってた。ある日国が土地を買い占めて急に急ピッチで建設されたってこと。」

 と未次氏が言うから、「そうだね。」と軽く受け流しておいた。

 それにさらに、このマンションに入るためには身体検査を必要とするなんていう一般常識から外れたこともあるのだ。

 「まあ、そんなにかしこまることはないと思うよ。」僕はなぜか目線を泳がせながら緊張した様子の未次氏に声をかける。

 だが無理もないと思う。だって見渡す限り威圧を形にしたような男たちが立ち並んでいるのだから。中学2年生の女子生徒からしたら甚だ恐ろしく感じて当然の絵面だ。

 「未次氏さん。」

 そう呼ばれて固まったままの未次氏は連行されるように検査室へと連れていかれた。

 それが終わるのを待つ間、僕はぼんやりとマンションに共有玄関に設置されたベンチに座り空を眺めている。

 ここは空が見えるのだ。

 天井が吹き抜けのようになっていて、光が入るように設計されている。

 こんな意味不明なマンションになぜ光なんかをもたらそうとするのか全く理解はできなかったのだが。

 人はどうやら光と空を見つめると落ち着くような感性を潜在的に持っているのかもしれない、とちょっと気取った感じで思ってしまった。

 「ごめんね、終わったみたい。」未次氏はそう言いながら、不安げな顔をしていた。だから僕はなぜそんな顔をしているのかと聞いてみたのだけど、未次氏は何も答えなかった。

 ただ顔を背けて前を向き何事も無かった様にしたいらしい。そういう態度を示していた。

 「…。そろそろ蒲倉の家に着くよ。」僕は未次氏にそう伝える。

 しかしさっきから未次氏は硬直したように体をうまく動かせていない。

 どうしたのかと問いたいのだが、あの検査のせいだということがはっきりしているので詳しくは聞きにくいし、聞けない様子に感じる。

 「あのさあ、蒲倉さんって私ほとんど話したことがなくてね。ていうか私がクラスの中で浮いてるの知ってるでしょ?」

 唐突に話しかけてくるから驚いてしまった。

 この人は、未次氏は自分がクラスから浮いていることをしっかり認識しているし、どうやら気にしている様子だったから。

 「え?うん…。浮いてるっていうか、あまり親しい人はいないんじゃないのかって少し思っていたよ。」

 僕は失礼かもしれないが心の中で浮かんだことをスッと口に出してしまった。

 「ハハッ。そうだね。正直だね。私君となら、秋本君とならなんだか気を遣わずに話せるみたい。」

 そう未次氏は言った。

 僕は思っていた程未次氏が特異な奴ではないと感じたから、何だか距離が近づいたような心地を覚える。

 「あ、ここ蒲倉さんの家だね。」

 そうだ。ここは蒲倉ビエの家だ。

 「そうだね。じゃあ、チャイムを鳴らそうか。」

 僕がそういうと、「いや、空いているみたいよ。玄関。」そう未次氏が言うから、確かに開きっぱなしの扉がそこにはあった。

 ボーっとしていてそんなことにすら気が付かなかった。思えば多分、僕の中で蒲倉ビエに対する複雑な気持ちが渦巻いていて、他のことがおろそかになっていたのかもしれない。

 部屋の中が少し見通せるから、でも僕は驚嘆してしまった。

 ぎゃ。

 部屋の中は生活感を泥臭く濃くしたようなねっとり感が漂っていて、でも全く手入れがされていないからいびつだ。

 これは一言で言い表すなら、汚部屋というか行き届いていない手入れのままで、誰も行き届かせていない現実を感じさせる。

 「ハア…。」

 息苦しい。唐突にそれはやってくる。自分は一人きりだと、誰にも頼ることは確実に不可能で呼吸をすることは許されないのだと、そんな一人ぼっちの時間にやってくるのだ。

 私は隣の部屋から聞こえる秋本令の家の声を聞いている。

 非常に仲がいいように感じる。いつも笑っていて、テレビドラマで見たようなそのままを再現していた。きっとまともな父親とまともな母親がまともという共通概念のもとにまともを作り上げていったのだろう、とちょっと変なことを考えている。だってきっとあの人たちはテレビドラマそのままの家庭を築いているようなのだから。

 「がちゃ。」

 だけれども、私の現実はいつも重苦しくて、ああ、父親が帰ってきた音がする。

 私は嬉しいのだか何なのかいまいち分からなかった。

 ただ時間通りに生活をこなしていって眠りにつくまで、私は父親と最低限の接触をしなくてはいけなかった。

 食事は済ませているから、風呂に入ったり、洗濯物を片づけたり、父親がこなすことと私がこなすことが無意識のうちに区分けされていた。

 「許せないことがある。」

 ただ日常を過ごしているつもりだったのだが、最近は色々なことが許せないように感じている。

 許せるわけがない、許せない。

 「許せない。なぜ?」

 どうしようもないわだかまりを抱えていることはわかっていたし、どうにもできないということも分かっていた。

 手詰まりな現実が息苦しい、それは紛れもない事実なのだから。

 「令。」

 私は少しためらっていたから、口から自然と昔呼んでいた名前で彼のことを口にした。

 呆然としていたらつい名前呼びという恥ずかしい行為に気付いてしまい顔を引きつらせている。私はずっと例に対して複雑な思いを抱いていたらしい。

 「ビエ。ビエ。」

 ずっと口にできなかったなじみ深い名前。僕は初めて彼女の名前をしっかりと呼んだような気がしている。申し訳なさと許されたい衝動と心地悪さと心もとなさが相まって僕はうろたえていた。

 「ねえ、お取込み中のようだけど、ちょっといい?」この微妙な空気に切り込みを入れることができるのは未次氏くらいしか僕は知らない。

 「あのさ、私蒲倉さんとは初対面なんだけど、蒲倉さんってどういう生活をしているの?」未次氏はそう言った。

 「私の勘違いだったらごめんなさい。でもこの状況は絶対虐待じゃないのかしら。こんなに散らかっていて、こんなにあれ荒んでいる。普通じゃないと思うよ。」

 それは僕も思っていたし、分かっていた。

 だからビエは元々の器量の良さを失いおかしくなってしまったのだし、でもそんなこと踏み込める話じゃないからどうすることもできなかった。理解することも、救うことも、できなかった。

 僕らはまだ幼かったのだ、まだ10歳にも満たっていなかった子供だったのだから。

 「私は、別に…。」

 未次氏に問われたビエは何を聞かれていて何を答えればいいのか分からないというような挙動で言葉が先をつかないらしい。

 「別に虐待だとかよく分からない。」

 それだけははっきりと口に出すことに成功したようだ。

 でも当然だろう。虐待されていましたか?と問われて即座にうん、はいなんて答えられる人は少数だろう。

 それはきっとはっきりと自分の中で共同生活をしている家族から受けている仕打ちが虐待だと認識するまでの過程を経ている人なのだと思う。

 ビエは多分そうじゃないから、そうだとしても自分では分からない。

 そういうことなのだと思う。

 三人の間に微妙な空気が流れているから、もうしばらく誰も口を利くことはしなかった。

 そんな時、「分かった。蒲倉さんが一応元気だということは分かったし、学校へも行くつもりなのね。」未次氏は言って蒲倉はしばらくのをおいてうなずく。

 そうなのだ、そもそも僕らは最近学校へ来ていない蒲倉ビエの様子を窺うためにこの家へやってきたのだ。

 だが蒲倉を制服を着ていてどうやら学校へ向かう様子に見える。

 だから、「じゃあ、お邪魔しちゃってごめんなさい。また何かあったら言ってね。」と未次氏は言い、僕らは一旦退散することにした。 

 「………。」

 僕と未次氏の間には妙な沈黙が流れ続けている。

 僕らはまだ、このマンションの中を通っている。

 未次氏の顔をちらりと窺うと、なにやら緊張したような面持ちをしていた。実は身体検査の後から未次氏はあまり僕と言葉を交わそうとしない。ずっと積極的に話しかけていたのに、必要最低限という風にとどめるようになっていた。

 改めていろいろあったけれど、考えてみるとこのマンションはやっぱりおかしいのかもしれない。普通生活環境というのはそこに住む住人の世帯年収や趣向によって少しは偏って固まっていくようにも思えるけれども、このマンションにはそれが一片も感じられない。

 例えば最下層に住む住人は噂によると日本の富豪ランキングにランクインする様な金持ちであるというし、最高層に住む人間は一銭も稼ぐ力のない人だと伝え聞いている。

 甚だ社会の構造を無視したおかしな作りをしているのだなあ、と話を聞いて思った節がある。

 僕はこのマンションで生まれ育ったから、実はそれ以外の世界を知らないのだ。

 母親も父親も自分たちがどこから来たのかということや、出自について口にすることが一切ない。考えてみればおかしなことだけれど、そういうものかと飲み込んでしまえば特に目立つこともなくなっていた。

 「そういえばさ。」未次氏が言葉を放つ。

 何だろうと思いながら「何?」と応答した。

 「このマンションって、ちょっと変じゃない?」

 「え?」僕は急に本来の目的である蒲倉の話ではなくマンションに焦点を向けてきた未次氏の考えが分からず素っ頓狂な声を出してしまった。

 「変って、まあちょっと普通とは住んでいる人とかおかしなことはあると思うけれど…。一応政府干渉のマンションだからそういうこともあるんじゃないの?」と普段から僕が思っていることをそのまま口から出していた。

 「…。そうなんだけど。私聞いたの。おばあちゃんが昔からこの町には住んでいたから、あのマンションは本当に奇妙だと、はっきり言っていたの。」

 未次氏が言うことが一体どういうことなのだろうかと、僕は計り知れないのだから疑問を顔に浮かべている。

 「さっき身体検査があったでしょ?すごかったよ。何をしたかって、おかしいほど変なこと。持ち物検査はもちろんなんだけど、私の出自について公的なデータベースから徹底的に調べ上げているみたいだった。質問ももちろんそんな感じのことを聞かれて、正直精神のエネルギーを吸い取られるというか、疲れちゃったんだよね。」

 言い終えてから未次氏は僕の顔を見ていた。

 どう思う?という不安を率直に訴えかけてきているようだった。

 だけど僕はとんちんかんな奴だから、あ、未次氏って結構かわいい顔をしているのだな、なんて全く見当はずれのことを思考していた。

 「僕は…。」言葉に詰まる。正直このマンションについて深く考えることは意識的にしていなかったようにも感じるので、さらに深く思考するとどうなるのかいまいち不安がよぎっている。

 ここは僕の生まれた場所であり、家だ。

 誰かにとってのそのような場所と同じであり、批判を受けるようなところだとは思いたくないみたいだ。

 だから、「僕は別に何とも。ただちょっと成り立ちが特殊っていうだけで、特に変わったことは無いんじゃないの?」と自らに本当は沸き立っている知的好奇心に蓋をするように未次氏に告げていた。

 「……分かった。」

 言われた未次氏はちょっと苦い顔をしていたけれど、もうそれ以上は聞かない方がいいということを察したのか口を閉ざした。

 僕はやっぱり未次氏はをぶち壊すというより先読みしていくタイプだったのか、なんて変なことを考えていたのだけれども。

 憂鬱な部屋の中で私はただしゃがんでいる。

 まさかクラスメイトが私の家に来るなんて、久しぶりすぎて何故だか興奮していた。

 私は本当はずっと父親のことを呪っていて、もうそのことで頭の中がいっぱいだったはずなのに、私は外から来た新しい刺激に満たされていた。

 「秋本令とえっと、未次氏さん?だったかなあ。」

 呟いてみる。呟いてみると何となくそうだったような気がしてきていた。

 ずいぶん勝手なんだな、そんなことが頭をよぎる。

 やっぱり私は秋本令に対していい印象を抱けないようだ。もともと秋本令は小さく華奢だった。だから割と成長が早く人に溶け込むのが得意であった私からすれば、秋本令は眼中にもなかったのに。

 「私は秋本令に冷たい感情を抱いていたせいで、その報復としていじめを受けたのかもしれない…。」

 口に出してみたけれど、やっぱりおかしい。だって私は弱かった秋本令を労わるように孤立から逃れるよう配慮していたし、できる限りの面倒を見ていたような気がする、あくまで隣に住む幼馴染としてだけれども。

 鬱屈とした毎日の中で、久しぶりに同級生と会話をするという出来事に少し胸が高鳴ったのか、今日はいつもと違う落ち着かなさを感じながら眠りにつけそうだ。

 私はもうしばらくまともに眠れてなどいないのだけれども、今日だけは。

 「コンコンコン。ごめん、おばあちゃん。ちょっと聞きたいことがあるから、入るね。」

 私は今日不思議で不可解で奇妙で怪しい建物に立ち入った。

 色々な修飾語を付けているけれども、どれが相応しいのかも分からないくらい筆舌に尽くし難いというおかしさを持っていた。そのマンションは、同級生二人が住む場所だったのだ。

 「ああ、清。最近あんまりお話しできなかったもんね。おばあちゃんはいつでも大丈夫だから話しにおいで。」

 いつもと変わらないこのおばあちゃん然とした態度で私を出迎えてくれるのは、未次氏伊佐木みじしいさぎだ。ただでさえ特殊な未次氏という名字を携えながら名前までえらく立派なというか、派手な名前だとは思う。

 私は昔から目立っていた。

 この派手な名前はやっぱり由来があって、この町は未次氏町みじしまちというのだから、そう、私たちの一家はこの町一帯と深い関わりを持っている。

 それもただの昔からの土地持ちとか、そんなことでは無くそもそもこの辺は地価の高い高級住宅街と商業エリアが並立するお高いエリアとなっている。

 私たち未次氏家はずっとこの場所で生きてきたらしい。

 離れず、放さず。ずっとこの場所で生業を営んで生存してきたということだ。

 「おばあちゃん、あのね。私今日例のマンションに行ったの。」

 私はおばあちゃんの顔色をうかがいながら語りかける。おばあちゃんは少しキツイ顔をしていた、ちょっと怖いなって思うくらいギラリと光る眼光が私を見つめていた。

 「そう。前に私が言った場所ね。あのマンションは本当におかしな場所よね。そもそもここいら一帯は未次氏の家が掌握していたのに、ある日急にあのマンションを私たち一家の耳に一切入れずに建築許可を得て猛スピードで建てていたわ。」

 あばあちゃんはつまり、あのマンションに対していい印象を一切持っていないみたいだ。

 というか実はこの町の中でもひと際目立つあのマンションを快く思っていない昔からの住人は多く、だが私たちの学校で危惧されていた差別によるいじめというものはあまり発生していなかった印象がある。

 マンションの住人だから、よそ者だから、いじめようとはならなかったということだ。まあ、蒲倉さんのようにマンションとは関係なく学校になじめない子はもちろんいるのだけれども。

 「清、ところでさ。最近学校はどうなの?あなた、帰ってきてから遊びに行ったりしないじゃない。ずっと家にこもっていて大丈夫なの?」

 グサ。痛いところを突かれてしまった。

 まあ、そうなんだよね。私は正直人のことなんかまったく口にできないのだ、だって私は学校になじめていないし友達と呼べる人もいないのだから。それは昔からのことで、ちょっと目立つ未次氏という名前と家柄のせいもあるのだろうけれど、根本的に私は人づきあいが苦手なのだ。

 「大丈夫。てか大丈夫だから学校に通っていられるんじゃない。おばあちゃん、心配してくれてありがとう。」

 私はおばあちゃんが好きだ。

 おばあちゃんは私にドラマで見たような普通を体感させてくれる。優しいおばあちゃんと素直な孫、理想の関係なのだろう、人々にとって。

 「ただいま。」

 私とおばあちゃんは目を合わせる。

 はたから見れば目くばせをしあって幼稚ないじめにいそしんでいる二人に見えるのかもしれないが、それは断じて違う。

 私たちは本当に厄介な人が家に帰ってきたのだから、お互い辟易し合っていてそれを共感しているだけなのだ。

 「……ただいまって言ってんだろ!」

 強い足音を立ててやってくるのはこの家の主、おばあちゃんの夫だ。

 「清、私たちってね、別に好き合っていたわけじゃないのよ。」急におばあちゃんがそんなことを言い出すから、幼かった私は「え、何のこと?」と聞き返してしまった。

 それはおばあちゃんの息子、私の父親が死んだ時のことだった。葬式の帰り道に一緒に歩いていた私に、告げていた。

 「ふふ、急にごめんね。でもふと考えちゃったっていうか、思っちゃったんだよね。」

 おばあちゃんは少し苦しそうな顔で笑っていた。

 私は多分これはおばあちゃんの夫、私の祖父の話だろうと分かっていた。だって祖父は祖母のことを全く家族として認識していないようだったからだ。

 大事にしているような素振りはなく、ただ同じ家に暮らしているだけで会話もロクに交わしていない。

 「ねえ、やっぱりおじいちゃんのことだよね…?」私は様子を窺うようにゆっくりと言葉を吐き出した。

 だから私はゆっくりとうなずくおばあちゃんを見つめながら言ってしまった。

 「じゃあ、なんで結婚なんてしたの?」

 「………。」黙ったまま返答に困っているおばあちゃんの顔が私から目をそらしたときに気付く。

 言ってはいけないことを言ってしまったっていうことに。

 私はずっと疑問に思っていたのだ。幼いながらもあれ程我の強い祖父と心根の優しい祖母がなぜ一緒に暮らしているのか。幼心ではさらに分からなかった。

 そんな到底理解不可能な生活を取り巻く環境の中で、私は少しずつ歪んでいったのかもしれない。

 その証拠に私はこうやって社会に溶け込めずにうまく立ち回れずに、苦しい。

 「ごめんね。」

 私は確かにそう言ったように記憶している。濁してしまった空気を少しでも元通りにしたかったから。

 おばあちゃんはただ笑いながら黙っていた。

 「っ!」

 「清っ!」

 はっ。まただ。

 「清、どうしたの?さっきからずっと声をかけていたのに、心ここにあらず上っ面だけ動かしていて、大丈夫?疲れてるの?」

 私の顔を覗き込んでいるのはおばあちゃんだった。

 私はまた申し訳ない気持ちでいっぱいになっていた。

 だって本当に心配そうな顔をしながら見つめてくれるのだから、やっぱり申し訳ない。

 私はこんなにくだらない人間だっていうのに。

 「……、大丈夫。心配ししてくれてありがとう。」

 大丈夫ではない。全く大丈夫などではないのだ。

 私はここ最近ずっと、眠れてなどいないのだから。

 だから授業中にふっと意識を失って気が付けばすごく時間が進んでいたなんてことが最近は続いている。

 本当はこんなことを続けていたら死んでしまうのかもしれないという恐怖を抱いていて、だから早く収まってくれないかなあ、なんてぼんやりと思っていた。

 「令。」

 僕はいつも思っている。

 お父さんとお母さんはなぜ一緒に居続けているのかってこと。

 二人は結局赤の他人で、僕だって友達とはそんなにずっとは一緒にいられないと思っているから。

 クラスが変われば疎遠になるし、その内音信不通のような関係になるのだってままあることのように感じる。

 だって僕たちはもちろん赤の他人なのだから、それしか理由はない。

 生まれも育ちも違う母と父はなぜずっとくっつき合いながら僕を育てていけるのか本当は疑問でしかなかったのだ。だから、

 「ママ、なんでパパは帰ってこないの?」

 聞いてしまった。聞いてはいけないことを。

 「令、令。」

 僕は母をママと呼んでいる。昔からずっと、だからあえて変えようとは思えなかったのだ。

 ママが僕を呼ぶ声はいつもねっとりしていて、どこか甘えたような感じを含んでいる。

 「パパ、出かけてるの。たまにしか帰ってこないのはお仕事だからよ。」

 どこかのドラマで聞いたようなセリフを吐く。

 ママはすごく辛辣な顔で何かを隠しているようだった。

 だがしかし、だがしかし。

 僕は知っているのだ、全てを。と、いうかパパから聞いたし、見たのだから。

 パパが最愛の人とお付き合いをしているということを。

 そして僕は二人と一緒にいる時間が一番幸せだった。幸福に包まれていて、僕を温かく迎えてくれる、その人たち。

 パパと冴子さえこさん。

 「令君、私たちと一緒にいて嫌じゃないの?だってお母さんのこと好きなんだし、まあ分かっているとは思うけれど、私たちは不倫という関係なのに…。」

 冴子さんは気の利く人だ。

 父親の不倫相手という子供からしたら最も憎むべき相手のような気もするけれど、僕にとってはただのいいお姉さん、としか言えないし感じられない。

 「冴子さんは一緒にいると楽しいから。僕は全部わかっているけど、全然平気なんだ。それにママにはお母さんには、知らないってことにしているから。」

 不安そうな冴子さんに僕は安心させようと最大限気を使った言葉をかけている。

 それを見た父は、「悪いな。」と一言つぶやくだけだった。

 正直僕からしたら、僕という存在がいるからこそ愛し合っていない父と母は共同生活を営み続けているだけで、むしろ僕のためなのだと分かっているから申し訳ない気持ちになってきてしまう。

 それに僕は今の環境に満足している。

 暇なときに相手をしてくれるお姉さんがいて、しかもパパと一緒に僕を大事にしてくれて、家に帰れば優しいママが僕を癒してくれる。

 最高に幸せじゃないか…と思うのだが。

 だが欠点が一つあるとすれば、ママは、母は非常に傷ついているということだ。表情からも分かるし、空気を読めば明らかだ。

 だから僕は、僕は早く大人になってしまいたかった。

 そうすれば今の複雑な関係もクリアになるんじゃないかと期待しているから、きっと誰も不幸にはならずに済むような気がしているから。

 「おいいい加減にしろ。」

 そんな時だった。

 父と母が妙な顔つきをして言い争っているから何事かと思っていた。僕はちょっと不穏すぎるかもしれないと尻込んで自分の部屋から様子を除くという程度に止めていた。

 僕は中学校に学年が上がってから少し感じていたのだけど、母と父はもう限界のようだった。お互いがお互いを大事に思っていないばかりではなく、やっぱり男と女は愛し合っていないと一緒にいられない生き物なのかもしれないと、ちょっと大人びたことを考えてしまった。

 でもだって、父と母を見ていれば全くそうなのだ。その通り、一切の他の意見の余地はないと断言してしまおう。

 「何よ、あなた浮気しているくせに。私知っているのよ。令と一緒にあの人と会っているんでしょ…!」

 涙声にも聞こえるような震えた声で屈辱をこらえるといったような口調になっていた、母はもう疲れ切った顔をしていた。

 考えてもみればそうだ、母は女性で父は男で社会的に自立しているから離婚しても多分、今と全く変わらない穏やかな生活を手にできるのかもしれないが、母は違う。

 いきなり外の世界の放り出されて右も左も分からず、ただ苦痛を感じることになるだろう。

 本当に理不尽じゃないか。

 「ねえ、パパママ。」だから僕は、

 「もういいよ。離婚しなよ。手放しちゃえばいいじゃないか、お互いがお互いのこと。僕はママのことを支えるから、パパはちゃんと僕を金銭的に支えてくれればいいよ。大人になるまででいいからさ。」

 ドラマのようなセリフを色を込めて言いのけてやった。そうやって僕は今の現状を打破することが最善なのだと思っていたし、きっとこの方法しかないだろうと決めつけていた。

 ひどく、狭い世界の話であり、狭量な僕だった恥じ入っている。

 だって現実はもっと残酷で、恐ろしいものだったのだから。

 「違うんだ。」そう断言したのは父だった。この時ふと、僕はもうパパやママだなんて言葉は使いたくないとはっきりと思い始めたのだった。

 「全く違う。パパとママは離れないんじゃなく、離れられないんだ。それは絶対にお前のせいじゃないんだ。」

 一瞬どういうことだか分らなかったのだが、きっと僕のせいで離婚という結末に至りそうだ、ということを突きつけないためにあえて誤魔化そうとしてくれているのだろう、とぼんやり思っていた。

 が、「本当に違うのよ。」すごく冷めた声音でママが呟く。これは本当に怖かった、だっていつものねっとりとした声ではなくひどく冷たい知らない人のような心地で話すのだから。

 「え?」そう声を出すのが精いっぱいだった、僕をしっかりと二人は見つめている。何かを伝えたいという思いが二人の表情から読み取れてしまう。

 「知ってるだろ?」そういうのはパパで、「このマンションであなたはずっと生きてきたのだから。」これはママが言っている。

 だから何なのだろう、マンションで生まれて育ったのだから知っていること?

 そんなもの全く思い浮かばなかったのだ。

 だが一つだけ、確かな事実として知っていることがある、でもそれはきっとパパママが言うように重大なことではないような気がする、だって僕たちはそれを当たり前と思いながら生きてきたのだから。

 「ねえ、それって。このマンションの人間はみんな、無職だってこと?」

 パパとママは顔を見合わせている。そして頷いていた。

 無職といっても仕事はしているのだ。だが給料として民間の会社なりなんなりから振り込まれたものは徴収され生活に必要な金額を入金されるという仕組みになっている。

 ずっと言っていた通りこのマンションは特別なのだ。

 この仕組みに賛同できる人間だけが暮らしていて、しかし秘密としてあまり表には出ないように、この事実を知ったものには秘匿を義務付ける誓約書を書かせるのだ。

 しかしこのマンションは本当に充実していて、生活の上で必要なものが全て優先して提供されていたりする。

 だから応募も多かったと聞くし、なぜ僕たちの家みたいな普通の家庭が選ばれたのかも分からない。

 だが、だから何だというのだ。

 パパとママはなぜ無職だから別れられないと言っているのだろう。

 いや、違うのかもしれない。このマンションに住んでいるから、別れられないのかもしれない。無職とか無職じゃない、とかではなく。

 「つまり、私たちはこのマンションと契約しているの。このマンションに住むということは、永遠に死ぬまで同じ家庭を維持しなくてはいけない。勝手に抜け出せないということなのよ。」

 とママが神妙な顔つきで目を合わせずに語っている。

 つまり、どういうことなのだろうか。

 「逃れられない。僕たちは逃れることはできない。」父はそう言って、最初から説明する、とだけ告げた。

 なんというか、複雑な話だと思った。

 父と母は割と不幸な状況に陥っていて抜け出せなかったという経験を若い頃にしていたらしい。

 だから何とかそこから抜け出そうとして見つけた糸口がこのマンションで夫婦として共同生活を営むことだったという。

 二人は愛す、という感情は持っていない関係だったのだが、とにかく困窮していて考える余裕もなかったものだからとことを急いでしまったと言っていた。

 今では少し後悔している、とも。

 僕はぼんやりと寝床に座っている。

 なぜだか横になる気分ではなくて、少し憂鬱だけれども嫌な感覚ではなかった。ただぼうっと、時間が過ぎるのを体で感じているようだった。

 「ドンッ。」

 未明のことだった。

 朝目覚めたらこのマンションは破壊されていた。

 新聞の報道を図書館で読んでいると、どうやらこのマンションは違法に違法を重ねた越権極悪の薄汚い悪にまみれた建物だということだ。

 なぜそんなものを建造したかということについては一切触れられてはいなかったが、人々の関心事はそこにあるようで、ワイドショーやゴシップではあることないこと徹底的に争論の種になり果てていた。

 「とんでもないことになったね。」

 図書館で資料をめくっていると隣に未次氏清が座っていた。

 全く気付くことができなかったが、「馬鹿だな、私1時間くらい隣に座っていたんだよ。気づかないなんて、どうしちゃったのよ。」未次氏なりのおどけた口調で、でもそのセリフを吐く顔つきは優しかったから僕を少しは心配してくれているのかもしれない、と思っていた。

 「あのさ、蒲倉さんはどうなったの?」

 「分からない。僕たちはたまたま無事だったけれど、マンションの中に住んでいる人の内では未だに生存があやふやな人もいると聞いているから。」

 僕は率直な事実だけを告げている。

 あのマンションは世の中の法律というものに当たり前のように違反していて、しかも極度にイカれているということらしい。

 その後僕は父と母から聞いたのだが、二人はそもそもまともな職には就いていない状態で、でもあのマンションに入居したとたん生活が驚くほど安定し始めたということだ。まあ、それは職に絶対あぶれない、という不思議なお墨付きが存在していたというのが理由らしいけれど。

 父と母はでも、世間一般的には無職ということで通っていた。現実には毎日お勤めをしていたのだけれども、それはただ単にマンションの中のボランティアのような扱いだったらしい。

 「僕たちはいったいどうなるのだろう。」

 単純に思ったことを口にしてしまった。気づいた時には未次氏が不安そうな顔で僕を見つめていた。

 「そんなに心配しなくてもいいよ。」

 伝えるのは切実な声だった。

 「私たちは世の中のことすべてを背負えるわけじゃないんだから。ただ流されるしかないのかもしれないしね。でも、でも私は何か大切なものを見つけていたいと思ってる。」

 未次氏はすごく真剣な表情で胸の内を語っていた。

 「でも、未次氏はそういうけど、僕たちにとってはすべてだったんだ。蒲倉にとっても多分、あのマンションに住んでいる人はみんな居場所を失ってしまったのだから。世間から白い目で見られるというオプションも付いているのだし、絶望という言葉がこれからを指し示しているような気がするんだ。」

 呼応するように自然と、僕も胸の内を語っていた。

 重いとか軽いとか、しつこいとかめんどくさいとか、どうでもいいような感覚があって、ただ溶け合いたいというような心地にただ近くて、僕たちは言葉を紡ぎ合っていた。

 「ビエ。蒲倉ビエ。」

 私の名前を呼ぶのは誰だろう。

 いつも気分が沈んだり浮かんだり、盛り上がったり沈んだり、落差が激しくて疲れていた。こんな毎日に、だから辟易していた。

 「…大丈夫か?」

 大丈夫?そんなわけないに決まっている。私は本当はいつも、誰よりも大丈夫などではなかったのだから。

 「目、開けられるみたいだな。分かるか?叔父さんだよ。久しぶりに見たからきっと分からないと思うけど、見てくれ。」

 叔父さん?私に叔父さんなんていたっけ?

 私はずっと狭い檻の中のような部屋でただ父と二人っきり、息苦しいまま生きていたような記憶しかない。

 だから多分親族を言い表す叔父なんて、いたのだかどうかもピンとこない、全く見当外れだ。

 「大変だったな。お前、僕とはほとんど会ったことないだろう?僕の兄、お前の父さんがな、家族を嫌って実家に帰っていなかったんだ。だから全く交流が無かったんだよ。」

 叔父と名乗る男性は、なぜだか優しそうな顔で、でも本気で私を心配しているような面持ちをしていた。

 私は自分にそのような扱いを受ける権利があるのかどうかということばかり気にしていたのに、だんだんとどうでもよくなってきていた。

 「…おじ、さん?」私は口を開く。

 「何だ?なんでもいいから言ってごらん。なんでもいいから話してくれた方が叔父さん、安心するから。」

 ずっと優しい口調と人をおもんぱかる眼差しを遣うことのできるこの人に、私は嫌われたくなくてまた口を閉ざそうと考えていた、が。

 その時、叔父は少しうつむきながら言葉を紡いでいた。

 「お前の父さんな、お前たちが住んでいたマンションの事件に巻き込まれて重体なんだ。もう意識も戻らないのかもしれない。植物人間というやつに当たるらしい。」

 唐突に放たれた言葉は、私を縛り付けて不幸の中に引きずり込んでいた憎い父が、もはや憎める対象ではなくなったのかもしれない、というポカン、とした空白を抱くことしか私にはできなかったみたいだ。

 「え…?」私は口から出てしまった言葉と、苦い顔をこちらに向けている叔父の表情を眺めて、ごちゃごちゃしている頭の中をただ落ち着かせることだけに神経を使っていた。

 黙ったまま叔父さんは私をどこかの部屋へと連れて行った。

 私は少し怖かったけれど、ふらふらとした足取りの中でもどうしても辿り着かないといけないような気がしていた。

 叔父さんの動きは重く、緊張しているような状態だった。だから引きつられて気持ちが引き締まっていたのかもしれない。

 でも、行き着いた先にいたのはくだにつながれて目を閉じている父だった。

 ちょっと驚きはしたけれども、叔父さんの様に悲愴ひそうな雰囲気を漂わせることは無く、むしろ私は何だか何故だか、何故だろうか脱力を覚えてしまっていた。

 父親が無力になったと知って、すごく不謹慎なはずなのに、私は自分のこれからのことについて思考を巡らせていた。

 このままいくと叔父の元で世話になるのだろうか、もしくは施設のような場所で生活することになるのか、いろいろ頭の中を巡っていたのだけれど、どれも今までに感じたことがないくらい興奮を覚えるものだった。

 この余りにも自分勝手な自分の考えに驚きと呆れを感じているにも関わらず、この時になって初めて私は自分を殺していたのだと、そんなことを思ってしまっていた。

 何かをしたい、やりたい、そんなことにワクワクする自分を人生で初めて発見したような気持ちを見つけてしまったのだ。

 「えー、マンションの倒壊に関するニュースですが、テロとの見方が強まっています。」

 「怖いですねぇ。」

 「何でね、そもそもあの違法建築はずっと容認されていたのか、そこが問題なんですよ。」

 「まあ、とにかく社会に不満を持ったグループによる犯行とみられています。」

 僕と未次氏は海にやってきていた。

 波の音が心地良くて自然と笑顔が出てしまう。

 「すごく混乱しているらしいね。」

 未次氏は語りかけるようにささやく。その声がくすぐったくてなんだか恥ずかしくなってきていた。だから、「もうそんなことどうでもいいじゃないか。僕は今この海辺で風を感じて鼻から潮の匂いを感じることに精一杯なんだから。」適当なことを呟いてしまっていた。

 だが本当にもう全部どうでもよくなってきていた。

 ありったけ頭を使った後だったから、ただ逃げ出したくてでも行ける場所と言ったら電車で数十分足らずのこの海沿いの町ぐらいしか思いつかなかった。

 僕の世界は本当にとても狭いのだなあ、などと薄っすら思っていたのだ。

 「私ね。」

 未次氏は何かを決意した様な顔でこちらを見つめている。

 僕はほんの少しだけドキリとしてしまったみたいだ。未次氏、一体どうしたんだよ。

 「私は、分からない。今この現実に直面して全く先が見えなくなって、何をすればいいのか何をしたいのか何かをしなくちゃいけないのか、読めない。」

 神妙な顔で語り始めた未次氏はひどく苦しそうだった。

 あ、あれ。あれ。未次氏、おい。

 心の中で沸々と葛藤が沸き上がる。それは不安とともに増大していってそろそろ手に負えなくなってきているようだった。どうしよう。もう、それ以上セリフを呟くな。未次氏!

 「ドサッ。」

 何かが崩れ落ちる音がした。

 少しだけとなりを見ると、それは未次氏の命が尽きたという音なのだった。

 僕はただ茫然とその様子を眺めることしかできなかった。だから本当に自分はちっぽけなのだと教えられたような心持ちになっていた。

 助けられなかったという後悔は言葉にはできないほどの重さで、今の現実を認識したくなかったから僕は家を出た。

 中学2年生で、何か大切なものを、取り返しのつかないほどの何かを失ってしまったのかもしれない。実感としてはどう言葉で説明すればいいのかは全く分からず、でも確かにこの空洞を心に生じさせる程の何かを僕は失っていた。

 気づいたら見たこともない町にやって来ていた。

 見知らぬ人が行き交っている、本当に何も知らない異国に来てしまったような心地を覚えていた。ここは同じ国だというのに、同じ人達が同じように住んでいるはずなのに、僕は寂しくて空洞が、その空っぽの具合が心地寒くてただ辛かったのだ。

 でも今のひどく感傷的な気分を慰めようとするならば、このような場所でただ浸ってしまえばいいとすら思い始めていた。

 こうやってできた手に負えないこの気持ちをどうすればいいのか持て余していた時、僕たちは再会した。

 そこに立っていたのは、

 「令?」

 蒲倉ビエだった。

 世界は混乱に陥っていて、まともじゃなかった。だから皆が自分で物事を測って生きていかなくてはいけない状況になっていたのだ。

 子供たちはもう子供という身分などなくなっていて、自分のことで手一杯な親とは縁を切り、いや縁を切られ自ら生活を切り開くようになり始めていた。

 「蒲倉。いや、ビエ。」

 僕はずっとつくろっていた自分をもうはぎ取ってしまっていて、過去の罪にとらわれて無理に親しげにビエ、だなんて呼び捨てにしていたけれど、やっぱり僕らの距離感は蒲倉と呼ぶ方が相応しいような気がしているのだから、もう僕はそのままの自然体で接することにした。

 「うん、蒲倉でいいよ。むしろなんでずっと私のことビエだなんて呼んでいたのよ。アナタは私にひどいことをしてきたのだからむしろ敬遠してくれた方が自然だとずっと思っていたんだから。」

 蒲倉はどこか前より大人びて見える。

 おどおどとした態度はもちろん彼女の魅力で今も残っているのだけれども、でもその中に揺らがない何かを内包していて全く不安定なようだとは感じないのだから。

 「そうだな。もう取り繕う必要はないんだ。こんな風に状況がめちゃくちゃになってしまって、僕らは今まで通りの普通なんて持ち合わせることはできないのだから。でもさ、本当に偶然だよね。僕たちは何か縁があるみたいにずっと一緒に生きてきたような気がしているんだ。」

 蒲倉は顔をそむけながら言った。

 「しょうがないよ。世界は狭いんだから。こんな行き場のない子供が生きていける場所なんて限られていて、たぶん私もアナタも必然的に追いやられるようにここに行き着いただけだと思ってる。」

 僕は確かに、もっともだと思った。

 あんなに弱っていた蒲倉が知らぬ間に大人になっている様に感じてしまった。

 もしかしたら、こんなことは不謹慎なのだけれども、蒲倉を縛っていた家族という環境から抜け出し自分の力で切り開くことで、こんなにも簡単に本来の姿を、いや自分を取り戻すといった方が正しいのだろうか、とにかく蒲倉は変わっていた。確かに、はっきりと、見違えてしまっていた。

 「そうだね。」

 僕は端的に返事を返し、蒲倉も止めていた足を進めようと支度を始めたみたいだから、「じゃあ、またね。」とお互い言い合いその場を離れた。

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