第125話「秋の夜」
秋の夜、時間はのろのろと過ぎ、なかなか寝つかれない。愛する人を失って、こんなに夜が長いものだと初めて知った。窓の外で見る月は、胸をしめつけるほどさびしい光を放ち、夜の雨の中に聞こえる鈴の音は、はらわたがちぎれるほど悲しい音がする。三日目の朝も明けないうちに起き出して、そっと部屋を出た。
この日は、春になっても雪解け水が多くて、田んぼや畑には水が溢れていた。私は農家の娘で、近くの村まで水を汲みに行ったり、薪を取りに出かけたりしたものだ。ある日のこと、いつものように村に行く道の途中にある竹藪の中を通って行ったら、竹林の向こうに人影が見えた。こんな時間に誰だろうと思って目をこらすと、着物を着た女の人の後ろ姿が見えた。女中さんかしらと首をかしげたとき、何か白いものが目に入った。よく見ると、それが血の色をしている。驚いて駆け寄ると、若い男の人が倒れているではないか。
顔を見た途端、私の中で何かが弾けたような気がした。この人は私の夫だ! そう思った瞬間、私は彼を背負うようにして家路についた。そして急いで父を呼びに行き、二人して彼の手当をした。幸い命に別状はなかったが、彼は一カ月近く寝たきりだった。目が覚めたときにはもう五月に入っていたが、彼は自分がなぜここにいるのか分からなかったようだ。無理もない。彼が覚えているのは、自分の名前だけだったからだ。それでも何とか元気になった頃、私は彼に尋ねられた。君はだれ? どうしてぼくを助けたんだい? 私が答えると、彼は不思議そうな顔をしていた。君とは結婚したはずなのに、何も覚えていないと言うのだ。私は彼の手を握り締めたまま言った。あなたは記憶をなくしてしまったのよ。でも心配しないでね。きっとすぐに思い出すわ。それまでわたしがそばにいるから……。
しかし結局、彼は昔のことを何一つ思い出せなかった。そして私は彼と別れることにした。最後にもう一度だけ抱きしめてもらいたかったけれど、そんなわがままを言う気にもなれなかった。私たちは抱き合って、静かに接吻を交わした。涙が出そうになったが、ぐっと堪えて唇を離した。そしてそのまま背を向けた。そのとき彼は私の名を呼んだのだが、私は振り向かなかった。
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