二十三歳 その3
中学校に入学してすぐの部活一日目、部室に入るまでのことは、緊張していた以外に何も覚えていない。
先輩はその前の日に、「じゃあ、次は部室の場所、一人でも分かる?」と聞いてきた。葉月は、もちろん道は覚えていたから頷いた。
しかし先輩に連れられてではなく、一人で部室のドアを開けて吹奏楽部というコミュニティに入っていかなければならないのは、ちょっとしたハードルだった。
吹部の部室は、ドアを開けるまで中の様子が分からない。開けた先が先輩ばかりだったら、知らない人しかいなかったら、その人たちの注目を一瞬でも浴びてしまうだろう。
が、くよくよ言っていても仕方ない。実際葉月は、それも「喉元過ぎれば熱さを忘れる」的な一瞬に過ぎないんだ、と腹を括っていた。
放課後気を引き締めて、部室へ向かった。早歩きで、寄り道もせず。
ドアの前に立つと、手や足先の冷たさを思い出したように感じた。きっとここで立ち止まれば、もっと緊張が増すだろう。一気に行くのだ。
葉月はドアノブに手を伸ばし、勢いよく回して押した。
「こんにちはっ!」
しかし事態は予想外の展開を迎えた。
あるはずのない、鈍い手応え。「うわっ!」という、誰かの短い悲鳴。
何が起きたのかはすぐに分かった。葉月はすぐにノブを持つ手を引っ込め、中をそっと覗く。
なんと目の前で、女子生徒が体を折り足をさすっている。
やってしまった。どうしてあんな勢いで開けたんだ?
顔を真っ白にし、葉月はゆっくりと部室に入る。
頭の中も真っ白だった。かけるべき言葉を必死に探す。
「あ、あの——」
そこで、足を痛そうにさすっていた彼女が顔を上げた。
「——え、能勢ちゃん」
それはこの場所で、唯一の知った顔だった。
「か、可奈子?」
——もしかして、こいつも吹部なのか?本当に?
葉月は我に返り、急いでしかめ面を作った。
「お前なんでここにいんだよ」
「な、人にドアぶつけといて、まずそれ?」
高校に入って以降、二人が面と向かって喋ったのは、これが初めてだったはずだ。
「……派手な再会だったね」
「あれ、結構痛かったのよ」
「ごめんって。そんな何年も恨むなよ」
「アザできたからね」
「えっほんとに?」
「それは嘘だけど」
「嘘やめろ」
当時なら、意地でも認めなかっただろう。でも今なら分かる。
なんだこいつもいたのかよ、と思いながらあの時、葉月は安心していたのだ。
あの完全にアウェーな場所で一人でも、知り合いがいたことに。
そしてそれが、大西可奈子だったことに。
「部活一緒じゃなかったら、私も能勢ちゃんもここにはいないだろうね」
「それは——そうかも」
もしも、は考え出せばきりがない。
「まあ、結局卒業したら一旦バラバラになったけどな」
「確かに」
言われてみればそうだ。可奈子は、ちらりと葉月の横顔を見てみる。
上を向いて、彼も何かを思い出しているようだった。
可奈子はそれに倣って、葉月のいる記憶をできるだけ振り返ってみる。
こんな風に思い出してみれば、彼と今ここにいるのは不思議なことだ。何百キロと離れた大学に進んだのに、なぜか元の中学校の体育館まで戻ってきた。
どこが、ここに至る分岐点だったのだろう。
成人した年の、同窓会?
それともミカとご飯に行った時?
いやきっと、それだけじゃない。
「全部だね」
「へ?」
彼は、急に出てきた可奈子の言葉に首を傾げる。
葉月も同じようなことを考えていただろうか。横顔だけでは判断がつかない。
「今までの全部が、私たちをここに連れてきたような、そんな気がしない?」
葉月は変な顔をした。「何言ってるんだ?」という疑問の表情にも見えたし、言葉の意味を吟味しているようにも見える。
そんな顔をされると、可奈子自身も何だか変なことを言ってしまった気になる。
だけど、そう思うのだ。
中学に入ってから、いやもしかするともっと前から経験してきた全てのことが、可奈子と葉月をこの場に導いたんじゃないか。
もしも、あの時あのクラスにいなかったら。
もしも、あの日に雨が降っていなかったら。
あの人に出会わず、あの音楽にも出会わなかったら。
きっと、全然違う今があったのだろう。それは間違いないことのように思えた。
「ここが人生のゴールみたいな言い方するじゃん」
葉月はそれだけ言った。
そんなつもりはなかったが、可奈子は反論しなかった。葉月にも、真意は伝わっている気がした。
彼は突然、ストンと下に落ちた。いや、ステージのへりから体育館の床に降りた。
驚いている可奈子を楽しむように見ながら、葉月は向こう側を手で示す。その先には暗くて見えづらいが、体育館の出口があったはずだ。
「よし、行こう」
その声は、目の前でふんわりと浮かぶように聞こえた。
「行くって、どこに?」
「こことは違う所」
と言って、目的地は教えてくれなかった。しかし彼は、むやみに可奈子を不安がらせたりはしなかった。
葉月は、いつもと同じ表情をしていた。何か楽しいことを見つけた時の顔だ。
可奈子はぴょん、と跳ぶようにステージを降りた。靴下ごしのひんやりした床が心地良い。
そうして出口まで早足で歩いて行き、二人で誰もいない体育館に別れを告げた。
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