美青年
丹之珠良(ニノジュラ)
美青年
1
その家の斜向かいには、可愛らしい児童公園があった。赤青黄と極彩色
に塗られた遊具の数々は、いかにも子供の遊び心をくすぐるように西日に
映え、午後から夕方まで、いつも賑やかな歓声で溢れていた。
ここは南北に数キロ帯状に続く、公営の散策路である。車の進入は禁止
なので、老若男女が安心して散歩出来る憩いの場として、地域住民に親し
まれている。
朱鞠(しゅまり)は愛犬のユミトを連れて、四季折々この緑地帯を歩く
ことを楽しんでいる。ユミトは、漢字で書くと「弓人」。三歳でオスのサ
モエドである。ふかふかの白い毛に覆われ、黒々とした丸い目がご愛嬌で
人気も高いが、何といっても名だたる大型犬で、その存在感が半端ではな
い。
散策路を南下して左手に見えてくるこの公園までくると、朱鞠はユミト
と一休みするのが慣わしなのだが、ユミトを見ると、遊んでいる子供たち
が波のように押し寄せてきて、ついついそこで時間が取られることもしば
しばである。大人しく従順で、大きな身体をゆさゆさ振りながら、惜しげ
もなく人間にその身を委ねてくるユミトに出会えることが、ここへ遊びに
きている子供たちの楽しみでもあるようだ。
その公園のベンチに腰掛けると、斜め西方に人目を引く家が建っていた。
若い頃はドライブがてら、豪邸巡りをするのが朱鞠の趣味だった。気の合
う友を乗せて素敵な家並みを徐行しながら、「もしも私が家を建てたな
ら」と、歌の文句のように夢を語り合ったものである。乙女チックな憧れ
は、シニア世代真っ只中の現在も、消えてはいない。
そんな朱鞠を一目惚れさせる瀟洒な邸宅が、眼前に佇む。フローリング
材を縦に組んだような外壁は、異なるそれぞれの板の色味がアトランダム
な変化を生み出し、斬新である。加えて、強化ガラスの大窓を四方八方に
張り巡らせ、木とガラスのコラボのような組み合わせが、アート感を盛り
上げている。ふんだんに光を取り入れ、辺りの景色と同化し、自然の中に
いるようなくつろぎが味わえる、そんな住み心地に違いない。
朱鞠は、いつもこの家を観察してしまう。奥まった所に目立たないよう
に隠れているシンプルな玄関。だがよく見ると、梁の部分には防犯カメラ
がしっかり設置されている。何といっても圧倒的に存在感を誇っているの
は、RV車が二台は収納出来そうな大型ガレッジである。それは建物本体
に内蔵されているタイプのもので、頑丈そうな幅広のオートシャッターが、
重厚感を際立たせている。そんな車庫の二階部分の壁面には、一カ所だけ
小さめの窓があった。いつも黒い遮光ブラインドで閉ざされていて、中の
様子は知る由もない。
ある日、朱鞠はユミトのリードを短めに持ち、その家のガレッジの前に
佇んでみた。ここにどんな人が暮らしているのだろう。住人らしき存在を
見かけたことはない。これほど目立つ家なのに、人の出入りが感じられな
いのは不思議だった。この鎧戸のようなシャッターを開けたら、別世界が
存在しているような気がしてならない。
その時、二階の小窓のブラインドが、わずかに動いた。指で目の高さの
羽だけを広げているような、慎ましく開けられたその隙間から、黒々とし
た眼差しが朱鞠とユミトに注がれていた。吸い込まれそうな美しい目が、
確かにこちらを見ている。朱鞠は慌ててユミトのリードを引っ張り、逃げ
るようにその場を離れた。若い男性の視線。そう直感した朱鞠は、散策路
に引き返し、いつものように斜向かいの公園のベンチに腰掛けた。
それはちょうど月曜日の午後二時だった。あと三十分もすると、小学生
や、母親に連れられた幼児たちが集まってきて、公園は賑やかになり始め
る。そんなわずかの、静寂と喧噪が入れ替わる直前のひととき。
木とガラスのコラボで人目を引くその家の、大型ガレッジの前に、白い
セダンが横付けされた。その様子を確認するかのように、二階の窓から見
下ろす視線が注がれている。先ほど、朱鞠とユミトを射るように見ていた
黒々としたあの美しい眼差しである。この家にはその視線の主が、暮らし
ているのだろう。
ブラインドの隙間からセダンがじっと凝視され、シャッターは自動的に
開いた。車には、運転してきた男性の他、助手席に女性、そして後部座席
にも男女一名ずつの、計四名の若い男女が乗っていた。車は手際よく巧み
にバック・ギアーで車庫に吸い込まれるように消えた後、再びシャッター
が閉じられた。中からも、室内へ通じる出入り口があるのだろう。四人の
男女は、そのまま出てくることはなかった。
そんな光景を、朱鞠はユミトと斜向かいの公園から垣間見ていた。やが
ていつものように、三々五々集まってきた子供たちの元気な声が飛び交い、
賑やかな時間帯になる。大人と言わず子供と言わず、ユミトはたくさんの
犬好きに囲まれ、尾を振り腰を振り、愛嬌を振りまいている。
春から夏、そして秋へと季節は移行した。朱鞠は月水金の午後二時に、
その家に白いセダンが横付けされ、若い男女がガレッジに消えて、夜間に
ひっそり帰って行くことを知った。
自動的に開閉する大型シャッターを、二階の窓から操作しているのは、
隠れ家のようにひっそりとここで暮らしている、「美青年」なのである。
朱鞠とユミトを二階の小窓のブラインドから、射るような目で見ていた、
あの若い男性だった。そんな彼と、外部から通ってくる、同じように若い
男女のグループは、いったいここで何をしているのだろう。
その疑問は、意外とあっさり解明した。この家は、現在オーナー一家が
海外居住のために不在で、留守宅の管理を兼ねて、あるダンスカンパニー
の男性主催者が借り受け、レッスン場として使用しているとのことだった。
友人のバレエ教師が、「これはぜったい口外しちゃだめよ」と釘を刺しな
がら、朱鞠に教えてくれた極秘情報なのである。
そのカンパニーの主催者は、ある事情があって身を隠している青年を、
秘密裏にここに棲まわせ、コンテンポラリー・ダンスの研鑽と創作を課題
に与え、この空間を提供しているのだという。人目に立つことを警戒して、
彼自身は滅多にこの邸宅には立ち寄らず、リモートでレッスンをしたり、
その他諸々の指示を出しているとのことだった。
週三回、この邸宅に通ってくる四人の男女は、すでにプロとして仕事も
しているダンサー達とのことだが、共に稽古に汗を流すだけではなくて、
隠遁中の青年の、食料や必需品を調達し運んでくる世話役も兼ねていると
いう。いつか青年が世に出て活躍出来る日がくるまで、彼を支えてゆこう
という、同志の関係でもあるらしい。
その家に彼等が集まる月水金は、よくよく耳をそばだてると、ガレッジ
の二階から、ステップを踏む音、飛翔する激しい息づかい、かけ声など、
創作ダンスを練り上げる過程が、かすかに伝わってくる。前衛的で無機質
なパーカッションだけの音響や、十二音技法による無調旋律が、引き裂か
れた悲鳴ような弦の音で聞こえてきたりもする。
午後七時になるとその音は止み、別室の大きな遮光ガラスに、柔らかな
オレンジ色の明かりが灯る。そして、楽しげに語らう気配が漂い始める。
きっと夕餉の団欒なのだろう。開放感でいっぱいの至福のひととき。彼等
はどんな話題に花を咲かせ、笑っているのだろうか。
やがて明かりは消え、ガレッジから白いセダンが出てゆく。二階のブラ
インドも堅く閉ざされ、その家は完全なる夜の静寂に包まれる。
季節が巡り冬になり、クリスマス・イブの夜がきた。庭の木々や、玄関
までのアプローチが、青いイルミネーションでライトアップされたその家
は、雪の白さに映え、ひときわ幻想的である。縦板の外壁に、四方八方張
り巡らされた、強化ガラスの大窓という大窓には、煌々と明かりが灯って
いる。だが、それらのすべてに目隠しシートが設置されているのだろう。
明るいだけで家の中は、まったく見えない。
朱鞠はユミトを連れて、ここまできてしまった。公園の遊具は冬囲いさ
れ、ベンチもすっかり雪に埋もれて、人っ子一人歩いていない極寒の夜で
ある。公園の片隅の、子供たちが遊びで作った雪の塊に腰掛けて、ベンチ
の代わりにする。ユミトのふかふかの白い毛が雪に同化し、街灯の下で、
目ばかりがきょろきょろと動いて、いつにも増して愛らしい。
その時、その家の大きなガレッジの自動シャッターが、静かな機械音を
立てながら、徐々にゆっくり開きだした。誰が出てくるのかと思いきや、
そこに初めて、まだ見ぬ「美青年」が姿を現したのである。
鍛え抜かれた引き締まったボディー。長身にハイセンスな真冬の装い。
黒い瞳に黒い髪。際立つ白い肌。暖かそうなダウンに身を包んではいても、
マッチョでしなやかな体型であることが、明らかに伝わってくる。北国の
凍てつく白銀のクリスマス・イブに、朱鞠の視界に現れた「美青年」は、
完璧に美しかった。
雪の塊に腰掛けたまま、朱鞠は金縛りにあったように動けない。ひとし
きり積もった家の前の雪を、雪かき棒で軽やかに撥ねのけ、いったん車庫
に消えた彼は、銀色のハリアーに乗って、再び中から現れた。シャッター
は静かな機械音とともに、また自動的に閉じられていく。朱鞠はユミトの
頭を抱えながら、その一部始終を公園側から見ていた。
「美青年」が運転するハリアーが、やがて動き出す。だがあろうことか、
車はいったん西向きに停められ、エンジンが切られた。そして彼は車から
降りて、こちらに向かって歩いてくるではないか。
「こんばんは」と声をかけられ、朱鞠は視線を上げる。あの車庫の二階
の小窓から、黒いブラインドをわずかに開けて、朱鞠とユミトを凝視して
いた、あの時のあの目だった。
「風格のある、立派なサモエド犬ですね」
彼は、優しそうな目でユミトを見つめ、朱鞠に言った。
「何歳になるのかな?」
ユミトも嬉しそうに、彼を見つめている。
「三歳の男の子です」
「名前は?」
「ユミト。漢字で書くとすれば、弓矢の弓に、人と書きます。弓を射る人、
という意味なの。でも、この子は犬だけどね」
朱鞠の言葉に、彼は大きな声をあげ、お腹を抱えて笑った。心の底から
楽しそうに。朱鞠にはこの情況が、にわかに信じられない。目の前にいる
のは、春からずっと関心の的だった、あの「美青年」なのだから。
彼は、両手でユミトの顔を挟んで、もみくちゃにしながら話しかける。
きちんとユミトの目の高さまで、雪の上にひざまづいて。
「君はユミトくんていうんだね。いつもお母さんといっしょで、いいね。
ときどき僕は、窓から二人が散歩している姿を、見ていたんだよ」
お母さん? まあ、いっか…。こんな「美青年」に、お母さんと言って
もらえるだけで、果報者ではないか。彼にとって朱鞠は、お母さんとしか
呼び様がない。当たり前だよ、と朱鞠は自分を慰めた。いや、母なる存在
こそ、若い男性にとって、究極のマドンナなのである。
「ユミトくん、ずっと元気で、お母さんと幸せに暮らすんだよ」
そう言って、彼はもう一度、ユミトの顔をもみくちゃにした。
「ありがとうございました。さようなら」
朱鞠に向かって、青年は深々と頭をさげた。車に乗り込む前にもう一度、
朱鞠とユミトを振り返り、「さようなら」と大きく手を振った。
夜の闇に疾走していく青年は、まるで凍てつく北国の天空に放たれた、
銀色の矢のようだった。キラキラとまばゆいばかりに輝きながら、大気圏
を突き抜けたに違いない。朱鞠は「美青年」に、冬矢(フユヤ)と名付け
た。
寒さの中で心温まる、最初で最後の、冬矢との出逢い。
「今年のクリスマスは、神様から最高のプレゼントをいただいたね」と、
朱鞠はユミトを抱きしめた。
2
テレビの有料配信チャンネルで、朱鞠が映画を見始める。いつもならば
そんな時、ユミトは別室にこもって、いくら呼んでも出てこない。なのに
その日に限って、朱鞠がくつろぐ長椅子の足元にきちんとお座りをして、
二時間越えのドラマを、真剣な眼差しで見入っている。
演じている主人公の若者が、冬矢を彷彿とさせる、美男俳優なのである。
その顔がアップになると、ユミトは嬉しそうに画面に近づき、「お手」を
する時のポーズのように、彼に向かって合図する。陶然とした眼差しや、
今にもよだれが垂れそうな、締まりの無い口元。それらすべてに、彼への
思慕の情が表れているようで、笑ってしまう。
そんな愛犬ユミトのために、朱鞠は映画の解説を始める。数年前に封切
られた、日中合作の恋愛ミステリー。薄っぺらなラブストーリーではなく、
深く人間考察に踏み込んだ、重厚で燻し銀のような作品である。
この映画はね、古さと新しさが混沌と入り交じった、中国の上海という
街でのお話なの。その街の静かな裏通りに、一軒の古めかしい時計修理店
があって、そこに良(りよう)という名前の日本人青年が、住み込みで働
いていた。同居しているこの店の老店主はね、良に修理の技術を仕込むだ
けではなく、ポルトガルの詩人、フェルナンド・ペソアの詩について教え
てくれたり、良のことを自分の孫のように、大切にしてくれる人だったの。
異国にあって孤独な良は、仕事が終わるとプールで泳ぐことが気張らし
だった。そのプールで美しい女性に出会って、淡い恋心を抱き始めるの。
彼女の方から、良に声をかけてきた。「これから、買い物に付き合って」
とね。彼女の名前は、ルオラン。良は日本人だけど、片言の中国語が話せ
ることを知って、ルオランは怯まない。いろいろ物色したけど、買うべき
物が見つからず、良はルオランを自分の働く時計修理店へ連れていった。
良が修理して蘇らせた、アンティークな置き時計を見せる。十五分ごとに
美しいオルゴールの音が鳴るその時計を、ルオランは気に入って購入し、
大切に抱えてタクシーで帰っていった。時はすでに真夜中。
ルオランにはルーメイという双子の妹がいることを知った良。まったく
見分けが付かないほど、うり二つの妹。幼いときから洋服の色を変えるこ
とで、親も判別していたという。姉のルオランは、妹ルーメイとの関係に
ついて、正直に良に語った。容姿はそっくり、いろいろな好みも似ていて、
期せずして同じ商品を買ってしまうことも珍しくはない。でも違う人間。
小心で内気で引っ込み思案な自分。明るく外交的で意のままに行動してい
く妹。人知れず抱える双子の姉妹の確執が、姉のルオランを苦しめている。
自分の人生は、いつも妹によって踏みにじられる。その度に、自分が自分
ではなくなっていく。妹なんか、いなければいいのに。ふとそんなことを
考えてしまう自分に、ルオラン自身が絶望している。
良が修理したアンティークのオルゴール時計は、妹ルーメイへの婚約祝
いの贈り物だった。妹の婚約者は、本来、姉が心を寄せていた男性である。
それを妹が横取りした。婚約者は有名な映画プロデューサー。演劇に興味
を持ったのも、そもそも最初は、姉のルオランだった。妹のルーメイが、
現在、新人女優として売り出し中なのも、姉を踏み台にしてつかんだチャ
ンスなのである。良はそんなルオランの苦しみを知って、孤独な魂が寄り
添うように、ますます姉のルオランに惹かれていくの。
その内、ルオランはときどき良の部屋に泊まっていくようになるのね。
でもそんな夜、良はベッドのシーツをきちんと整え、ルオランをゆっくり
ひとりで寝かせてあげるの。自分はベッドの脇の長椅子で、膝を折り曲げ
窮屈そうに眠る。そんな日本男児の礼節を踏まえた気遣いが、良の凜々し
い顔立ちとマッチして、女心はキュンとしちゃうのね。ルオランは、その
お返しに早起きして、階下の台所で朝食の準備をしている店主のお爺さん
を手伝うの。そんな幸せな家族みたいな関係が、しばらく続いて…。
ルオランは妹のルーメイと二人で、モーリシャスの旅に出かけることに
なったのね。長年の姉妹の軋轢を美しい海で洗い流して、新しい関係を築
きたかったのかな? 良は仕事をしながら聞いていたラジオで、海難事故
のニュースを知ったの。アフリカ大陸東側のインド洋に浮かぶモーリシャ
ス諸島で、観光客を乗せたクルーズ船と漁船が衝突転覆して、中国人女性
が一名死亡したということだった。良は、妹ルーメイの婚約者である映画
プロデューサーのティエンルンと、モーリシャスへ飛んだ。果たして生き
残ったのは、姉のルオランか、妹のルーメイか。
一年後、スクリーンで迫真の演技を見せ、映画界に確固たる地位を築い
ていたのは、妹ルーメイだった。誰も見分けが付かないほど、うり二つの
双子の姉妹。それは本当にルーメイなのか。それともあの事故で、妹と入
れ替わり、その人生を我がものとして新しく生き始めた、姉のルオランな
のか。ティエンルンは、内心、彼女がルーメイではなく、ルオランなので
はないかと疑っているの。良は、モーリシャスの病院で目が覚めたとき、
彼女が手を差し出して強く握った相手が、自分ではなくティエンルンだっ
たことで、生き残ったのは妹ルーメイだと、納得するしかなかったのね。
ティエンルンは不信感にさいなまれて、ルーメイの元を去っていった。
しばらくして良は、事故で生き残ったのはルーメイではなく、自分が愛し
ていたルオランだと確信した。モーリシャスの旅に出る前、良がルオラン
にプレゼントした腕時計を、ある日、彼女は真夜中に返しにきて、良の机
の上に置いて、そっと去っていこうとしていたの。それに気付いて追いか
けた良は、暗い夜道をゆっくり歩いていくルオランの後ろ姿が目に入った。
良の気配を感じて振り向いた彼女の目には、妹ルーメイではなく自分自身
の人生をもう一度生き直してみようという、姉ルオランの決意があふれて
いた。二人は、じっと見つめ合う。良は追いかけていって、ルオランを抱
きしめるに違いない。
3
また暖かな春の季節が巡りきて、朱鞠とユミトが、帯状の散策路を散歩
する日々が戻ってきた。この路をしばらく南下すると、左手に児童公園が
見えてくる。そのベンチに腰掛けて、一休みする朱鞠とユミトの斜め西方
には、例の木とガラスのコラボで人目を引く、瀟洒な邸宅が建っている。
去年との違いは、住人が変わってしまっていることである。この家のオー
ナー一家が海外から戻ってきて、再びここで暮らし始めているのである。
庭先に賑やかに置かれている、大人用、子供用、幼児用といった、世代の
異なる複数の自転車が、いかにもここにはファミリーが住んでいるという
生活感を、如実に物語っている。
去年のクリスマス・イブの夜、この家で隠遁していた「美青年」冬矢は、
銀色のハリアーに乗って、冬空に放たれた矢のように、どこかに消えてし
まった。冬矢は、いったい誰だったのだろう。あんなに美しい青年を見た
ことはない。男なのに、「美しい」という形容がぴったりなのである。それ
以外の表現は、思いつかない。何か訳ありの、孤独を背負った、それでも
未来を見つめて、決して迷いはないという目をしていた。白と黒のコント
ラストが鮮明で、混じりけの無い純粋な目だった。心の透明度を映し出す
鏡のように澄んだ目で、優しくユミトに話しかけ、朱鞠にも、気さくでは
あるが礼儀正しく、目上の相手への配慮を欠かさない態度で接してくれた。
そんな「美青年」に、朱鞠は「冬矢」と名付けたのだった。
あの晩、ユミトに解説しながら鑑賞した、上海が舞台の恋愛ミステリー
映画に出演していた日本の俳優は、若手実力派として、近年アジアや欧米
でも人気を博していた。だが、彼が満三十歳の誕生日を迎えてまもなく、
突然の死を遂げたのである。自殺と発表されはしたが、死因は謎に包まれ
たままで、自殺説、他殺説、生存説、逃亡説など、様々な噂が飛び交い、
何ら解明を見ていない。この話題はネットで炎上し、多くの人々の関心を
買ったが、マスコミやテレビなどの報道は、むしろこの問題を避けるかの
ように、何らかの闇の勢力を恐れるかのように無関心を装って、このまま
風化してしまうことを願っているようだった。
そんな話題が、日本中を騒然と駆け巡っていたクリスマス・イブの夜に、
朱鞠とユミトの眼前に姿を現した、謎の「美青年」冬矢。朱鞠は、彼こそ
訳あって姿をくらまし、北国の街に潜伏していた、噂の人気俳優なのでは
ないかと思った。彼は、死んでなどいないのだ。いつの日か、今抱えてい
る問題が解決したあかつきには、堂々とメディアに姿を現し、真相を語る
日がくるに違いない。そう祈らずにはいられない。
映画の中に、ポルトガルの詩人フェルナンド・ペソアの詩集が出てくる
ことに、朱鞠は重要な意味を感じる。ペソアは、ひとりで夥しい数のペン
ネームを使い、それぞれの名前・職業・人格になりきって、詩を創作した
ことで知られている詩人である。それは異名と呼ばれるペソア独特の表現
様式で、彼の出自がユダヤ人であることと関係していた。ユダヤ人にとっ
て、別人を装うことは、生き延びるために必要不可欠な処世術だったのだ。
自らの秘密を守るための仮面の役割、それが異名と呼ばれるペソアのスタ
イルである。映画の冒頭部分では良が、終盤部分ではルオランが、そんな
ペソアの詩と出会い、声を出して読む。それは単なる添えもののシーンで
はなく、人間は複数の人格を生きることが出来るという、この映画の深い
テーマに通じているのではないかと思う。
クリスマス・イブの夜、イルミネーションが瞬く邸宅を出て行った冬矢。
彼の正体は? 他殺の疑いが濃厚でありながら、自殺とされて、闇の中に
消えてしまった、あの人気俳優だったのか? 本当は彼は生存していて、
その家に潜んでいたのか? それとも冬矢と名付けたあの「美青年」は、
すでにこの世にはいない俳優の、幻影だったのか? 単なる他人の空似な
のか? ペソアのように、名前を変え職業を変えて、様々な人生を演じな
がら生き延び、再びこの地平に戻ってきて欲しい。
そう念じる朱鞠を、ユミトは小首を傾げて見つめている。
〈参考資料〉映画『真夜中の五分前』(二〇一四年、東映)
美青年 丹之珠良(ニノジュラ) @juragarden1618
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