第65話 新帝

 すべての処理が終わったのを確認した現帝は予定通り譲位を口にした。


 東宮はじめ周囲の大臣たちが止めに入ったが、あくまで繋ぎだと言って譲らなかったらしい。東宮を新帝にするための準備が行われている宮中を眺めながら綾は複雑な心境だった。


「本当にここを出るのですか?」


 弘徽殿女御は後宮を出て、太政大臣が庇護している寺院で暮らすことが決まった。

 皇太后として残ると思っていたのだが、帝の譲位の話が出るころには既に決まっていたと聞き駆け付けるが、部屋の調度類は必要最小限までに処分されていた。


「ここでの務めは十分果たしたと思っているのよ。世継ぎも産んだわ。その子は東宮として申し分ない働きをして帝位につくことが決まった。やっと心の枷が取れたと思うの。残りの人生は穏やかに過ごしたいわ」


弘徽殿女御の表情からは以前見られた威厳というものはなく、柔らかな笑顔が印象に残った。


 何も言わないが、先皇太后の元で辛いことや悲しいこともたくさんあったのだろう。それをすべて隠し通して命の危険を心配しながら東宮を守り通したのだ。生半可な気持ちではいられなかったはずだ。


 本当は後宮に残って、この先も見守っていてほしいと思ったがこれ以上無理をさせてはいけないような気がして説得することも出来なかった。


 後宮を出る日、東宮と一緒に門の傍まで見送る。隣に立つ東宮を見ると目元に光るものが見えたが気がつかないふりをした。


 東宮が新帝として立つ二日前、現帝の元帥宮が宮中を出る。東宮や大臣たちと一緒に見送る。


「私に出来ることは限られるが、出来ることがあれば力になる。困ったことがあったら連絡しなさい」


 大臣たちに聞こえないようにそっと耳打ちしてくれた。

 東宮の名に傷がつかないようにと気遣ってすべての処分を現帝の名で処理をした。

 もしも、先々帝の考え通り帝となっていたらどれだけの人たちの命が救われただろうか。そんなことを考えてしまう。


 帝となる器がなければこんなにも違うのかと何度も思いを巡らす。


 東宮は?

 自分は?

 大丈夫だろうか。不安を抱えながら過ごす。


 が、

 東宮が新帝になる儀式や宴、大臣たちの挨拶に対応していたらあっという間に一か月が過ぎていた。

 後宮も綾以外誰もいないことで綾も承香殿に部屋が移ったことで承香殿女御と呼ばれるようになった。帝の唯一の女御で承香殿女御となったことで大臣たちがひっきりなしに挨拶にやってくる。のんびり昼寝どころではない。


 今日も朝から六人の大臣たちがやってきて女房を増やすのはどうかと言ってきた。

 朝議があったと思うのだがサボったのか?


 壁にもたれ掛かり、庭先を眺める。

 麗景殿より清涼殿よりになったため、大臣たちがすぐにやってくる。本当に面倒だ。


 なにより今自分の腿を枕にしている御仁は帝だ。

 最近、急ぎの仕事がなければ午後はこうして人の足を枕にして寛いでいく。連日訪れる大臣とこの帝のおかげで昼寝すら出来ない。


 それなのに人の足を使って寛ぐ姿を見ると解せない。

 私が昼寝をしたいのに……。


「姫様。内大臣様がお目通りを願い出ていますがどうされますか」

「通して」


 香奈の後任の美夜が告げてきた。

 諦めの悪い内大臣は連日やってくる。その理由は一つ。


「弘徽殿女御様にはご機嫌麗しく。本日はご相談があり、是非とも私の考えにご賛同いただきたく」

「今度は何ですか?」


 毎日のように相談があると言っては自分の娘を後宮に入れようと必死だ。

 それというのも人の足を枕にしているこの帝が自分の後宮はいらないと言っているからだ。大臣たちはそれならと私に後宮の必要性を説きにやってくる。


 はっきり言ってどうでもいいのだ。

 後宮に入れたかったら入ってくればいいと簡単に答えるとすぐさま帝がやってきて説教を食らった。そして、尚侍になった香奈や中納言になった元頭中将、近衛大将となった兄の良智までが飛んできて叱られた。


 それ以来、必死に断っているのだが未だに諦めない数人の大臣たちがいて、こうしてやってくる。


「弘徽殿女御様はお部屋も変わり、女房が足りないかと推察します。よろしければ私が新しい女房をお連れしようかと思いまして、いかがでしょうか。腹心の香奈殿も尚侍になられたとお聞きしまして、心細く思われているのではないかと。女御様のお心を和ませる女房をご紹介できます」

「女房は足りています。どうぞご心配なく」


 香奈が尚侍になったのには事情があり、中納言になった香奈の婚約者、橘忠良の身分にあわせるため帝が用意してくれたものだ。いずれ、時期を見て香奈は後宮をでて中納言の北の方になる予定だ。

 決して帝のお手付きとは違うのだが、それを公表していないため、周囲からは私の女房の一人が帝のお手付きとなって、尚侍になったと思われている。


 内大臣の思惑は自分の娘を私の女房として後宮に送り込み、帝のお手付きを狙っていることは容易に分かる。ここで安易に承諾してしまえば、数日前の二の舞になる。ましてや、今ここに帝がいるのだ。言葉に気を付けないと同じ事が繰り返されるのは目に見えている。


 几帳の奥にいるので自分も帝も内大臣からは見えないのだが、下手なことは言えない。何としても早々にお引き取り願いたい。

 必死に美夜に目配せをするが、香奈とは違いそこのところは察してもらえない。首をかしげるばかりで、ちっとも埒があかない。


「弘徽殿女御様。今日は引き下がりませんぞ。右大臣様の姫君は女御様の女房として後宮に入ることが決まったというではありませんか。どうして私の願いをお聞きくださらないのですか」


 右大臣の姫君の話は、右大臣から行儀見習いをさせてほしいと頼まれたのだ。いずれ右大臣家を継いでもらうため、綾たちが母様から受けた教育を施してほしいと。その為、弘徽殿の女房として引き受けることにしたのだ。


 それは帝にも許可をもらっている話で、いずれ女御として迎えるためでもないことは右大臣とも話が出来ている。何処からその話を聞いたのか、それにしても何か誤解しているようだ。


「うるさいな。いい加減、諦めたらどうだ。内大臣」


 気怠そうに起き上がり、几帳の横から顔を出す。

 帝の顔を見て内大臣が後ろにぶっ倒れたのは言うまでもない。


「い、いや。その、女御様のお傍近くが華やかになるのが好ましいと思いまして、ですね」

「女御や、必要か?」


 明らかに不機嫌そのものの表情を隠すことなく聞いてくる。

 私も巻き込まれてたまるかと答える。


「不要です!」


「しかし、右大臣様の姫君は後宮に入られると聞きました。我が家の姫も後宮に入れていただきたいと」

「いい加減にしないか。右大臣様の姫君は事情があって後宮にくるのであって、女御になるわけではない」

「帝、私は信じませんぞ。そう言っていずれ女御にされるおつもりでしょう」


 尚も食い下がる内大臣に嫌気がさしたのか帝は立ち上がり部屋を出ていこうとして立ち止まる。


「帝。お迎えに来ました。新しいお衣裳が届きましたのでご確認いただきたく」


 部屋に入って恭しく話すのは尚侍になった香奈だった。流石の香奈は状況を一瞬で見抜き、美夜を睨みつけていた。


「分かった。今、行く」


 部屋を出るとき、帝は振り返り内大臣を見た。


「二度も言わせるな。私に後宮は必要ない。私の妃は綾姫だた一人だ」

「ですが、帝。それでは世継ぎは」


 諦めきれない内大臣は追いすがろうとする。


「香奈。この内大臣は右大臣の姫君を後宮に入れることに不満があるようで自分の娘も後宮に入れろと言ってきている。そなたならどうする?」


 帝も美夜の立ち振る舞いに少し不安があるようで香奈に助言を求めている。女房としてどうあるべきか教えるために。


「右大臣様の姫君は事情がおありですが、内大臣様の姫君も同様の扱いでよければ後宮に入ってもらってもいいのでは?」

「同様の扱いか……。それもいいな」


 帝と香奈は何かよからぬことを企んでいるようだ。巻き込まれたくないと思うのだが、どうやら面倒な女房は二人になりそうだ。


 帝と香奈が部屋を出ていくと、その後ろを小判サメのようにくっついていく内大臣の後姿があった。


「香奈様はやはりすごいですね。あんなにもあっさりと内大臣様の問題を片付けてしまうなんて」


 手を胸の前で重ねて感心している新米女房、美夜。ここにも少し問題がある。

 美夜がもっと早く内大臣を追い返してくれていたらこんなことにならなかったのに。新米女房にはまだそこまで期待できないのかと肩を落とす。


 外を見ると陽が傾き始めていた。

 今日も昼寝は出来なかった。私の時間を返してほしい。


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