七、愛子の決意

 愛子の中学校生活は、賑やかな出だしを見せた。


 初日にはその存在感を見せつけ、麻井陽太に目を付けられ(一目惚れ)、半月後には香田という一人の生徒が学校中から目の敵にされた。少々酷薄な言い草ではあるが、イベントには事欠かなかった。

 そんな、色々な出来事を三年間積み重ねて、卒業に至るのだ。そう思っていた。


 小学校の高学年に上がってからの体感時間で知ってる。三年とは、長いようで案外すぐ終わってしまうものだ。

 だから自分は、一つのも取り零さないよう、全力で『中学生をやる』とそう決めた。そのほうがきっと楽しいからだ。楽しいことも、楽しむことも、とても大切なことだと、愛子の両親も言っていた。


 ただ、父の失踪、などというイベントは要らなかった。断じて、だ。




 鞆浦町の愛子と付き合いの短い髭守町の生徒であっても、麻井の指示で下手な出だしは控えていたし、何より愛子の人柄に絆されて、『村上愛子に限っては、級友として扱っても良い』という空気感が出来上がっていた(残念ながら、他の鞆浦小出身者はその範疇ではない。両町の溝は深い。せいぜい、村上愛子を通じて少し話したり、協力することが極稀にある、程度だ)。

 そのため、一学期の四ヶ月弱ではあっても、愛子がよく笑い、よく驚き、時々べそをかく姿を見て、一人の人間として憎からず思うようになっていた。


 その愛子が、二学期の始業式、まるで魂が抜け落ちたような有様で教室に入って来た。思わず、その場の皆が息を呑んだ。


 あまりの痛々しさに、小学校時代からの付き合いがある女子生徒の数人が、涙ながらに愛子へ駆け寄る。そのまま席に座らせてからも、ずっとそばに付いていた。

 更には、女子生徒達は頑として愛子の側から離れようとしないので、学期初めの連絡も、式典も、数人が固まった奇妙な光景のまま行ったほどである。教職員もおよその事情は知っているため、愛子の精神状況を鑑みれば、やむを得ないだろうと判断した。

 それに、年齢的な未熟さからくる無遠慮な他生徒の視線を、精神衰弱状態の村上愛子の目に入れるべきではない、とも考えた。

 

 学校としては、しばらくの自宅療養か、保健室登校を打診していたほどだ。

 母依子もそれを検討していたのだが、笑わなくなった愛子が、ただ一言、学校には行く、と言って聞かなかった。

 生徒が登校を望むのなら、少しでもその心身を慮ってやるのは学校側の仕事だ。そのため、愛子に必要だと考えたなら、多少奇妙だろうが何だろうが、大概のことは許可した。




 事情を知るのは、教職員だけではない。寧ろ、言うまでもなく鞆浦町の生徒も髭守町の生徒も知っている。学校中の注目の的に起きた変事など、風の如き速さで隅々まで伝わる。

 そして生徒が知っているなら、地域の大人達も勿論知っている。

 良くも悪くも狭い地域であるし、村上智昭は、鞆浦町では知らぬ者のいない『先生』であり、髭守町でも若干の知名度を持つ名前だったからだ。それが突然の失踪だなどと。


 鞆浦町の者達は、町を上げて失踪した智昭と榊を探した。漁業組合も、消防団も、何もかも誰も彼も。

 それに、警察から調書や協力要請があれば、いくらでも手を貸した。かと言って、邪魔にはならないようは努めた。

 警察と揉めて無駄な時間を過ごすくらいなら、警察が手を付けていな場所を探したほうが、余程建設的だからだ。仲間が二人も消えたのだ。鞆浦の人間は必死だった。

 

 地元警察にもいくらかは両町の出身者も存在し、そこからも話が伝わった。情報漏洩は本来、処分対象であるが、田舎ではそのあたりの感覚が緩いし、特に髭守の者であれば、麻井の家に話を通さない、という選択肢はない。

 麻井の家としても、この近辺は自分達の庭だ、という意識がある。出来の良い跡継ぎが目を付けている村上家への好意、というより、その縄張り意識のため、様々な伝手を使い事件の全容を知るに至っていた。




 確かに、ただの失踪、蒸発にしては訝しい。

 仮に蒸発だとしても、現場には下着まで残されていたのだ。そこから移動するには、着替えや足を用意した協力者が必要になる。しかし、いくら視界の悪い暴風雨の中だとはいえ、そんな者を見逃すだろうか。

 地元の人間でなければ余計に目立つ。まずあり得ない。


 では、事故か? その場合素っ裸のままで男二人が何処ぞへ消えたことになる。

 最も有り得そうなのは海難事故であるが、これも首を捻らざるを得ない。


 海難事故の多くは、着衣のまま海に落ちて、溺れることだ。着衣泳を一度でも行ったことがあるのなら理解できることだが、水中における着衣とは、拘束具に他ならない(あえて訓練し、着衣による抵抗に逆らわず受け流す泳法もあるにはあるが、今は関係無い)。

 だが、想定どおりなら、智昭と榊は裸だ。泳ぎの達者な者が二人、荒れた海とは言え、そう簡単に事故に遭うだろうか。


 村上智昭の実験場は浅瀬であったのだ。非常識な想像になるが、万一のことを考えて着衣を脱ぎ捨て、作業をしていたとする。それで、浅瀬とはいえ足を取られた。

 だが、先に現場に到着していた村上はともかく、あとから到着した榊は、組合からの連絡を受けており、万一に備えてロープや救命胴衣、浮き輪などを用意していた。それらは、遺棄された品々と同様、現場に残されていた。

 海の怖さを知る漁師と、漁師の倅が揃って、それらの道具を、わざわざ用意したうえで使用せず事故に遭った? 少々考えづらい。


 あるいは、突発的な波に攫われ、潮の流れによって岸から極端に離されてしまったか。

 あり得ない話ではないが、やはり命綱のロープや救命胴衣を用いなかった説明が付かない。


 里山の人間である麻井家でもそのように判断した。

 智昭や榊の能力と人間性を知る鞆浦町の者なら、なおのことである。


 二人は絶対に生きている。そう考え、必死に捜索した。

 『鞆浦への貸しになる』と考えて、麻井の家からも、捜査に力を入れるよう警察や消防へ働きかけた。


 それでも、だ。海を知り、事件を知り、事故を知る、それぞれのプロフェッショナル達が死力を尽くしても、二人は見つからなかった。


 一分一秒を争う海難事故であれば、その生存率は時間とともに下がっていく。それを理解しているからこそ、誰もが必死だったのだが。見つからない。


 台風が過ぎた夜明けに二人の失踪が明るみになり、すぐに捜索が始まった。一日経ち、二日経ち、三日経ち……。そのうちに、諦念が漂うようになってきた。

 情に篤い篤くないの話ではない。海難事故であれば、現実的に助かるかどうかの一線を越えてしまっているだろう。そういう話だった。


 事故でないのならば、何らかの事件に巻き込まれたことになる。身代金目当ての誘拐であれば話は早いが、今のところそれらしい連絡は無い。

 ならば、あとは警察の領分だ。事件として処理し、少しずつでも、一歩一歩手がかりを追ってもらうほかない。


 捜索に協力した全員が、憂いを帯びた表情であった。村上や榊と特に馬の合った漁師などは、人目も憚らず、膝をついて泣いた。


 逆に、妻依子は涙を見せなかった。そして関係各所へ頭を下げて回った。

 事件当日、依子からの電話を受けた女性事務員も、漁師達も、その毅然とした態度に涙した。


 申し訳ない。仲間を助けてやれなかった。もっと早く動いていれば。榊だけではなく、もっと人数がいれば。

 口々に後悔と詫びを述べるが、依子はその全てを受け入れたうえで、「悪いのは、こんなに思ってくださる皆さんを置いてどこかに行ってしまったあの人です。どうか気に病まないでください」と、再び頭を下げた。

 謝罪合戦になっても依子に負担をかけるだけだと思い、皆が口をつぐんだが、すすり泣きだけは止まなかった。




 愛子がそれらの光景を全て目にしたわけではない。父の失踪というあまりに衝撃的な事実を前にして、記憶が曖昧になっているほどだ。依子も、その状態の愛子を出歩かせるのは危険だと判断し、家で休んでいるよう言いつけた。

 だが、愛子の体が、足が動くようになってからは、無理にでも依子に付いて行った。そして方方で共に頭を下げ、事件当日の話を聞いて回った。


 覆水は盆に返らない。愛子はまだ自然に笑えない。周囲の気遣いにも応えられない。


 だが、一つだけ決めたことがある。


 大人達は力の限りを尽くしてくれた。それはわかる。それでもお父さんは見つからなかった。それが現実だ。

 なら、私が、この手で見つけてみせる。馬鹿らしいと笑われようが、荒唐無稽だとそしられようが、どんな方法でも、必ず。


 愛子の胸の内に、暗い、鬼火のような炎が灯った。それは静かに燃えて、しかし何者にも阻めない熱量を備えていた。






 村上智昭失踪事件からほぼ一年が経とうという頃、愛子は中学二年生の一学期を終えた。

 

 担任教師の篠山が出ていったのを見計らい、自分も帰宅の仕度を整える。

 男女問わず友人の多い愛子には、夏休みのあいだの遊びの誘いがひっきりなしに来る。それらに対し、「ごめんけど、今年はちと忙しくなるかもしれん。時間ができたらお呼ばれさせてもらうで、そんときゃ一緒に遊んでちょうだいよ」と断りを入れていく。

 

 皆、愛子がまだ無理をしていることを知っている。肉親の喪失は、一年ばかりで癒えるほど浅い傷ではない。

 更に言えば、愛子が何をしようとしているのかも知っている。本人の胸中を顧みれば言えたものではないが、御伽噺や民間伝承から失踪した父親への糸口を探るなど、現実的とは到底思えない。その程度は中学生にだって理解できる。

 ファンタジーアニメや小説がのは、それが現実には無いからだ。余程、空想の世界に行き来している者でもなければ、それを信じることはない。


 そのため、愛子の好きにさせてやろう、今はそっとしておこう、と行動は止めずとも、積極的に手伝おうという者はいなかった。




、愛子は協力者に香田太一を選んだ。


 香田は入学早々の失態で、学校中から嫌われている。その割には、麻井陽太が自分の評判を気にしたため、直接的な酷い害を受けることなく、これまで過ごしてきた。

 そんな香田であるから、当然、誰からも遊びに誘われることはない。

 それなりに優等生である香田は、夏休みの宿題など数日で終わらせてしまう。遊びに誘われることもなく、誘う相手もいない。そうなれば、あとはただひたすら暇なだけだ。

 だから、愛子が協力者を欲していると知ったとき、いい暇潰しになると思い、「別に手伝うくらいならいいよ」と名乗り出た。


 あの他所者が! 目溢ししてやっていれば調子に乗って! と、生徒達は香田を睨みつけたが、香田は、何処吹く風、だ。

 髭守町の人間は麻井陽太に逆らわない。そして、麻井陽太は外聞かなり気にする。麻井の跡取りとして、一部の隙もあってはいけない、と考えているからだ。


 ならば、かえって安心出来るのでは? 一年以上前とはいえ、麻井が自分の言動を翻すとは思えない。なら、『今までも大丈夫だった線の内側』であれば、『これからだって大丈夫な範疇』だと考えた。

 ある意味、近い年頃の子供達の中では、香田太一こそが最も麻井陽太という少年を信用している、とも言えた。




 友人たちにしばしの別れを告げた愛子が、同級生達から冷やかしを受けていた香田の側へやって来る。


「ほいじゃ香田くん、私も即行で宿題終わらせるで、そしたら連絡するわ。多分、一週間もかからん。アンタも準備しよって」


 愛子の言葉に頷き、香田も悪垂れ共を避けて教室を出ようとする。

 そこに、麻井の声がかかった。


「愛子さん。みんな言わんし、僕も言うべきかずっと迷っとったで遅なったけれど、やっぱり言わせてもらうわ。僕も愛子さんをじゃ思うとるで。

 ……お父さん探すん、止めんね? 龍神様は誰も見たことが無い。見つければ願いが叶うとは言われとるけれど、それを本気で信じとる愛子さんやなかろ?

 肉親を無くしたことのない僕が言うんは、『何がわかるか』て思うかもしれんし、僕は愛子さんのお父さんを直接は知らん。でも、愛子さんの様子から、本当に大事な家族だったんじゃあ言うことはわかる。

 そのうえであえて言うで。怒ってくれてもいい。……もう、居らん人のことより、今このとき、愛子さんを心配してくれとるみんなとの時間を大事にしたがええじゃないかの」


 騒がしかった教室が、香田の言葉だけで静まり返った。隣の教室や廊下から話し声や物音が聞こえるだけに、この二年一組の教室だけが隔離されたような、そんな非現実感さえ漂う。


 聞いた面々は、うまい言い方だと思った。鞆浦町の生徒でさえ、「先を越された」という悔しさこそあれ、悪感情は抱かなかった。

 愛子の行動を制止しながらも、その思いは否定しない。そして、「周囲に目を向けてくれ」とは、愛子の友人全員の共通した思いだった。


 愛子が改めて教室を見渡してみれば、先程遊びの誘いを断った女子生徒が、うつむいている。

 愛子と話していたときにはまだ耐えられていたが、麻井の言葉に感極まってしまい、涙が止まらなかった。

 自分では愛子の支えにも癒やしにもなってやれない。ずっと一緒だった愛子ちゃんが悲しんでいるのに、慰めてあげられない。それが悔しくて、情けなかったのだ。

 似た光景は、そこら中で見られた。


 愛子は、進み続けるために悪女になろうと思った。


「麻井くん、アンタええ男じゃね。お父さんもね、みんなから同じ様に言われとったんよ。私の自慢じゃ。そんなアンタだから……いや、みんなにやね、お願いがあるんよ。

 どうか私に、心の整理を付ける時間をください。この通りです。

 私だって馬鹿馬鹿しいなん思うとる。御伽噺でお父さんが帰ってきてくれるなん、本気で思うとるわけじゃないで。ほいでも、それにすがらんと、今の私はどうにかなってしまいそうなんよ。

 だで、麻井くんも、咲希ちゃんも、みんなも、ごめんね。もちっと待っとってください。お願いします」


 愛子は頭を下げて、言う。言うだけ言って、反論される前にと、逃げるように教室を出た。

 愛子が居なくなった教室からは、ワッと堰を切ったような大きな鳴き声が響いてきた。


 


 愛子は大嘘をついた。


 たしかに、御伽噺や伝承を辿って父親を探すなど、自分でも望み薄だとは思っている。

 それでも、父親の不可思議な失踪という形で、『あり得ないこと』は一度起きた。なら、おかしくはない。そう考えている。

 

 愛子は、見知らぬ警察や消防はまだしも、父智昭の研究に協力してくれていた漁師達は信頼している。そして事故の際には、漁師達を含めた大勢の人間が必死になってくれた。それが、逆説的に愛子の非現実的な行動への原動力となってしまった。

 『現実』を知る『大人達』が、『現実的な方法』で力の限りを尽くした。ならばきっと、力不足だったのではない。が間違っていたのだ。

 失踪事件自体が不可思議であるのだ。きっとお父さんを探す正しい方法は、不可思議なものでなくてはならないのだ。だから、自分は龍神様を探す。


 父親を失った少女の、無意識的な現実逃避と言えばそれまでだが、愛子にはこれこそが正解だという確信があった。


 そのためには、邪魔が入らないようにする必要がある。そこで、先程の『嘘』だ。


 自分は全て理解している。『幼子おさなご』ではないのだから、分別はついている。そのうえで、今は馬鹿をやるから、みんなは『大人』になって、見守っていてくれませんか?


 思ってもいないことを言った。『不幸な少女』という現状を全力で利用した。真の友情に対し、虚言で裏切った。

 もし地獄の閻魔樣がいるのなら、この一事を以て地獄行きだと思った。


 麻井については……言葉のうえでは顔を立てたが、実のところあまり裏切ったという思いがない。だ、罪悪感は一応、ある。

 あの男子生徒は、同い年だというのに、やたらと胡散臭い。学校でで起きた大小様々な事件事故の全ての黒幕だと言われても、なんとなく、で納得してしまえる胡散臭さだ。相当な強い臭気である。

 

 とはいえ、自分に好意を抱いてくれていることは、どことなく感じてはいた。

 まだ色恋を知らない愛子ではあるが、いずれはそういう経験もするのだろう、と漠然とは思っている。だからこそ、打算だか情だかは知らないが、自分に声をかけてきた麻井の言葉を切り捨てたことに対しては、悪いと思っている。


 香田については……今のところどうとも思っていない。

 協力については純粋に有難いと思う。人手は多いほうがいい。

 しかし、香田が自分への好意から協力を申し出たわけではないことには、気付いていた。口に出されたわけではないが、「暇潰しに手伝ってやる」との態度で協力を申し出られても、そこまで恩には着れない。

 

 一年前の愛子であれば、相手の思いがどうであろうが自分にとって嬉しいことであれば、全身で喜びを表しながら、何度も礼を言っただろう。それも、誰もが魅了される弾けるような笑顔で。

 だが、今の愛子にそれはできない。目標は第二も第三も無く、ただただ、父である村上智昭の発見。それ以外に無い。そのために使えるものなら何でも使う。

 仮に麻井が制止ではなく協力を申し出ていたのなら、その場を取り繕って、嘘泣きの一つでもかましながら、髭守の人間を総動員させただろう。




 たかが中学生。たかが子供。手段は荒唐無稽。しかし、その思いの強さだけは、本物だった。愛子は全身全霊をかけて、智昭を探す。

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夏と龍 佐伯 裕一 @yuichi-saiki

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