春の訪れ

 風が吹く。

 東から訪れる風。恵風だ。

 雪は溶け、草木は芽吹き、蕾は花開き、空に色彩を落とす。

 水を含む白い髪は煽られることもなく真下に降りたまま。白花の衣は淡く染まり、足下に跡を残す。

 仄かに微笑む冬の君の見つめる先に風に舞う髪があった。

 大地と同じ色の長い髪。健やかな肌に陽を宿したような金の瞳。

「春の君」

 か細く冬の君は存在を呼んだ。

 日の本にあまねく降り注ぐ四つの季節の恩恵。目の前に立つのはその一つである春だった。

 春が来た。冬は終わる。時折、花冷えの風は吹くかもしれない。けれどもそこに冬の在処はない。

 一歩。冬の君は歩み出した。

 春は微かに眉を動かした。

 一歩。また冬は歩む。

 その足跡は水を含み、大地に溶け込んでいく。

 距離を失った冬と春。

 金の瞳は戸惑いの色を宿し、揺れる。

 冬は眼前のあたたかな存在に目を細めて、手を伸ばした。

 白く細い指先は濡れて、雫が腕を伝い、衣に触れて吸われていく。あたたかな日射しの下なのに、冬だけは雨に打たれたかのように濡れていた。

 手が肩に触れる。春の衣は水を含んで色を変える。

 指先が色を失い、形が消えていく。雪が溶けるかのように。

 ぱたり。髪から水が滴り落ちる。

 身体に力が入らない。瞼を押し上げていることも億劫で、それでもと冬は春の顔を見詰めた。

 表情はない。金の瞳だけが感情を現しているだけ。その瞳が 何を示しているのか。冬の君にはわからなかった。

 それでも、そこに存在するものが冬にはとても愛しく恋しい。

 頬を伝う水が顎を伝い落ちていく。

 そっと、春の胸元に顔を押し付けた。

 日射しのようなぬくもりが衣越しに伝わり、うっそりと冬の君は微笑んだ。

 そして、囁いた。

「おやすみ」

 白い身体が崩れ落ちた。

 春の君の前には、冬の君だったものが残雪となって残っていた。それも雪解け水となり大地に染みて、還る。

 春の衣はまだ水を含み、色変えたまま。

 冬は休息と眠りをもたらす。時にそれは死でもあった。

 冬は死をもたらす。

 その冬に死を告げるのは春だった。

 寒さで命の炎を消してしまうのが冬であれば、そのぬくもりで冬を溶かしてしまうのが春だった。

 大地に還る冬の君だったものを見つめる。

 春は初夏の風に紛れて戻り、夏は実りを携える秋に手渡し、秋は落葉に振り返り、冬は春に溶かされる。

 次の時を待つ中で冬だけは春の訪れと共に失われる。毎年降り立つ冬の君は真新しい存在だった。

 冬の君は永遠の眠りを与えてしまう。それに付き従わなければならなかった。真新しく降り立ち、旅路の中で役目を理解する。そして、最期を運命として受け入れる。

 運命を知り、受け入れた冬の君は穏やかに春を待ちわびる。

 自身を眠らせ終わらせる春の君を恋慕うかのように待ちわびる。

 冬の溶け水を含んだ衣に手を当てる。

 春の君の最初の役目は冬を終わらせることだった。

 伏せられた眦から一滴。音もなく落ちていく。

 東からあたたかな風が吹く。

 春が来た。

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雪解け 東雲 @sikimura

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