二十三歳 その4

 能勢葉月と大西可奈子が初めて出会った場所は、二人とも入学式の日の中学校だと記憶している。


 しかしながら、それは実のところ、彼らの思い込みに過ぎない。二人は同じ中学校に入学するはるか以前、お互いが五歳の頃に一度顔を合わせているのだ。本人たちは、それを認識していないだけである。


 彼らの共通の故郷である地方都市の、中心地にある公園。

 今は早めの桜がちらほらと立派に咲いている。


 葉月は実のところ、体育館を出た時点では、どこへ行くべきかよく考えていなかった。しかし中学校の門を過ぎたら気づかぬうちに、この場所へ来ていたのだった。


 まだ満開ではないが、花見に来た人は大勢いて賑わっていた。それはもう春の景色だ。

 お堀を渡り、城壁の中へ進む。江戸時代の城郭を保存したこの公園は、歴史を感じさせる石垣に囲まれている。


「お花見?」

 可奈子が数センチ浮いてしまいそうなほど軽やかに言った。

「だね。ちょうど時期だし」

「良いチョイスだねえ、ここを選ぶとは」

 可奈子はやけに嬉しそうだ。彼女もここに来たかったのだろうか。

「——あっ」

 と短く声を上げると、可奈子は何の説明もなく前へ走って行った。

 いきなりどうした?と戸惑う葉月は、とりあえずスピードを変えず歩き続ける。


 レジャーシートがいくつも敷かれ、強い風でそれらがめくれそうになるのを、皆必死に押さえている。

 芝生の広場だ。春の間だけは、この場所が公園内で一番華やかになるのだった。

 ここに来るのはいつ振りだろう?花見のために来たことなんて、大昔に家族と一度あったくらいではないか。


 ——そう、驚くべきことに、葉月の目にはその時の映像が残っている。ずっと前に申し上げた通り、彼の記憶の中で、最も古い「桜の景色」はその日のものなのだ。


 可奈子は急ぐようにある桜の木の下にたどり着くと、今度はその場でしゃがみ込んだ。

「えっと……可奈子?」

 小声で言ったから、本人には届いていないかもしれない。葉月は歩調を早め、可奈子の手前で立ち止まる。


 彼女は全意識を吸い取られたかのように、足元の何かを見ていた。それから、地面に生えた何かに手を伸ばす。

 摘み取っているのだ。この植物は——何だろう?


 葉月はそれを見ていた。質問をするでもなく、話しかけるでもなく、ただその場に立っていた。

「——花冠」

 その言葉が出てきたのは、何分も経った後だった。

 何も訊いていないのに突然言うので、最初は彼女の声だと気づかなかった。


「花冠、作ってるの。こういうの懐かしくない?」

 振り向き、顔を見ながらそう言われて、初めて可奈子が話しかけてきたのだと分かった。

「ああ——えっと、オレは作ったこと、ないかな」

「あそっか、確かに男子が作ってたイメージないね」

 と言い、また可奈子は同じ花に手を伸ばす。


「見るとやりたくなっちゃうのよね。昔よく作ったなあ……」

「そんな簡単に作れるもんなの?」

「簡単だよ。能勢ちゃんも作る?」

 言いながら、可奈子は葉月を見上げる。


 いきなり走って何かに熱中し始めたと思ったら、花冠だとは。つくづく予測不能の人だ。

「いや、オレにはあんまり向いてない気がするな」

「そんなことないって」

 子供のように笑う可奈子の手の中で、もうほとんど冠は出来上がっている。

「ほら、こっち」

 と手招きされると、葉月には抵抗する術がない。渋々、可奈子の近くに寄ってしゃがんでみた。


 地面が近づいて、足元の小さな世界にピントが合った。

 彼女が一本ずつ摘んでいるのは、すっと伸びた茎の先に細かくたくさんの白い花びらがついた、綺麗な花だった。


「これは——」

「シロツメクサ、だったかな」

 可奈子は言いながら、また一本摘み取る。

「冠が作れるほどたくさん咲いてる所って、あんまりないのよね」

「確かに、こんなには見たことないかもな」

「うん。しかもちょうど手頃な長さがないとね。よし、最後の一本」


 彼女の手は、様々に咲いたシロツメクサの上を漂う。

「手頃かどうかって、どうやって決めるんだ」

「ん?それはまあ、直感だよ」

「直感?」

 葉月の方には目もやらず、得意げに頷く。

「何かこう、何となくこれならいけるかなってやつを選ぶの。例えば——」


 彼女は葉月の目の前にあった、確かに他より背の高いシロツメクサを手に取った。

 そして歌うように呟く。

「これかなあ」

 彼女はそれをほぼ完成した花の輪に、葉月には到底分からない手順で編み込む。久しぶりとは思えない手際の良さだった。

 可奈子は両手でその完成した冠を、徐々に顔の前に持ってきた。


 葉月はそれを目で追っていた。

 追っているうちに、

「ほら、できた——」

 目が合った。

 その瞬間。その場で起こったことを、全て言葉で説明するのは難しい。


 一つ確かなのは、どこからともなく、突然強い風が吹いたことだ。足元の草花が一気になびき、木々は葉の音を忙しなく鳴らした。レジャーシートがあちこちでパリパリと拍手のように響き、耳元を通り過ぎる風の轟音が歓声のようにも聞こえた。


 葉月の目にはその時、様々なものが映っていた。


 風に揺れる木漏れ日。それに照らされる可奈子の透き通った瞳、さらりとなびく髪、驚きの混じった笑顔と、完成した花冠。

 そして風の勢いで空中に舞う、視界を彩る桜の花びら。


 それは一枚ずつが意思を持っているかのように、風と戯れるように、右から左へ、上から下へと様々な軌道を描きながら落ちて行った。


 彼にはそれが、空から降ってくるように見えた。

「——花吹雪」

 声にならない声は、それを発した葉月自身にさえ聞こえなかった。

 それでも充分だった。


「——能勢ちゃん」

 何も言って来ない葉月を心配したのか、可奈子は小さく首を傾げる。

 葉月はその真剣な顔つきを、真正面から見つめた。

 ずっと昔から目の前にいた、幼馴染の姿。


「能勢ちゃん?」

 目を丸くして固まる可奈子から、葉月は花冠を受け取った。

「ああ、」

 こういう時、なんて言えば良いんだろう。


 ずっと言葉にすることができず、いや存在にすら気づけずにいた感覚が今になって、少しずつ潮が満ちるように姿を表していくような気がした。それを単語や文章で表現しようなんて、元々が無理なことなのかもしれない。

 だとしても、少しずつでも、伝えなくてはならないと思った。


「はい」

 葉月は、冠をそっと、可奈子の頭に乗せた。

 可奈子は分かりやすく、驚いた顔をした。でもそこには、笑顔のかけらのような表情も見え隠れしていた。


「どうしたの?」

「どうもしませんけど」

 葉月は大きく深呼吸をした。

 可奈子は薄く頬を染めながら、頭の上の冠に手を触れた。

「——ほんとに?」

 葉月はそこで初めて、自分の指が細かく震えているのに気付いた。

「いや、あのさ」


 どうして、急に喉が渇くのだろう。どうして急に、彼女の目を見られなくなったんだろう。

 ちょっと暑くなってきただろうか。自分の心臓の鼓動が聞こえ始めた気がする。

 なぜだか、さっぱり分からない。もう分からないことだらけだ。


 だけど自分はこの瞬間を、ずっと前から待っていたんじゃないか。そんなことを、葉月は心のどこかで確かに直感していた。


 両手を握りしめ、葉月は咳払いのふりをして、喉を鳴らした。それから大きく息を吸い込む。

 可奈子はいつものように微笑みながら、その手をゆっくりと、次のシロツメクサへと伸ばしていた。


「——可奈子」

「——うん」


 この笑顔は、彼にとって、一生忘れられないものになる。

 しかし葉月は当然ながら、まだその事に気付くべくもないのだった。




 ——さて。

 この後能勢葉月がいかなる決断をしたか、大西可奈子がその時どんな反応をしていたか。そして彼らの今後に、何が待ち受けているのか。

 ここで微細に説明してしまうこともできなくはないのだが、あえてそれは別の機会にとっておきたいと思う。


 なぜなら、そこまで書いてしまえば、さらにその先のことまで書く必要が生じてしまうからである。人生における様々な出来事が、簡単に切り離せはしない仕方で繋がっていることは、今ならご理解いただけるのではないだろうか。


 それでも物語は、どこかで終わらなくてはならない。もちろんそれは、決して彼らの人生の終わりを意味するものなどではない。ただ最もキリのいい所で、語るのを終えるだけである。


 そういうわけで今のところ、二人のその後については恥ずかしながら、「ご想像にお任せする」という月並みな表現に委ねることになる。

 ご心配には及ばない。きっとこの話の先には、バッドエンドなど用意されていないはずである。


 なんと言ってもあの二人には、「偶然」が味方についているのだ。

 「偶然」。それは私の知る限り、尻尾も後ろ髪もない悪戯好きである。

 この世のどこに、そんな厄介者の邪魔をできる人間がいようか?


 それでも、どうしても彼らの行く末が気になる方のために、一言だけ。


 ヒント、と言うほどでもない。しかしこれだけ申し上げておけば、今までの話を読んでいただいた皆さんには充分すぎるほどではないか、と私は信じている。


 ——あの二人はまた、「次の一周」を始めたのだ。



(完)

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針と鉛筆の曲線 すずき @bell-J

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