第55話「桃李もの言わざれども下自ずから蹊を成す」
桃李もの言わざれども下自ずから蹊を成す。徳のある人のもとには、世の人々がその徳を慕って自然と集まりつき従う。ではこの男はどうだろう。男はたしかに、この村の長者の子息である。だが、その身分が人に尊敬されるほど高くはないことは明らかだ。
それなのに、人々は男に心服している。男がなにか言うたびに、村人たちは畏怖し、感動したような表情になるのだ。これはいったいどういうことなのか。
そしてまた、男はときおり、ふっと消えてしまいそうな不安感を覚えることがあった。それは男の心に、かすかな疑念を生じさせるのだった。自分は本当にここにいるのか。本当はどこにいて、何をしようとしているのか。そんなふうにして、自分の存在を確かめることもあった。
しかし男は、そういう思いを抱くことにも慣れてきていた。自分の存在があやうく思えることは、もうずっと以前からのことだったからだ。そしてそのことが、逆に男の心を落ちつかせることになったようであった。
だから今こうして、山道を歩いていても、男は恐怖も不安も感じなかった。むしろ懐かしさすら覚えているくらいだった。この道は知っている。何度も通ったことがある。そう思うと、男はますます気分がよくなった。まるで自分がこの土地の一部になったかのような感覚にとらわれたのである。
男はしばらく歩くうちに、しだいに口数が少なくなり、やがて黙りこんでしまった。歩きながら男は、昔を思い出して胸を熱くしていたのである。あのころの自分に、今の自分を見られたらなんと言うだろうか――そんなことを考えていた。
するとそのとき、どこからか声が聞こえてきた。若い女の声である。
男は立ちどまった。耳を澄ませてみると、今度ははっきりと聞き取ることができた。女の歌声なのだ。
ああ、春来ぬと人はいうけれど 花は咲かずともあたたかいよ 雲雀ひばりの鳴く空には 青い月さえ浮かぶんだね どこからともなく流れてくる美しい旋律の歌に、男は思わず聴き入った。歌そのものよりも、それを歌っている人物に興味を覚えたのである。
女は、どんな顔かたちをしているのだろう?年齢はいくつぐらいなのか。どんな声で歌うのだろう……。
男はいつしか、その女の姿を見たいと思うようになっていた。そこでゆっくりと周囲を見まわしてみたのだが、まわりの風景に変化はなかった。木々のあいだから見える風景は、どこまで行っても同じようなものなのである。ただ遠くの方で、鳥たちの鳴き声だけが聞こえるだけだ。
男は少しためらいながらも、ふたたび歩き出した。一歩ずつ確かめるように進んでいく。しかしどれだけ進んでも、やはり景色は同じだった。同じところをぐるぐる回っているだけのような気がしてくる。
そのうちに、男は自分が迷っていることに気がついた。先ほどの歌声が近づいてくる気配がないからである。それに、いくらなんでも近づきすぎではないかという疑問が湧き上がってきた。歌声はどんどん大きくなっているのだ。
だがそれでも、男は進むしかなかった。もしここで引きかえしたら、二度と元の場所に戻れないような予感があった。なぜかはわからない。だがとにかく、いま引き返したら取り返しのつかないことになるような気がするのだ。
そんなことを思っているうちに、ついに歌声の主の姿をとらえることができた。木立の向こうに立っている人影が見えるのだ。男は足早になって駆け寄った。
しかしそこにいたのは、想像とはまるで違う人物であった。年の頃なら十五、六歳の少女である。少女は男の姿を見て驚いたらしく、びくりとして振り向いた。そして次の瞬間、泣き出しそうな顔をした。
「……ああっ!」
男はうめくように言った。
「あなたは……」
男はそれ以上言葉を続けることができなかった。なぜなら、目の前にいるのがあの〈娘〉だとわかったからだ。十年前に死んだはずの娘が、目の前に現れたのだ。
それは不思議な光景だった。少女の顔や身体は透けていて、向こう側がぼんやりと見えているのである。そしてその姿は徐々に薄くなりつつあった。そしてまるで霧のように消えてしまった。
男は黙って来た道を引き返し村へ帰っていった。
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