第164話「白い雲」

白い雲があたりいちめんをおおっているが、それをはらう人影もない。あたりはまことに深閑としている。

「ここなら誰も来ないわ」

と、彼女は言った。

「もう何もかも話してくださっていいのよ」

彼はしばらく黙っていた。それからやっと口を開いた。

「ぼくは、この世界が気に入っているんです」

「え?」

「ぼくはこの世界に生きているんだという気がするんですよ。あなたや子供たちといっしょにね。でも……ぼくにはわからないことがある。あなたがなぜぼくを好きになってくれたのか、どうしてそんなに親切にして下さるのか、その理由がわからないのです」

「理由なんかないわ。わたしはあなたのことが好きなだけよ」

「そうでしょうか。それじゃあ、なぜぼくと一緒に暮らしてくださらないんですか? ぼくたちの仲で、何か隠しごとがあるんじゃないですか」

「何を言うの! わたしは何も隠したりしないわ!」

彼女は怒ったように言った。だがその声にはどこか怯えたような響きがあった。

「いや、あるはずです。あなたはぼくを愛していると言いながら、いつも不安そうな顔をしている。まるで今にも捨てられてしまうんじゃないかと思っているみたいだ」

「…………」

「ぼくたちはずっと一緒に生きていくことはできないんでしょうか。あなたは子供を生むこともできない体だし、ぼくだっていつ死ぬかわからないし、あなただっていつか年をとって死んでしまうでしょう。ぼくたち二人がいつまでもこうして生きていけるとはとても思えないんです。」

「それは仕方がないことだわ。だけど、わたしたちが出会ってしまった以上、二人とも死ななければならないなんてことはないはずだわ」

「ぼくもそう思います。しかし、どうすればいいんでしょう? 二人でずっと生きていこうとしても、それが不可能なら、いっそ別れてしまったほうがいいかもしれないと思うこともあるんです」

「わたしはいやよ! 絶対に別れたくないわ」

彼女は激しい口調で言った。

「わかりました。ではこうしましょう。ぼくたちはこれから死ぬまでのあいだ、毎日お互いに手紙を書き合うことにします。そして一年間一度も返事がなかったときには、おたがいにあきらめることにしましょう。どうです、これならいいでしょう?」

彼女はため息をついてうなずいた。

「それで安心できるかしら」

「ええ、きっと大丈夫ですよ」

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