令和4年に幸福論を叫ぶ
前回の流れから、今回は「幸福」について何かボヤいてみたいと思います。
タイトルはそれっぽくしただけなので、気になさらないでください。
さて、「幸福論」というと、
・ラッセル
・アラン
・ヒルティ
が、いわゆる「三大幸福論」と呼ばれています。
各著作について、手っ取り早く知りたいという方は、たとえばYouTubeのアバタローさんのチャンネルなどがよいと思います。
哲学書をわかりやすく解説されている方になります。
「幸福」と一口に言っても、いろんなアプローチがありますので、今回は日本の哲学者・三木清先生の考え方を引き合いにしてみようかと思います。
前回の最後に、「刹那的な幸福感」と「真の幸福」という二つの単語を出しました。
三木先生によれば、前者は言葉どおり「そのときだけのもの」であって、後者は「持続可能なもの」だということです。
SDGs?
もしかしたら、つながるところがあるのかもしれません。
ここで気になってくるのは、
「持続する幸福」なんてどうやれば手に入るの?
になるかと思います。
これを考えるためには、逆を取ってというか
「人間は何に対して、自分は不幸だと感じるのか?」
を吟味するのがよいようです。
たとえば
・承認されない
・お金がない
・満たされない
・そもそも何をもって幸福な状態なのかがわからない
など、いくらでも出てきそうです。
先生はやっぱりというか、
「向き合うことが大切なんだよ」
とおっしゃっています。
自分としても、これは「昭和のオッサンがする時代遅れの思考」ではなく、「人間にとって避けられない命題」だと信じたいところです。
希望的観測、なのかもしれませんが……
では、「向き合う」ためにはどうすればよいか?
ここですよね、最大のネックは。
古今東西の思索者たちは、どうも「二元論」的な思考回路を持っている傾向を見受けます。
つまりこの場合、「幸福」と「不幸」は対極にある別個なものなのではなくて、たとえるのなら、「昼の月」と「夜の月」のように、同じものなんだけれど、状況によって見え方が違う、「幸福」と「不幸」に話を戻すと、結局、「取り方次第」であるということになります。
・ピンチとチャンス
・美と醜
・善と悪
なども同様に議論しているのです。
「取り方次第だなんて、あんまりだ」
わかります、嫌というほど。
「幸福はどこかに落ちているものではない」
「むしろ不幸から、苦難から、苦痛から見出すもの」
この二つは小説の中で出したセリフですが、特にも若い方からは嫌われそうですね。
「気持ちの問題」
というと、吐き気を催す方もおられるかと思いますが、じゃあどうやったら、その「気持ち」を転換できるの?
ということになりますよね。
それは、
「考えつづける」
しかない。
という「身もふたもない」ように見えるところへと帰着してしまいます。
しかしながら、これは「人間に課せられた宿命」であって、いっぽうで「人間にしかできないこと」であるような気もします。
次回以降はもう少し具体的にしていってみたいと思います。
ところで自分は、オランダのスピノザという人の考え方が好きなのですが、スピノザ先生の「完全であるとは何か?」という思索が、なかなかに面白いのです。
先生はたとえば、「牛」を引き合いに、「角が生えていなければ、牛ではないのか?」ということを言っていて、この思索が示すのは、「人間は往々にして、『基準』に惑わされる」ということだったりします。
「牛とは角が生えているもの」
という「基準」から、
「角が生えていなければ、牛ではない」
と言う人も出てくるわけです。
人間は「基準」=「ものさし」を作るのが大好きです。
いまふうに言えば、
・カテゴライズ
・レッテル貼り
などが挙げられると思います。
どうも「向き合う」ヒントのひとつは、この「ものさし」とどう向き合うかのという議論になりそうですね。
長くなってきましたので、この話は次回にやってみたいと思います。
どんどんお堅い内容になってきているような。
読んでくださって本当にありがとうございます。
ではでは。
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