【短編】空色の姫とお医者さま

ゆちば@「できそこないの魔女」漫画原作

空色の姫とお医者さま

 わたくしは、空のように晴れやかな蒼の髪と、太陽のように輝く金色の瞳が自慢の、アストリア王国の王女です。


 アストリア王国は、美しい山々と清らかな湖に囲まれた、ステキな国です。少なくとも、わたくしはそのように記憶しております。

 というのも、わたくしは5歳の頃から5年間、そして今も、お城の部屋から出ていないため、外の様子が分からないからです。


 なぜ、わたくしがずっとお城の部屋にいるのか?


 それは、お城の外には【病気】があふれていて、幼いわたくしには危ないからだと、お父さまとお母さまはおっしゃいました。


「【病気】から、お前を守るためだ。分かってくれるね?」

「この部屋は安全だから、絶対に出て来てはなりませんよ」


【病気】とは、「生き物を苦しめる怖いもの」だと、本で読みました。そのような恐ろしいものに、わたくしは出会いたくありません。


 何より、大好きなお父さまとお母さまのお言いつけですから、王女のわたくしが破るわけにはまいりません。

 いつか【病気】がアストリア王国からなくなったら、一緒に外に遊びに行こうと、お父さまとお母さまはおっしゃいました。


 だからわたくしは、その日を──、お父さまとお母さまにお会いできる日を、ひとり、部屋で待ち焦がれているのです。





 わたくしの朝の日課は、お城の部屋の窓から、外を眺めることです。


 空色の髪をくしで梳かしながら、遠く遠くを眺めます。


 お城は、山の高い所にあるのでしょうか? 


 周りは、たくさん木が生えていて、遠く下の方には、町が見えます。

 町は、人々が生活を営む場所だと、本で読みましたが、どんな人々が暮らしているのでしょうか? 夜にはキラキラと星のようなあかりが灯りますから、きっとロマンチックな方々なのでしょう。


 いつか、あの町に行ってみたいです。


   



 お食事は、廊下側の小窓から差し入れられます。


 いつも、コンコンッと小窓を叩く音がして、わたくしが駆け寄る頃にはどなたもいらっしゃいません。理由は、わたくしに【病気】を移さないようにするためでしょう。

 わたくしは、こんなに美味しいお食事を作ってくださるシェフに、「いただきます」も「ごちそうさま」もお伝えできないことが残念でなりません。






 お昼前には、診察があります。


 わたくしの体調を確認するために、お医者さまが部屋に来てくださいます。そして、このお医者さまが、わたくしの部屋で、わたくしのお話を聞いてくださる唯一の方です。


 だから、わたくしの最も楽しみな時間です。


「お医者さま。わたくし、今朝は、窓からツバメを見ましたの。春に人里で子を育てて、その後はもっと暖かい国に飛んでいくのでしょう? 本で読みましたわ」

「…………」 


 お医者さまは、いつも眼鏡越しにわたくしをチラッと見るだけで、何もお答えにはなりません。それに、体全体をすっぽりと覆う白いお洋服と、口を隠すマスクをされているせいで、表情や、性別すらも分かりません。


 ですがお医者さまも、わたくしに外の【病気】を移さないようにしていらっしゃるのですから、仕方ありません。


「お医者さま。わたくしの血からは、何が分かりますの?」

「…………」


 わたくし、もう注射を痛がったりしません。だって、慣れてしまいましたもの。


「お医者さま。また明日もお待ちしておりますわ」





 夜は、もちろんひとりで眠ります。


 きっと小さい頃は怖かったと思いますが、今では、窓から星を眺めながら眠りに落ちていきます。

 お城の部屋から見る星が、毎日少しずつ場所を変えていることが分かってからは、星の本も読むようになりました。






 大好きな本は、朝食の後に部屋の廊下側の小窓の前に置かれます。


 伝記に図鑑、小説に辞典……。リクエストはできませんが、色々な本がやって来ます。

 でも、あっという間に読み終わってしまうので、わたくしは次の本が楽しみでなりません。







 そしてある日、小窓の前に本がありませんでした。


 係の方が、置き忘れてしまったのでしょうか? それとも、お休みされているのでしょうか?


「もし~? どなたか、本を持って来てくださいませんか?」 


 小窓から叫びましたが、誰も答えてはくれません。わたくしは、ただがっかりするしかありません。

 だから、わたくしはすでに読み終わった本を読み返しながら、お医者さまが来られるのを待ちました。





 いつもと同じお昼前に、お医者さまはお見えになりました。


 けれど、いつもと違うことは、お医者さまが本を持って来られたことです。


 それは、子ども向けの物語でした。難しい本をたくさん読んできたわたくしには、少々子どもっぽい本に思えましたが、お医者さまが本を選んでくださった気がして、嬉しくなりました。 


「まぁ! ありがとうございます! 今日はどうしてお医者さまが?」

「…………」


 やはり、お医者さまはお答えくださいませんでしたが、わたくしにはお医者さまが照れていらっしゃるように見えたのです。 


「とても嬉しいですわ。明日、感想をお伝えしますね」





 その夜、わたくしはお医者さまが持って来てくださった物語を読みました。


 ヤマト王国という架空の国を舞台に、剣士が悪党から姫君を助けるお話です。挿し絵もステキです。とくに、登場人物たちのキモノという衣装が興味深く、わたくしにお裁縫の才があれば、再現するのに……と、残念でなりません。


 そして、この物語の姫君ように、わたくしもステキな殿方に出会えるのでしょうか。






 それからは、毎日、お医者さまが本を持って来てくださるようになりました。 


 その本は、前日にお話しした他愛もない内容と重なっているように思えます。


 たとえば、お裁縫の話をすれば、布の扱い方の本。動物の話をすれば、子犬の物語。お料理の話をすれば、レシピの本……。


 わたくしは、お医者さまがわたくしの話をきちんと聞いてくださっていることが分かり、診察の時間がますます楽しみになりました。





 しかし、楽しみができたと同時に、わたくしはひとりでいる時間が寂しくなりました。


 お城の窓の景色は、とても狭いこと。本を読み終わると退屈であること。話し相手がいないこと──。


 外の【病気】は、どうなっているのでしょう?

 きっと今この瞬間にも、【病気】と戦っている方がいらっしゃるのでしょうが、いったいいつまで続くのでしょうか。わたくしは、いつまでお城の部屋にいれば良いのでしょうか?


 お医者さまが持って来られたアストリア王国の歴史書にも、【病気】との戦いのことは書かれていません。


 考えても考えても分かりませんので、ある日、わたくしは、お医者さまにお聞きしてみることにしました。


「お医者さま。お城の外の【病気】は、まだ悪さをしていますの?」


 その時わたくしは、お医者さまはいつも通り、お答えにならないだろうと思っておりました。きっと、明日の本でお返事をしてくださるのだろうと。


「どうだろうな」


 ふと聞こえた大人の男性の声に、わたくしはとても驚きました。


「お医者さまは、男の方だったのですね! 初めてお声を聞きましたわ!」


 わたくしは、つい嬉しくなって、飛び跳ねそうになってしまいました。するとお医者さまは、今度は「動くな、危ない」とおっしゃられたのです。 


「申し訳ございません。注射の途中ですものね」


 わたくしは、注射器に血が溜まっていくのを見守りながら、落ち着くように自分に言い聞かせました。だって、お医者さまにご迷惑をお掛けして、嫌われてしまってはいけませんから。


「外の──、アストリア王国のことが心配ですの。ここは安全だから出ないようにとお父さまたちはおっしゃられましたが、国民はそうはいきませんでしょう?  お医者さまは、何かご存知ではないかしら?」


 注射が終わると、お医者さまの視線がわたくしに注がれました。マスクをされているので表情は分からないと思ったのですが、お医者さまの黒い瞳は、少し悲しそうに見えました。何かあったのでしょうか。


「姫さんは、王と王妃の言いつけを守って、ここに篭ってんのかい?」


 お医者さまの声は、すっぽりとした白い服とマスクを通していますので、とても聞こえづらいです。しかし、せっかくお話ししてくださっているのですからと、わたくしは一生懸命に聞き取りました。


「そうですわ。わたくしを【病気】から守るためだと言われましたの」

「だいぶ長いよな」

「それはちゃんと分かってますわ。わたくし、毎日数えていますもの。今日で、5年と13日ですわ」

「そうか……。なら、俺の方が先輩だな。俺は6年と13日だ」


 お医者さまは、注射器を鞄にしまいながらおっしゃいました。そして、それと引き換えに、新しい本を渡してくださいました。


「今日は、海の本だ。海はでかいんだ。湖とは比べ物にならない」

「まぁ、ステキ! 海は見たことがありませんから、わたくし本を読むのが楽しみですわ!」


 わたくしは、大喜びで本を受け取りました。早く読みたくてたまりません。


「お医者さま。ありがとうございます。……あの、今日はどうして、お話ししてくださったのですか?」


 わたくしは、部屋から出ようとするお医者さまを呼び止めようとしました。しかし、聞こえなかったのか、お医者さまは黙って出て行かれてしまいました。


 結局、聞きたいことは何も分かりませんでしたが、わたくしはとても上機嫌でした。だって、久しぶりに人の声を聞いたのですから。





 その夜、わたくしは海の本を読みました。 


 海はしょっぱくて、たくさんの生き物がいて、とても大きい。そして、島を繋いでいるそうです。


 島々が載っている地図も描かれていて、我がアストリア王国は、海には面していないことが分かりました。


 いつか海を見てみたいですが、わたくしがアストリア王国から海へと赴くのは、とても遠くて大変そうです。


 そしてわたくしは、地図の中にヤマト王国という国を見つけました。以前読んだ物語には、モデルがあったのですね。


 お医者さまは、ご存知だったのかしら?






 翌日、わたくしはクッキーを用意しておりました。お医者さまに、日頃のお礼をしたいと思ったからです。


 といっても、お城の係りの方が、時々小窓に置いてくださるおやつです。

 もし叶うならば、お医者さまと一緒にお茶をしながらお話をしたい──。少々緊張しますが、わたくしは、思い切ってお誘いすることにしたのです。


「ご、ご機嫌よう。お医者さま! 海の本、とても興味深かったですわ。あの、よろしければ、今日はこれを食べながらお話を……」


 診察の道具を並べていたお医者さまは、クッキーを差し出すわたくしを見て、驚いた目をされました。


「……ダメだ。感染のリスクがある」

「あっ。そ、そうですわね。会食は、マスクも外さなければなりませんものね。わたくし、失念しておりました……」


 わたくし、なんて浅はかだったのでしょう。お医者さまは、【病気】が移らないようにマスクをしていらっしゃるのに。


 しかし、お医者さまからは、意外な言葉をいただきました。


「あとふた月。あとふた月経ったら、いいぞ」

「まぁ! 本当ですの⁈」

「あぁ。代わりに、俺はその間はここに来ない。別の医者が来るが、いいか? 姫さん」


 お医者さまは、理由までは教えてくださいませんでした。


 そして、ふた月もお医者さまにお会いできないことは、話を聞いてくださる方がいないわたくしには、とてもとてもつらいことです。


 しかし、その後には、もっとお医者さまと仲良くなれるのならば、耐える価値は大いにあります。だって、5年間お城の部屋にいるわたくしですもの。ふた月程度、どうということはありませんわ。





 次の日からは、その日ごとに違うお医者さまがいらっしゃいました。すっぽりと体を覆う白いお洋服は同じで、お顔は目しか見えないのですが、背丈がバラバラなのです。


「お医者さまは、男の方? 女の方? 何人いらっしゃるの?」

「…………」


 わたくしは何度も何度も話しかけてみましたが、どなたも答えてはくださいませんでした。それどころか、視線すら合うことはありませんし、相手は震えていらっしゃるのです。


「そうですわよね。すぐには仲良くなれませんわよね……」




 わたくしはお城の方と仲良くなろうと、まずは朝食を運んでくださる方を、廊下側の小窓の前で待っておりました。


 何をお話しましょう? お食事のお礼? いえいえ。まずはご挨拶からでは?


 わたくしが心を踊らせておりますと、コトンッと小窓の前にお食事が置かれる音がしました。


「お待ちくださいませ!」


 わたくしは小窓を開け、そこから手を伸ばしました。すると、ちょうどお食事を置いてくださった方の手首を、わたくしは掴むことができたのです。


「いっ、いやぁぁぁーっ! 離して!」


 突然の悲鳴に、わたくしは驚いて手を離して、尻餅をついてしまいました。そして、勢いよくバンッと小窓が閉められると、女の方の泣き喚く声と、それをなだめようとする男の方の声が聞こえるのです。


「さっ、触られたわ! 【病気姫】に! 私、し、し、死んでしまうの⁈」

「落ち着きたまえ! 急いで消毒を……、おい! 僕に近づくな! 移ったらどうしてくれる!」


 わたくしは、部屋の床に座り込んだまま、動けなくなってしまいました。廊下から聞こえてくる言葉が、くっついたり離れたりしながら、わたくしの頭の中を回っていたからです。


 ウツル? シンデシマウ? ショウドク? 【ビョウキヒメ】?


 それは、わたくしのこと?


 そんなわけはありませんわ。何かの間違いです!


【ビョウキヒメ】なんて酷い名前!


 わたくしには、ちゃんとお父さまとお母さまに付けていただいた名前がありますもの。


 そうです。わたくしは──。




「わたくし、名前が思い出せません……」 


 いつから、名前を呼ばれていないのでしょうか。


 わたくしは、自分の名前を忘れてしまっていたのです。


 わたくしは怖くなって、這うようにして小窓から離れました。わたくしを【病気姫】と呼ぶ方々から、逃げ出したかったのです。


 しかし、わたくしには逃げる場所などありません。わたくしの居場所は、この部屋だけ。


「カクリ……」


 本で読んだ言葉が、思い浮かびました。


【病気】はお城の外にあるのではなく、この部屋に閉じ込められていたのです。


「それがわたくし。【病気姫】」


 わたくしは、醜い悲鳴をあげました。自分のものとも気がつかなかいほどに。

 あの方も、わたくしのことをそう呼ぶのでしょうか。





 わたくしは、今日のお医者さまに尋ねました。


「わたくしは【病気】ですの? 診察は、治療でしたの?」

「…………!」


 相変わらず、あの方以外のお医者さまは、びくびくと震えていらっしゃいます。しかし今のわたくしには、その理由がわかります。


「そう。わたくしから【病気】を移されるのが、恐ろしいのですね……」

「…………」

「お父さまとお母さまは、わたくしの【病気】が治るのを待っていらっしゃるのでしょうか。……あなたにお話しても、無駄ですわね」


【病気姫】のわたくしと、仲良くなんてしてくださるわけがないですもの。


 では、あの方は?


 あのお医者さまは、どうして優しくしてくださったのでしょうか。





 その日から、わたくしはお食事を食べなくなりました。


 どれだけ悲しくてもお腹は空くのですが、【病気】のわたくしなんて、いっそ死んでしまった方がいいのではないかと思うと、フォークを手に取る気になれないのです。


 しかし、わたくしは死にませんでした。毎日、わたくしに点滴が施されるからです。


 いったいどうして、わたくしは生かされるのでしょう。【病気姫】と呼び、【病気】を移されることを恐れているというのに、どうして死なせてくれないのでしょう。


 あのお医者さまなら、教えてくださるでしょうか。 






 そして、わたくしは大好きな本を読まなくなりました。


 見たことのないもの、行ってみたい場所、夢のような物語も、考えるだけ虚しいのですから。


 ヤマト王国の姫君のように、ステキな殿方に助けられたいと思っていましたのに、きっとわたくしは、倒されるべき悪党なのでしょう。

 だって、【病気】は忌み嫌われるものですもの。


 せっかくあのお医者さまが持って来てくださった本ですが、目に入るだけで、わたくしは悲しくなってしまうのでした。





 わたくしは、空色の髪をくしで梳かすこともなくなりました。


 だって、誰が見ているわけでもないのですから。誰も、わたくしを見てはくれないのですから。

 いつか、あのお医者さまが褒めてくださるかもしれないなんて、今はそんな淡い期待は抱けないのです。





 ある日、お城の部屋の窓から見える景色が変わりました。遠くの町に毎晩灯っていたあかりが、点かなくなったのです。 

 てっきり、わたくしの目が虚すぎて、光が映らなくなってしまったのかと思いました。けれど、町が真っ暗であることは、本当のようでした。


 まるで、わたくしのようだと思いました。もうわたくしは、あの日のように明るく笑うことができません。





 いつの間にか、お食事が運ばれなくなり、どのお医者さまもいらっしゃらなくなりました。 


 ついに、わたくしは死ぬのでしょうか。【病気姫】なのですから、その方がいいに決まっています。


 ごめんなさい、お医者さま。

 わたくし、あなたにお会いする前に、死んでしまうかもしれません。





 その時、ドアが蹴破られました。


 乱暴に入って来られたのは、右手にお食事のトレイを、左手に医療道具の入った鞄を下げている白衣姿の男性でした。


「メシを食え。診察はそれからだ!」

「もしかして、お医者さまですの……?」


 わたくしは、声でその方がお医者さまであるの分かりました。いつものすっぽりと体を覆う白いお洋服ではないので、なんだか細く見えますが、間違いありません。


 わたくしは、日付を数えることをやめてしまっていたので、いつの間にかふた月経ってしまっていたのでしょう。


「お医者さま! お医者さま……!」


 わたくしは、どうしていいかわからず、何度も何度も繰り返しました。


「姫さん、こんなに痩せちまって……。つべこべ言わずに食え!」


 お医者さまはそうおっしゃると、スプーンでおかゆをすくって、わたくしに無理矢理握らせました。


「お医者さまは、知っていらしたの? 陰では、わたくしのことを【病気姫】と?」


 わたくしは涙を堪えながら、スプーンをお皿に置きました。とても食べる気にはならないのです。


「もう、お体を覆うお洋服は、着なくてよろしいの? わたくしに【病気】を移さないためではなくて、わたくしから【病気】を移されないようにするためでしょう? 診察は、さぞ嫌な役回りだったでしょう?」


 本当は言いたくない嫌味を口にしてしまい、わたくしは余計に胸が苦しくなりました。


 本当は、お医者さまにお会いできて嬉しいのですが、もしかして酷いことをおっしゃるのではないかと思うと、わたくしは怖くて怖くて、逃げ出したくなってしまいました。


「姫さん。そりゃあ、防護服で診察するなんて、みんな嫌がるさ。だが俺は、苦痛じゃなかったよ。アンタの話を聞くのは楽しいから」


 お医者さまは、もう一度はスプーンをわたくしに渡そうとしましたが、わたくしは手を引っ込めました。


「そんなこと、信じられませんわ」

「証明するのは難しい。だが、俺が姫さんと食事しに来たって言ったら、信じてくれるか?」


 お医者さまはそうおっしゃると、マスクを外されました。


 そしてわたくしは、初めて見るお医者さまのお顔にドキドキしてしまいました。

 物語に出てくる剣士のような、端正な顔立ちではありません。無精髭を生やした、目付きの悪いおじさまといったかんじでしょうか。けれど、とびきり優しそうな笑い方をされるのです。


「この握り飯は、俺のだ。今は米もギリギリで、ここにある分で最後なんだ。だから、明日からはどっかで調達しないとな」


 お医者さまは、トレイの上にあったお米の塊を手に取ると、豪快にかぶりつかれました。品はないですが、とても美味しそうにされるので、見ていたわたくしも、お腹が空いてしまいます。


「お医者さまは、わたくしが──、【病気】が恐ろしくないんですの?」

「主治医が患者を怖がるなんて、馬鹿な話あるか。俺は、姫さんの【病気】を治したし、移らない方法も分かってるんだ。ほら、何を恐れるって?」


 お医者さまは、鞄から白いハンカチを取り出して、わたくしの涙を拭ってくださいました。


「姫さんは、【病気】と戦ったんだ。心ない奴らが、アンタのことを【病気姫】なんて呼んだかもしれないが、生き延びたアンタのお陰で、薬とワクチンができた。それは、俺の体で証明済みだ。寧ろ、礼を言うよ」

「わたくし……、わたくし、【病気姫】なのだと思って、ずっと、怖くて、悲しくて!……でも、大丈夫ですのね。これで、このお城の部屋から出て、お父さまとお母さまに会いに行けますのね」

「アンタの親は、遠い所で待ってるから、俺が連れて行ってやる。長い旅になるが、きっと楽しい」


 お医者さまの優しい笑みに、わたくしは久しぶりに笑いました。


 これからは、自由なのです。

 町に行って、色々な服を着て、海で泳いで、輝く星を見て──。

 空色の髪を梳かして、お医者さまと二人で。





 ***

 俺は、大嘘つきの医者だ。


 彼女は、アストリア王国の王と王妃によって、城の小部屋の中で守られていた。そのお陰で発症時期も遅く、治療と研究を行う環境に置くことができた。

 それでも彼女は1年もの間、意識がなく、生死を彷徨った。

 それから奇跡的に一命を取り留めた後、5年の療養と経過観察。俺は毎日彼女の診察を行った。


 彼女は気がついていなかった。

 自分が恐ろしい【病気】になったこと。

 お城の部屋ではなく、研究施設の病室にいること。

 アストリア王国が【病気】で滅びたこと。

 そして、我が国ヤマト王国のウイルス兵器のための、研究対象となっていることに。


 研究員たちは、彼女がまた発病するんじゃないかと、まるでバケモノのように恐れていた。

 俺だって、移らないようにしてたんだ。

 だが、何の罪もない子なんだ。

 何も知らない彼女は、いつも嬉しそうに俺に話しかけてくる。

 馬鹿だな。もう止めろ。

 移っちまっただろう、情が!

 もう、放って置けるもんか。


 その頃、山のふもとの町から、死人が出た。原因は、【病気】だった。


 来てしまったんだ。この国にも。

 ウイルス兵器なんて作らなくても、【病気】は海を渡ってやって来るんだ。

 これはアストリア王国を見捨てた、この国への罰じゃないのか?


 それから間も無く、【病気】はヤマト王国を蝕み始めた。

 たとえ、この国が滅んだとしても、抗体を持つ彼女は生残るだろう。

 それでいい。彼女には生きる権利がある。

 いや、それでいいのか?

 彼女は、一人でどうやって生きるんだ。

 祖国が滅びたと知った時、彼女に生きる希望はあるのか?

 なら、俺が生きるしかない。

 生きて、彼女に希望を与えるんだ。

 偽りの希望だとしても、まだこんなに幼くて、ものを知らない子どもが死ぬなんて、許されない。 


 ワクチンと薬の開発が必要だ。

 お上の指示とは真逆の研究を、俺は以前から進めていた。

 だが、国を捨てて逃げて行く研究員が多く、研究は停滞していた。

 だから、俺だけでやる。

 ふた月が限界だ。それ以上は、この国が持たないだろう。


 ふた月後、俺は彼女の病室にやって来た。

 彼女と俺しかいない研究施設。

 もう、部屋に鍵はかかっていないのに、彼女は一人では出られない。

 もう大丈夫だ。主治医の俺が言ってるんだから、間違いない。

 姫さんは、真実を知ったら絶望しちまうかもしれない。

 でも、姫さんが生きていることは、【病気】と戦う世界にとっちゃあ、希望そのものなんだ。

 そのことを、俺は少しずつでも伝えていくから。

 それまで俺はアンタを欺くが、許してほしい。

 さぁ、一緒にこの部屋を出よう。


「お医者さま。わたくし、名前が分かりませんの……」

「患者の名前を主治医が把握してないわけないだろ。姫さんの名前は──」


 名前を呼ぶと、彼女は青空で輝く太陽のような笑みを浮かべた。





 退院だよ、姫さん。


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