能力値は存在する、圧倒的に……!
「能力値は命より重い!」
タイトル回収、ありがとうございます。
前回の予告どおり、今回は人間の「能力値」についてボヤいてみようかと。
マイケル・サンデル教授の近著が話題のようですが、能力主義による分断というのは、よくも悪くも興味深いですね。
「できる人は、できない人の気持ちがわからない」
「自分ができることは、誰でもやればできると思っている」
ということです。
ここから、「やっている、努力しているのに、できない人間」を、「努力が足りない」「怠惰である」と見なす傾向があるんだとか。
古くは近代社会学の父と呼ばれる、トマス・ホッブズ先生も似たことを言っています。
「能力値の差なんて、ないに等しいから安心しる」
ちなみに彼は、なんでもできる系の人でした。
「人間とチンパンジーの遺伝子の差は1%程度」
らしいですが、この「わずかな差」というものが、人間どうしにとっても、外的には大きく働くのではないでしょうか。
脳の構造としてはかすかだとしても、ということです。
自分も集団行動だとか、社会での処世だとか、そういうほうはポンコツで、うまくいくことのほうがレアです。
グラデーションのようなものだとすると、最大多数の平均値から落ちる者は、憂き目にあうということなのでしょう。
どうすりゃいいんじゃい。
キルケゴールいわく、
「絶望している者には可能性を持ってこい」
ということですが、また岡田斗司夫さんのチャンネルからの知識によると、
「自分が普通にできて、周囲が簡単にはできないこと。それが才能であり、能力だ」
しかしいっぽうで、
「社会的には需要のない能力も少なくない」
う~ん……
「とかくこの世は生きづらい」
漱石先生も言っていますが、これは不変的な悩みなのかも。
最後は友人の言葉を紹介しますが、
「人生なんて運ゲー」
だそうです。
これはサンデル教授も指摘されていたりします。
いわゆる成功者は、自分が運で勝ったとは認めたくはないようで。
これはひょっとして、永遠に解決しない課題なのかも?
こうなってくると、やはりというか、「幸福とはなんぞや?」という議論になるのかもしれません。
たとえば三木清先生は、
「刹那的な幸福感は、真の幸福とは違うものだ」
と看破していたりするんですが、個人的は「刹那的な幸福感」もアリだと考えています。
たとえるのなら、真の幸福が「主食」だとすると、刹那的な幸福感は「おやつ」でしょうか。
この話題は長くなりそうなので、次回以降に書いてみます。
ではでは。
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