第170話「通り」

通りはひっそりと静まり返っていた。すでに警察指定の閉店時刻を回っていた。夜空は澄み渡り、満月がかかっていた。ぼくはバルコニーにいて、たくさんの木箱やクッションを楯に身を伏せていた。

「このマンションは防音設備がいいから」

と美緒がいった。

「隣の部屋の音が聞こえる心配はないわよ」

「そうか」

「それにしても、まさかこんなことになるとは思わなかったわね。昨日までは夢にも思っていなかったのに……」

「まったくだな」

ぼくは美緒を見つめた。彼女は微笑んでいた。

「でも、これでよかったのかも……だって、わたしたち、もう別れるつもりだったんだし……それが少し早まっただけじゃない?」

「そうだな」

「あなたもそう思ってくれる? つまり……わたしと付き合っていても、つまらないんじゃないかってことだけど」

「いや、そんなことはないさ」

「本当かしら。嘘っぽい気がするけど」

「本当だよ。ただ……」

「ただ?」

「正直いうと、ぼくはまだ君を愛しているわけじゃなかったんだ。君のことは嫌いじゃないけれど、恋愛感情があるという感じではなかった」

「そうなの?」

「うん。もちろん、ぼくは君が好きだったよ。君と一緒にいるときは楽しかったし、幸せでもあった。でもそれは、男と女として愛していたという意味ではないと思う。だから、たとえ今ここで別れたとしても、それほど大きなショックを受けるとは思わないだろう」

「……」

「でも今は違う。君を失いたくないと思っている。もしまた別の女性とつき合うことになったとしたら、そのときはきっと今よりもずっと深く君を愛するようになるはずだ。今の気持ちのままで君を失うようなことがあったら、そのほうが辛い」

「ありがとう。そういってくれるだけで嬉しいわ。わたしも同じ気持ちなんだもの。あなたのことをとても好きになっている自分に気づいたの。昨日別れ話をしたときよりもっと強くね。でも、どうしてなのかしら……あのときのほうが、あなたに対する愛情が深まっていたはずなのに」

「たぶん、ぼくたちは一緒に暮らしていたからじゃないかな。毎日顔を合わせていたから、会えない時間が寂しくて辛く感じるようになったんじゃないだろうか。それと、やはり結婚を意識していたということもあるかもしれない。このままではいけない、早く結婚しなくてはと思っていた。だから、別れ話を持ち出されて、焦った部分もあったんだろう」

「そうかもね」

美緒は大きくうなずいた。そして急に黙り込み、何か考え込むように視線を落とした。やがて彼女が口を開いた。

「さよなら」

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