チェンソーマンとディストピア・デフォルト
久しぶりの投稿になります。
最近、動画サイトで「チェンソーマン」関連の動画をよく見るのですが(アルゴリズムで流れてくるというのが大きいと思いますが)、おっさんなりに世代間ギャップを感じている次第です。
「絶望をしている者があったら、可能性を持ってこい」
キルケゴールの有名な一文ですが、可能性とはまあ、希望ということでよいかと思います。
作品を分析されている方の多くは、いまの現役世代である若い人たちは
「絶望がデフォルトであるので、そもそも絶望という観念そのものを認識できない」
すなわち
「希望を認識できるはずもない」
というのですね。
なるほどなあと、悠長なことを言ってよいものやらですが、われわれロスジェネ世代とか氷河期世代とか呼ばれる世代にとっては、良きにつけ悪しきにつけ、日本が栄えていた時代をなまじ知っているからこそ、まだ希望なるものが認識できてしまうというわけです。
「できてしまう」
ところが残酷かもしれません。
だからこそ
「がんばればなんとかなるかも」
なノリで、漠然とした希望を追ってしまうのではないでしょうか。
タイトルにした単語は思いつきの造語ですが、チェンソーマンはある意味で、そんな考え方、あるいは世代そのものに対する、ある種のアンチテーゼであるようにも取れます。
これは善意・悪意の次元ではなく
「本当にそういう状況・環境に生まれてしまったから」
なのでしょう。
そうなるとやはり、向き合うとかのたまっていることは古いのかと、虚無的な気持ちになっていた次第です。
人類不変のテーマだと思っていたものも、時代の流れには勝てないのか。
この辺もおっさんくさい思考ですね。
昔はよかったとか言い出したら、それこそオワコンですわな。
かといって足並みをそろえるには、精魂枯れてきておるし。
しかし面白いのは、歴史的にもこうようなタームは繰り替えしているという点ですね。
免罪符や念仏が流行したあとにどうなったかということですな。
この辺に、われらの世代にとっての「希望」があるように思えます。
一周回ってもう一度「向き合う」時代が来るかもしれません。
そのときまで持つかが問題ですが。
若い方にはあいかわらず醜悪なエッセイで申し訳ないです。
なんせ幼稚園のときからジジイあつかいされてきた男なので。
こんなことをぼやきつつ、チェンソーマンに触れて逆に希望を見出すというヘンタイチックなわたしなのでありました。
ただ、米津さんの新曲は最高ですね。
ではでは~。
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