お願いの一コマ+アルファ

阪木洋一

冬の日の勇気


「おはようございます、好恵先輩」

「……うん、おはよう、陽太くん」


 とある冬の日のことである。

 平坂ひらさか陽太ようたが、高校時代の一つ上の先輩で、今は男女のお付き合いをさせていただいている女性――小森こもり好恵このえと会っていつものように挨拶を交わして、


「……?」


 ほんの少しだけ、彼女の様子に違和感を抱いたのは。

 本日、お互いの学生生活が忙しい中でちょうど休みが合致した日で、久しぶりの二人きりのお出かけに昨夜から胸を躍らせていた陽太なのだが。

 今日の好恵先輩を一目見て、何かが違う、とわずかに感じる。


「映画まで時間ありますから、早いけど先にお昼済ませちゃいましょうか」

「……うん、そうだね。陽太くん、手」

「はい」


 ただ、お出かけの始めには、こうやって必ず手を繋ごうとしてくる好恵先輩は、いつも通りの彼女である。

 そして、陽太が彼女の手を優しく取ると、


「……ん」

「っとと、好恵先輩、くっつきすぎですって」

「……そう? 歩きにくい?」

「いえ、そんなことは。ただ、ここは結構人も多いですし、わりと恥ずかしいと言いますか……!」

「……わたしもちょっと恥ずかしいけど、陽太くんと一緒なら大丈夫」

「そ、そうですか」

「……それに。陽太くんとこうしていると、どんな冬の日でも、ぽかぽかしてて温かくなれるから」

「~~~~~!」


 こうやって肩と肩を密着させるかのように距離を縮めつつ、しっかり手指の一本一本を絡める手の繋ぎ方――言わば、恋人繋ぎをしてくるのも、やはりいつも通りだった。

 好恵先輩がここまでしてくれるのは、陽太にとって非常に光栄なことであるのだが……彼女のそういう距離感があまりにも無防備すぎて、陽太自身、こちらからどうやって踏み込んでいいものなのかが、昔も今も掴めないままでいる。

 ともあれ。

 ここまでとなると、先ほど抱いた違和感は、気のせいだったのでは……? などと思ってしまうのだが、


「……陽太くんは何か食べたいもの、ある?」

「あ、はい。何でもいい……っていう回答は困りますよね。まだ早い時間ですので、手軽にファーストフードにしようと思うけど、好恵先輩はいいですか?」

「……うん、それでいいと思うよ」

「じゃあ、行きましょっか、好恵先輩」

「…………うん」


 その、彼女の受け答えには。

 やはり、いつも通りとはちょっと違う隙間を、陽太は感じずにいられない。


「好恵先輩」

「……なに?」

「ちょっと、調子悪いですか?」

「――――」


 だから、陽太は訊かずにいられなかった。

 一見して、今の好恵先輩はいつも通りの彼女なの知れない。

 おさげに二つ結びにしている髪も、眠たげな焦げ茶色の半眼も、ちょっと丸みのある輪郭も、薄目にリップが塗られて血色のいい唇も、あと白のセーターにベージュのもこもこコートに手編みの赤いマフラー姿も、すべてがすべて、彼女は可愛い。

 陽太はそんな彼女の可愛さに、昔も今も、心臓を撃ち抜かれる心地なのだが……まあ、それはさておき。

 今、陽太が気付いたことは、


「好恵先輩、なんだか少し、迷っているように見えますから」


 そう。

 先ほどからずっと、好恵先輩の表情がわずかに曇っているとわかるのだ。

 彼女自身、こうやって手を繋ぐところまでは本当にグイグイくる無防備さだというのに、もう一つ陽太に何かを言いたそうで……それを、我慢しているように見えるのだ。

 そして。


「…………えっと」


 好恵先輩がピクリと肩を震わせて、その眠たげな半眼の視線が少しだけ余所に行ったのには、推測が確信に変わったと言ってもいい。

 でも、確信だったとしても、陽太ははやる気持ちを抑えつけて、


「ああ、無理に話さなくていいんです。誰にも言えない悩みって、やっぱりあると思いますし」

「……それは、そうなんだけど」

「でも、やっぱりオレ、好恵先輩のことすっごい大事です」

「……あ、そ、それは、ありがとう……」

「話してほしいって気持ちもあるけど、話してくれるまで、ちゃんと待ってます。オレはいつだって、好恵先輩の味方ですか――」

「よ、陽太くんっ!」

「ら……って、は、はいっ!?」


 今の自分の彼女への想いを出来る限り伝えていたところで、立ち止まって、いきなり好恵先輩が名前を呼んできたのに、陽太は裏返った返事をしてしまった。

 好恵先輩、耳まで真っ赤にしつつ、ちょっと涙目でぷるぷる震えながらこちらを見てくる。

 はっきり言って、そんな彼女も可愛かったけど、和んでいる場合ではない。むしろ焦ってしまう。

 自分は何か、まずいことを言っただろうか……?


「……ご、ごめんね? 陽太くんの言っていることは正しいし、それに、陽太くんの気持ちもとっても嬉しくて、つい大きな声を出しちゃって……」

「え? いや、まあ、それは気にしなくていいッスよ」

「……陽太くんの言うとおり、わたし、迷っているの。でも、ちょっと、陽太くんにお願いしづらいことかも知れなかったから」

「お願いって……それだったら、遠慮せずとも何でも言ってくださいよ。好恵先輩のためなら、例え火の中水の中に飛び込めとか言っても平然と叶えちゃいますっ」

「……そういうお願いじゃないし、あと、ちょっとは自分のことを大事にしてね?」


 張り切ってると、逆に窘められてしまった。

 冗談のつもりが、真に受けてしまうところがまた彼女の可愛いところではあるものの、好恵先輩はいたって真剣である。

 だからこそ、ここは真面目に彼女に向き合おうと陽太は思う。


「火の中水の中はさておき、さっき言ったとおり、遠慮せず何でも言ってください。ただ、無理に言わなくていいんです。好恵先輩の心の整理がつくまで、ちゃんと待ってますんで」

「……ううん、何でもかんでも先送りは良くないから、今言う」

「好恵先輩?」

「……ちょっとだけ、深呼吸させて」


 と、傍目からはわからないのだろうけど、高ぶった気持ちを抑えるかのように大きく呼吸をする好恵先輩。

 冬の冷たい空気の中、一回、二回、三回と呼吸する度に、白い息が長く漏れ出る。

 それほど、緊張しているのだろう。

 そんなにも重要なお願いであるからには、陽太も陽太で、結構緊張してきた。


 一体、彼女は何をお願いしてくる気だろう?


 これまで、二人きりでのデートはもちろん、遠出による旅行もそこそこ回数をこなしてきている。

 プレゼントも何回も贈っているけど、値段の張る物については好恵先輩はそこまで高望みしてこない。

 これから出かける場所については既に決まっている……というか、これらのお願いについては、普段の彼女はわりと深くは考えず、迷わず即断するタイプでもある。

 つまり、これまでにない何か重要なことを、好恵先輩は言い掛けている?


 ……もしや。

 

 いろいろ考えて、陽太は一つの可能性にたどり着く。


 結婚、とか……?


 たどり着いた瞬間、陽太、鼓動が跳ね上がった。

 光栄なことに、陽太が好恵先輩と男女の付き合いを始めて、もう四年以上の年月が経過している。

 ここまで時間を重ねてきたとならば、そういう話もチラホラ出始める頃なんだろうか?

 だが、お互いまだ学生の身である。

 就職がこれからという経済的な面もあるだろうけど、なにより、陽太自身が社会的にも精神的にも成熟した一人前の男になるのに、あと五年はかかるだろうと踏んでいる。

 それよりも早くそういう話が出てきて、果たして、陽太は彼女を受け止めきれるだろうか……などという不安が出る、傍ら。


 ……はたまた、もしや。


 もう一つ、陽太には思い浮かぶ可能性がある。


 別れ話、か……?


 思い浮かんだ瞬間、陽太、全身から血の気が引いた。

 先述の通り、陽太が好恵先輩と付き合いを始めて四年以上。ちょっとしたケンカもあったし、ささやかなすれ違いもあるにはあった。

 それでも、今までご近所付き合いかつ家族ぐるみで仲も良好だと自分では思っていたし、これまで重ねてきた時間の中で、彼女が他の男性に靡いた様子は一片も見かけたことがない。

 ……ただ、好恵先輩は自分のやりたいことに対して非常に熱心である。

 今、彼女が学生として専攻している栄養学については、これまでの人生の中で情熱を注いでいると言っていい。

 だからこそ、お互いに大学生になってからは少しだけ会う日が少なくなった。通っている大学も違うことだし。

 つまるところ。

 好恵先輩が自身の夢を追いかけるために、陽太は足枷になっているとでも……?

 だとすれば、陽太のすることは一つ。そのお別れのお願いを受け入れて、彼女の夢を応援することである。

 もちろん、陽太にとって彼女が傍に居ない人生など考えられないが、彼女があくまでそれを選ぶならば、陽太は断腸の思いで――!


「……陽太くん、どうしたの?」

「はっ!?」


 と、思い浮かぶ可能性に翻弄されていたところで、自分の名前を呼ぶ声に、陽太は現実に回帰する。

 見ると、正面、好恵先輩がいつものようにちょっとボーッとしているような半眼で、こちらを見てきている。

 緊張している様子は……あるにはあるが、心の準備はとうに済んでいるようだった。


「あ、いや、だ、大丈夫ッス! オレもオレで、腹を括りますんで! いろいろな意味で!」

「……? そうなんだ」


 ならば、どちらの可能性でも、口にしたとおりに腹を括らねばならない。

 だが、どっちかというと前者であってほしい。覚悟完了してないとはいえ。こういう思考、ちょっと男らしくないだろうか?

 ……ともあれ、陽太はどうにか荒ぶる心を鎮めにかかる。

 まだまだ緊張するが、出来るだけの覚悟を持って、


「さあ、言ってください。好恵先輩のお願いを……!」

「……そこまで力を入れなくても」


 意気込む陽太が可笑しかったのか、好恵先輩の表情が緩んだ気がした。

 ……結果的に、話しやすい空気を作れたということだろうか?

 それはそれで良かったかも知れないが、陽太、未だに緊張が解けない。


「……陽太くん。わたし達、付き合い始めてもう四年経つよね」

「は、はい」


 そんな空気の中で、好恵先輩は話し出す。

 切り口が、先ほど陽太が浮かべていた可能性と一緒で、余計に緊張する。

 ならば、到達点はどっちだ……!?


「……この四年間も、もちろんその前も、陽太くんと何回もお話ししたし」

「はい」

「……何回も一緒に遊んだし」

「はい」

「……何回も、キスをしたし」

「はい……」

「……その、えっちなことは、まだちょっと回数が少ないかも知れないけど」

「は、はい……!」

「……それだけ、陽太くんと重ねてきた時間を、わたしはとっても大事に思ってる」

「…………はい」

「……だからね、そろそろ」


 とまで言って、好恵先輩は、もう一つ深呼吸をする。


 そろそろ、なんだ?

 そろそろ、一体、何だ……!?


 そのように、身構える時間が、陽太にとっては永遠の時間のように思えた、その先に、



「そろそろ、先輩って呼ばずに……普通に、好恵って呼んで?」


「………………はい?」



 彼女の口から出てきたお願いに、陽太は固まった。

 今、好恵先輩はなんと……言ってきたかについては、ちゃんとこの耳で聞いた。

 ただ、一瞬だけ理解が追いつかなかった。

 そして、


「ええと……!」


 理解がようやく追いついた瞬間。

 まずは、先ほどまで抱いていた結婚だの別れ話だのという不安が、壮大な杞憂だったことに安堵したり、ちょっと恥ずかしかったりしたのと、


「オレが、好恵先輩を、よ、呼び捨てに?」


 その後に、彼女のお願いが自分の中ではハードルが高いことに、陽太はいろいろ困惑した。

 初めて出会ったときから、陽太にとって好恵先輩は――その、可愛くて、ちょっと儚くて、守ってあげたくなるけど、頭が良くて家族を大事にしてて尊敬できる、憧れの先輩である。

 四年経った今も、こうして男女のお付き合いが出来ることを陽太は光栄に思っているし、重ねてきた時間の中で、彼女に恋焦がれた回数はもはや数え切れない。

 だからこそ、好恵先輩を『先輩』と付けずに呼ぶことには、陽太の中では結構な抵抗がある。


「……駄目?」


 そんな陽太の困惑を余所に。

 ちょっと切なげに訊いてくる好恵先輩がこれまた可愛くて、陽太が彼女に恋い焦がれた回数に、またもプラス1カウントがされてしまった。

 ……とまあ、色ボケしてないで、彼女に回答せねば。


「だ、駄目、とは言わないですけど、今までずっと先輩呼びでしたから。その、オレの中ではまだ抵抗があるというか……それにやっぱり好恵先輩の方が年上ですし」

「……年上でも、呼び捨てくらいすると思うよ? 姫ちゃんや吟ちゃんなんかは特にそうだったし」

「あの人達はかなり特殊だったというか、そこまで図太くはなれないッスよ」

「……でも、陽太くんは、逆に年上の人と距離を測りすぎだと思うの。わたし含めて」

「そ、そんなにですか?」

「……うん。わたし自身、陽太くんのそういうところにちょっと不安になることだってあるもん」

「――――」

「……だから、今までよりももっと、陽太くんにはグイグイ来てもらいたいし、もっと仲良くなりたいもん」


 むう、とちょっとだけ拗ねたような顔を見せる好恵先輩に、陽太は平手打ちを食らった気分になった。

 先述の通り、出会った時から今まで、彼女が陽太に対してあまりにも無防備だったものだから、デートの時だって、キスの時だって、その……えっちなことをする時だって、ほとんど陽太からは踏み込まなかった。

 彼女が嫌がらないように、彼女を悲しませないように、彼女の求めるままに、いつだって細心の気遣いをしてきた。


 ――そういう慎重さが、却って彼女を不安にさせていたというならば。


「わかりました」

「……陽太くん?」

「そこまで言うなら、オレ、もっと仲良くなろうと思うッス」


 結婚だとか別れ話だとか、そこまで極端なことではなかったけど。

 そうすることが、また別の緊張を抱いてしまうけど。

 これも、また新たな一歩として。

 平坂陽太の、腹の括り時である。



「また、これからもよろしくお願いしますね。――好恵」

「……――!」



 だから。

 誰よりも大切な女の子――小森好恵のことをまっすぐに見て、陽太がそのように呼ぶと。

 好恵は、眠たげだった半眼をカッと見開いて……それからその瞳に大粒の涙を溜めながら、ほわほわと花開くような笑顔を浮かべて、


「……うんっ」


 こちらに抱きついてきた。

 か弱い力だったけど、強く、強く。


「――――」


 対して、陽太も、ほぼ自然な形で彼女のことを抱き締める。

 今までは少しぎこちなかったかもしれないけど、今は違う。

 彼女の力強さに応えるかのように。

 これからも、絶対に彼女を離さないという気持ちで。




「それにしても、今まで好恵には気を揉ませてしまったみたいで、なんかいろいろスンマセン」


 ひとしきり抱き合った後、また好恵と手を繋いで歩きながら、陽太はちょっと反省である。

 先述の通り、これまでの好恵との時間の中で、大体陽太が受け手に回っていた気がしていたので、それに彼女が不満を抱いた回数も結構あったはずだ。


「……そこまで謝らなくていいよ。わたしが細かいことを気にしていたのもあるし、それにこれまでも、受けに回る陽太くんはとっても可愛かったし」

「か、可愛かったって……」

「……ただ、時々攻めに回る陽太くんは、とってもカッコよかったから。可愛い面だけでなく、陽太くんのそういう面も、もっと引き出したくて」

「え……そ、そッスか?」

「……うん。それで陽太くんのこと、ますます好きになったから」

「……………………」


 陽太、そこまで言われるのはただただ光栄で、なおかつかなり照れくさい気持ちではある。

 自分でも気付かなかったが、好恵にとってそういうものであれば、もっと……そう、彼女への想いを積極的に伝えてもいいのだろうし。

 初めての告白の時と同じく、もっと、自信を持っていいということなのだろう。


「わかりました。オレは好恵のことをもっと好きになりますし、好恵にはオレのことをもっと好きにさせてみせますよっ」

「――――!」


 その自信を胸中に抱きながら、そのように伝えると。

 好恵、シュボッと顔を真っ赤にして、胸を押さえながらちょっと息を荒くしていた。

 一瞬、何かの発作かと思ってしまったが、


「……改めて、なんだか、破壊力すごい」

「え?」

「……また一つ、陽太くんを好きになったと思う」

「…………」


 どうも、陽太の好恵に対する恋い焦がれ回数と同じく、好恵にとっても陽太に対する恋い焦がれ回数があったらしい。

 これもまた、光栄で、そしてまた照れくさい。なおかつ、それを口に出すには、陽太の積極度はまだ少し足りていない。


「その、ありがとうございます、好恵」

「……やっぱり、そう呼んでくれるの、嬉しいな」

「そうですか?」

「……うん。ちゃんとお願いしてよかった。それに」

「? それに?」


 ついついオウム返しで問うと。

 好恵は、またちょっと顔を赤くしながら、



「将来結婚した時なんかを考えると、やっぱり『先輩』じゃなくて、ちゃんと好恵って呼んでほしいから」


「――――」



 え?

 今、好恵は、なんと?


「あのう……好恵、さん?」

「……? なんで、さん付け?」

「あ、いや、その、深い意味はないッス。それよりも今、好恵は結婚と言った気がするんですけど……」

「……え? 将来するでしょ? 結婚」

「……………………」


 さも、当然のように訊いてくる好恵。

 これには、陽太、またも鼓動が跳ね上がる心地である。

 先ほど、自分自身で、一人前の男になるのにあと五年はかかかるだのなんだの、いろいろ考えていたというのに。

 好恵にとっては、もはや確定事項のようである。

 おそらく、陽太自身が将来どのようなことになったとしても、だ。


「……どうしたの、陽太くん?」


 思わず沈黙する陽太に、好恵は首を傾げている。

 これ以上の無回答は、却って彼女を不安にさせるだろうというのはわかったし……それに、自分は先ほど言ったではないか。

 好恵をもっと好きになるし、好恵にもっと陽太を好きにさせるって。

 彼女を名前で呼ぶ瞬間は、あらゆる意味で腹を括ったものだが……もう一度、陽太はここで腹を括る時のようである。


「いえ、少しだけ驚いただけッス。好恵があまりにも先のことを考えていたから」

「……わたしは、その未来しか考えられないよ?」

「…………オレも、同じ気持ちッス。だから」

「……? だから」


 未来の自分に、少しだけ勇気を前借りして、



「申し込むときは、必ずオレから言います。その時まで待っててください」

「……うん、待ってる」



 お願いすると、彼女は笑顔で頷いてくれた。


 ただそれだけで陽太は、大仕事をやってのけたような気分だった。

 もう引き返せないところまで来た、という決定的な出来事と。

 でも、どれだけ考えても、元より引き返す選択肢はあり得ないという答えが、自分の中ではあって。

 もはや、陽太は、定めた未来に向かって突き進むのみである。


「じゃあ、行きましょっか」

「……うん」


 そのように、好恵と手を繋いで、揚々と再び歩き出す傍ら。


 名前で呼んでもらうことはあんなに迷ってたのに、結婚とかものすごい重要なことは、さらっと決めてるんだもんなぁ……。


 改めてこの一連を振り返ると。

 彼女のお願いにいろいろ突き動かされたことを考えたり、なおかつ、彼女の中で既に確定している未来絵図があっさりと出てきて驚かされたりと。

 こちらから積極的に踏み込むと、決意を表明しつつも。



 ――平坂陽太が、小森好恵の無防備さに翻弄される日々は、ずっと続くかもしれない。



 そんな予感を、抱かずにはいられない陽太であった。

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