第126話「胡蝶の夢」

「世の中は夢か現か、あの『胡蝶の夢』のようにはっきりしないが、とにもかくにも、蝶々のように浮かれて生きようではないか」

私はこの言葉を胸に刻んで生きてまいりました。

昭和28年6月10日、私の兄である故・佐藤隆弥は享年37にて亡くなりました。私が小学校一年生の時でしたが、その年の正月元旦に、母と私たち兄弟を残して父は死にました。その葬式の時のことを、今でも鮮明に覚えております。母は喪主となって、親戚一同や近所の方たちに挨拶をしていました。私はその時、まだ九歳でしたから、何が何だかわからずにおりました。そして、ただ泣いてばかりいました。すると母の横に立っていた叔父さんが私を抱き上げて、こう言いました。

「坊ちゃん、父上はね、もう死んでしまったんだよ。だから泣くことはないんだ。父上だって、そんなことは望んじゃいないよ」

私はハッとして顔を上げました。そうです。死とはそういうものなのです。生きている時は、いつもそばにいるような気がしますが、死んだらもう二度と会えないのです。そのことを、その時初めて知ったように思います。

兄が亡くなった後、私の悲しみもおさまりませんうちに、今度は弟の義姉(つまり、私の叔母)が病気になりまして、二年ほど入院いたしました。しかし、とうとう亡くなってしまいました。この時も、私は自分のことのように悲しくてなりませんでした。どうしてこんなに悲しいことがあるのかと思いながら、夜中に泣き明かしたこともございます。

それから間もなく、今度は兄の嫁であった人が心臓を患いまして、やはり入院いたしました。私は毎日見舞いに行きました。しかし、この人は五カ月ほどして亡くなりました。その頃には、さすがに私もいくらか気持ちが落ちついて参りまして、この頃になってやっと涙を流すことが少なくなりました。

このように書くと、私がいかにも辛抱強い人間のように思われるかもしれません。確かにそうなのですが、それは単に表面だけのことで、本当はもっと我の強い子供だったと思います。それなのに、なぜ我慢強くなったかというと、母の言葉があったからです。ある朝、学校に行く前に仏壇の前に座りました時、ふっと祖母の声が聞こえたように思いました。

(お前はお兄ちゃんの子じゃなくて良かったのう……)

これは、今から十年前の出来事ですが、今でも忘れることができません。祖母は亡くなる三週間くらい前から寝つきが悪くなっていました。私は毎日病院へ通って看病をしておりましたが、ある時、母に連れられて、病院に行ったことがありました。病室に入ると、ベッドの上にいる祖母の顔色が悪いのを見て、私は思わず叫び声をあげてしまいました。それを見ていた母は私を叱りつけました。

祖母はその時、何を思ったでしょう? きっと、私が叫んだのは自分の命の灯が消えかかるのを感じたからだと思ったにちがいありません。そして、心の中でこう言ったのではないかと思うのです。

(ああ、よかった。これであんたに迷惑をかけずに済むわい)

そう思うと、私はたまらなくなりました。その日から、私は一層わがままな子供になってしまいました。

しかし、私は今まで、辛いことや苦しいことなど、一度たりとも口にしたことがないつもりです。なぜかというと、それは私自身が一番よく知っているからです。どんなにつらい思いをしても、決して人には言わないということを……。

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