第9話 投げ文

「女御様」


 清佳が慌てて承香殿女御を押しとどめた。


「承香殿女御様、あの話の真意は証明されていません。お気を確かに」


 中務卿も承香殿女御を宥める。


「ですが、柾良はこのままでは死んでしまうのではないのですか?」


 綾の手を握り、涙ながらに訴える承香殿女御に綾も効果のほどが分からないものを伝えることは出来ないと思っていた。思っていたが少しでも心の負担を軽くしたくて言ってしまった。


「承香殿女御様、あの文の話でしたら確かな根拠はありません。偶然、あの者たちの行動がその先の未来につながったと言うくらいです。それに、私から文を書いても何も起こらないのは立証済みです」

「それでもいいのです。何か、柾良の為に私が出来ることをしたいのです」


 承香殿女御の気持ちは痛いほどわかる。柾良親王はこのまま回復の見込みがなければ数年以内には亡くなるだろうと噂が出ている。実際、侍医からも永くはないと言われているようだ。


「本人からの文に私が返事を出さなければ何も起こらないのです」


 今の柾良親王はとても筆を持てるだけの体力があるように思えない。しかし、中途半端なことを伝えてはいけないと綾ははっきりと言った。


「承香殿女御様、まずは柾良親王の病の原因を突き止めましょう。文は柾良親王の体力が回復したときに東宮妃様のお力添えをいただきませんか」


 中務卿が諭すように承香殿女御の言うと納得したように頷き、清佳に支えられながら元居た場所へと戻り座る。


「では引き続き、私は柾良親王様の傍近くにお仕えして探ります」

「私は今夜にでも大納言家の北の方にこの文をお渡ししてきましょう」



〇〇〇

 翌日から綾は柾良親王の傍で食事の介助を申し出た。

 今まで食事の手配をしていた者たちに疲れが見え始めていたため綾と冬香が交代で見ることになった。

 既に調べ上げているだろうが、綾はどんな食事で柾良親王が食べた時の反応をしっかりと観察した。


 数日観察しても食べ物ではないことは分かったが、柾良親王は回復するどころかますます弱っていく。

 早く何とかしないといけないという焦りが出てくる。ほとんど食べることのない食事を片付けて、薬を飲ませるとすぐに眠ってしまった。顔色もよくない、腕の筋肉もないと言ってもいいくらいにやせ細っている。

 早く原因を見つけなければと綾は部屋の中を見渡す。


〇〇〇

 その夜、気が急いていたためか中務卿との待ち合わせ場所に早くついてしまった。

 相変わらず後宮内には多くの篝火が見える。

 夜も遅いので各殿舎からは僅かな光が漏れているだけで殆どは灯りを落として眠っているのだろう。暗がりが広がっている。

 綾は飛香舎またの名を藤壺の殿舎のほうを見る。警備の者たちが数人いるのが見えた。


(あそこは物の怪が出たんだよね。どんな物の怪だろうか)


 人の気配を感じて振り返る。

 中務卿がこちらに向かってくるのが見えた。


「高子殿」


 身分を隠しているので、承香殿で使っている名で呼ばれる。


「中務卿宮」


 二人で人目に付きにくい場所へ移動する。


「母からはなんと?」

「何か思うところがあるようですが、返事をいただけませんでした。明後日もう一度訪ねるように言われまして」

「明後日……。香でも作っているのかしら?」

「高子殿からの手紙を読まれた後、いくつか質問をされました」

「どんなことですか?」

「柾良親王の部屋の様子などです」


(やはり、母様もそこが気になっているのか)


「食事内容を確認していましたが、毒物が混入している様子はありませんでした。とりあえず、母の連絡を待ちましょう」

「柾良親王のご様子はどうですか?」

「食事があまり摂れていないのもありますが、夜、眠れないご様子で体力は消耗していくばかりです」

「侍医からはこのままでは数か月の命だと言われました。急ぎ、原因を突き止めなければいけません」

「先に、原因を突き止めるだけでもいいでしょうか。犯人を捕まえる証拠を集めている時間がないと思われます」


 綾は柾良親王の様子にあまり時間をかけられないと感じていた。


「出来れば犯人を捕まえたいのですが、柾良親王の体調面を考えると原因を突き止め治療をする方が先ですね」

「分かりました。私は引き続き柾良親王の周辺を探ります。中務卿は母からの連絡があったらすぐに向かっていただけますか」

「分かりました。高子殿もお気をつけて。身分がバレたら命を狙われることもあります」

「気を付けます」


 綾は中務卿と別れて承香殿に与えられた自分の局に戻ろうとしたとき、遠くから悲鳴のような声が聞こえた。


「高子殿、急いで部屋にお戻りください」


 中務卿が綾に告げ、横を通り過ぎ藤壺のほうへと走っていく。綾は急いで部屋に戻り、戸の隙間から庭の様子を窺った。

 検非違使たちが走っていくのが見えた。急に慌ただしくなって集まっていく人数だけでも尋常ではない様子なのが分かる。


 翌日、綾は思いもしない話を聞かされた。


「女御様の誰かが密通をしているという文が一昨日、見つかったそうよ。それもこの承香殿に近い場所だったため、密通は承香殿女御様ではないかとまで言う者も出てきて」


 いつものように柾良親王の傍についているときに冬香が内緒で教えてくれた。

 冬香は承香殿女御様に限ってそんなことあるはずないと憤慨している。


「でも、三日前には身をやつした公達が女房に手引きされて承香殿女御様のお部屋に入っていくのを見たと言う人もいるのよ。ねえ、どう思う?」


 えっ?


(三日前とは中務卿と綾が承香殿女御の部屋で柾良親王のことを話し合っていた日ではないか?)


 綾は嫌な汗が出てきた。

 どうしてこうなった?


「見間違いではないかしら?承香殿女御様が密通なんてするはずないですよ」


 綾はしっかりと否定しておく。冬香は半信半疑だったようなので、綾の言葉を聞いて納得してくれた。


(密通。誰が何のためにしているのだろうか)


 綾は騒動が起こって一番得をする人物を考えてみた。


(東宮? 違う。既にその地位にある者だ。ましてや柾良親王は体調を崩していて対抗勢力にすらなりえない。それに東宮自身も呪詛札で呪いの言葉が書かれていたはずだ。それなら、どうしてこんなことが起こるのだろうか)


 綾は昨夜の悲鳴が何だったのか気になってきた。


「昨夜は騒がしかったわよね。何があったのかしら」


 不安そうな表情を浮かべながら綾は冬香に聞く。

 冬香は身を乗りだした。


「出たのよ。また」

「でた?」

「藤壺に物の怪よ」


 中務卿と会っていた場所から藤壺はそう遠くない、悲鳴が聞こえてすぐに中務卿が走っていったが、不審者が捕まったという話は聞こえてこない。


(本当に物の怪だろうか)


 嫌な予感しかしない。

 誰が何の目的でやっているのか。


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