第6話 内偵
部屋に案内されて入ってきた中務卿の優雅な立ち姿や口上の挨拶はやはり素晴らしいと感心する。その一方で昨夜のヨリは中務卿だと分かった。
綾は扇で顔を隠しながらも視線だけは中務卿を見据えている。一体何をするためにここに来たのか。
「昨夜は夜盗騒ぎがあり、東宮妃様もお心細かったのではないかと今上帝もご心配されていました」
綾は何かに引っかかりながらも返事をする。嫌な汗が出てきた。
「警護の方たちがしっかりと守ってくださっていましたのであまり心配はしておりません」
「そうですか」
中務卿は綾を見る。几帳越しとは言えこちらを見ているのがはっきりとわかる。昨夜のことを言いに来たのかと身構えていると急に笑みを浮かべた。
「帝はあまりにも心配されすぎて背中が痛いと仰っていました」
綾は目を閉じた。扇を持つ手は震える。背中には汗がつたっている。
今上帝の名は『時康』だったはずだ。
綾は昨夜の行動を思い出していた。捕まった綾は逃げ出そうとして時康、もとい帝の背中を拳で叩いていた。というより殴っていた。
不敬よね……。
(父様、やはり綾には東宮妃は無理のようでした)
大納言家は御取り潰しになるのだろうかと考えていると中務卿がクスクスと笑い出した。
「帝の体は侍医がしっかりと管理しているのでご心配なさらなくても大丈夫ですよ」
(それは、お咎めなしと、受け取っていいのだろうか)
「本日はお願いがあって参りました」
「どのようなことでしょう」
扇を持ち直して綾は息を大きく吸った。
(何を言われるのだろうか)
「実はこの後宮内で呪詛が行われていると分かりまして…」
「呪詛?」
「それも誰を狙ったのか分かりかねまして、というのも一年ほど前から承香殿の柾良親王が病に伏すようになり、祈祷師や薬師を使っても一向に良くなる気配もありません。また、飛香舎では何人かの侍女が物の怪をみたと言っており、女御様は臥せってしまわれています」
病の話は弘徽殿で聞いていたが、飛香舎の物の怪とはただ事ではない。
「それで私に頼みとはどのようなことでしょう」
「東宮妃様に弘徽殿へ侍女として入っていただき、調べてもらいたいのです」
「姫様に侍女として弘徽殿女御様に仕えろと言うのですか?」
それまで中務卿に見とれていた香奈は顔を引きつらせながら言う。
「香奈、落ち着いて」
どうして自分なのか気になる。
「信頼できる者であれば私でなくてもいいのではないでしょうか」
「東宮妃様はとても口が堅く、信頼できると今上帝がおっしゃっていました」
綾は思わず扇を落としそうになる。
今上帝という言葉に過剰反応してしまう。
心臓に悪い。早く帰ってくれないかと思うが話はまだ終わらない。
「信頼できるというだけでこのようなお話をされても困ります」
「以前、東宮妃様は文を貰った公達にお返事を書かれたとか、その公達が次々と出世をしたという話を聞き及んでいます。東宮妃様は幸運の女神と噂があるのをご存知でしょうか」
綾は遠くを見た。
既に記憶の彼方に押しやっていた話をここで蒸し返されるとは思ってもみなかった。
昔、文を送ってきた公達がいて、珍しくその文が気に入り返事を書いたところ、その公達は喜び勇んで綾の元へ来る途中盗賊を捕まえた。
その盗賊は当時、貴族の間でもかなりの被害が出ていて、芋づる式に盗賊一味を捕まえることに成功したその公達は、破格の扱いで大出世したのだ。
もう一人は、同じく綾の元へ向かう途中、牛車が壊れて困っていたのを助けたら、それが右大臣家の四の姫で、見染められて結婚してしまった。
その二人は綾の手紙のおかげだと周囲に言いふらしていたため、変な噂が出来てしまっていた。
「私が何かしたわけではありません。幸運をつかんだのはその方たちの力です」
こういうことはしっかりと訂正しておかなければ後々大変なことになるのは綾自身が身をもって知っている。当時、その噂を聞きつけた公達からの文が大量に送られて大変な目にあったのを思い出す。
「東宮妃様の逸話はまだありましたね。弓の名手との戦い」
中務卿の方が小さく震えている。声を殺して笑っているのが分かった。
「あれも、偶然ですよ。私はそうしたくてなったわけではありません」
だんだん気分が悪くなる。どうしてこんな噂を知っているのか。
「あの藤原成彰はちょっとした問題児でして、帝も手をこまねいていたのですよ」
「どうして、帝が困るのですか。ただの公達ではないですか」
訳が分からないと綾は聞く。
「あの者は家柄のいいご子息で、無碍には出来なかったのです。しかし、それを逆手にとってある余興の場で弓の試合を申し出ていました。そして優勝したら内親王をいただきたいと帝に言ってきたのです」
(なんてヤツだ)
家に来た時も兄を揶揄っていてその態度があまりにも酷かったのを思い出す。
兄の代わりに綾があの男と弓の勝負をして綾は打ち負かしてしまった。そのことに綾はなんの躊躇いもなかった。
兄を馬鹿にされたのが悔しくて敵を討ったくらいにしか思っていなかったのだが、当の本人は自分より遥かに幼い、それも女に負けたことで自尊心を傷つけられたようだ。数日後、出家してしまったのだ。
そういえばあの時、父様はため息をついただけで綾を叱ることもなかった。どうしてなのか謎だったが、そういう理由があれば納得できる。
「弘徽殿女御は先ほどお会いしてお元気なのを確認しておりますが、東宮様はご無事でしょうか」
綾は気になっていたことを聞いた。
「東宮様は今上帝から密命を受けていましてね。それが解決しないことには貴方に会いに来られないのです」
今度はクスクスと笑っている。
何の密命なのだろうか。とっても気にはなるが、今上帝からとなると自分が聞くわけにもいかないので諦める。
「私で勤まるか分かりませんが」
「大丈夫ですよ、貴方なら。そうそう、帝の背中は少し痣になっていたようです」
綾は思わず扇を落としそうになる。
これは脅しか?
今度は綾の顔が引きつってくる。
「それで、私は何をすればいいのですか」
中務卿は居住まいを正し、綾を見る。
「承香殿で怪しい者を探ってほしいのです。出来れば柾良親王の近くにいる人物を」
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