⑪霧のウェンディゴ
泰彦はハーネスにロープを通して、安全を確保すると、崖を降り始めた。その足は恐怖からか少し震えており、その手は緊張からか強張っている。
「いいか、基本は通常の岩登りや岩降りと変わらない。両手両足のうち、三点を固定できるようにするんだ。残りの一つで一歩ずつ着実に降りていけ。
ロープはあくまで最後の安全確保だ。あまり頼るなよ」
信介が泰彦に言い聞かせるように語った。
「昨日今日で泰彦はだいぶ慣れてきてる。お前ならできる、自分を信じるんだ」
実隆も泰彦に声援を送る。
「そうは言うけどさ、俺、こんな崖降りるの初めてなんだよ。それにずっと洞窟の中に入れて目も慣れてこないし、なんか天気が悪くない? めちゃくちゃ視界狭いぞ。
悪いけど、できるだけのフォローしてくれ」
それに対し、泰彦はぶつぶつと愚痴のような言葉を重ねながらも、必死の思いで降りていった。
だが、彼の言う通り急速に天候が悪くなってきており、周囲に霧が立ち込めてきている。視界が狭くなり、少し前まで見えていた地面の様子もおぼろげになっていた。
実隆が負傷していなければ、泰彦が最初に降りることもなかっただろう。しかし、実隆は片目になり、最初に降りさせるのは心もとなく、最後に残すわけにもいかない。そうなると、経験者である信介が最後に残るため、泰彦が一番目に降りるしかなかった。
「あおっ」
泰彦の悲鳴とともに、ズルっと滑るような音が聞こえてくる。ロープが引っ張られ、張り詰めた。信介は固定したロープの結び目がしっかりしたものであることを確認する。
「落ち着け、まだ大丈夫。まずは体勢を立て直すんだ」
実隆が声を上げた。その言葉に従い、泰彦はワタワタしながらも、どうにか岩を掴める場所、足を引っかけられる場所を探す。そして、再びぶつぶつと弱音を吐きながらも、一歩ずつ一歩ずつ降りていった。
次第に、泰彦の降りるペースもスムーズなものに変わっていくが、霧もどんどんと濃くなっていく。泰彦の姿は見えなくなっていった。
「泰彦、無事かー」
定期的に信介が声をかける。
「これヤバいんじゃないのか。昨日の雪もヤバかったけど、この霧もヤバいでしょ」
語彙が壊滅したようなことを泰彦がブーブーとぼやいた。
「霧は山には付き物だ。確かに視界の悪さは危険だが、とにかく落ち着いて降りていこう」
実隆が言葉をかける。
それでも、泰彦は納得できないようだった。
「雪と霧といえばウェンディゴだよ。イタカが出てくるんじゃないか。こんな崖の上で遭いたくはないよなぁ。
ああ、もう、いつ地面につくんだよ」
泰彦は延々とぶつくさ言いながら降りていたが、やがて地面に辿り着いたようだ。
「おお、やっと足がついた。ああ、よかった……」
ふわっとした風が一瞬だけ吹いた。
その直後、泰彦の声が聞こえなくなる。さきほどまでうるさいほどだったのに急に静かになった。
「おい、泰彦、大丈夫か!?」
信介が呼びかけるが、反応はなかった。
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