第2話 入内
母屋で両親が慌てふたむき、兄は何とか心を保ち今夜の宴に希望を見出していた頃、当の綾姫は簀子縁に出てのんびり庭の池を眺めていた。
「姫様、いくら屋敷内とはいえそんな端近に出ては……」
侍女の香奈が毎度のごとく小言を言う。
手すりに腕と顎を乗せて池を眺めながら煎餅をかじる。
バリッ。
零れ落ちた欠片が池に落ち、それを池の鯉が先を争って食べる。
(父様、鯉の餌をケチっていないかしら)
まだ欲しそうに口を大きく開けた鯉たちが頭上の綾たちを見つめる。視線を感じて綾は煎餅を小さく砕いて池に投げ入れと鯉たちはバシャバシャと音を立てながら、煎餅を食べている。
「暇よね」
特にすることもなく暇を持て余している。
「姫様、また例の文が来ておりますよ。お返事をお書きになられませんか」
「えーっ。面倒くさい」
なんとか部屋の中に連れ込もうと考えを巡らせている香奈をしり目に綾は相変わらずぼんやりと池を眺めていた。
今年十七になる綾は公達からの文に一向に興味を持てない。
通常、年頃になると公達からの文がきて、その返事をして何度かやり取りをして結婚という運びになるのだが、公達からの文に返事をしないのでその先の進展がない。
こういうことは侍女の力量によると常日頃から母である北の方から香奈が言われているのは知っている。しかし、興味のないことには一向に気乗りしない綾は申し訳なくも思いながら、取り繕った言葉すら浮かばないのでそれも仕方がないと割り切っている。
香奈がうまく綾をやる気にさせることが出来なくても、娘の性格を把握しきっている両親は香奈を咎めることなく今に至っている。それだけはありがたいと綾は思っていた。
「姫様、こちらのお方は先日から文をくださっている方ですね。この内容から梅薫君では?」
侍女の香奈は何とか返事を書かせようと必死である。
仕方がないので、香奈から手紙を受け取って読む。
見事な筆跡に季節の挨拶がしたためられている。強引な求愛でもなく日常のほんの些細なことが書かれていて、温かな気持ちになるこの文は半年ほど前から来るようになった。文の主は名前を書いていない。その代わりに文の最後にはいつも梅の花が描かれている。その為、香奈は梅薫君からだと思っているようだ。
「梅薫君ってもうかなりの御年でしょう」
母君が先々代の帝の女御で梅壺に住んでいたことからそう呼ばれるようになった、今上帝の異母弟の公達を思い浮かべる。たしか四十代くらいだったはず。
「それは昔の話です。今は、そのご子息の柾則様が現梅薫君と呼ばれています」
「そうだったかしら」
綾はあまり興味がわかない。ただ、この文は特に誘うような内容でないだけ好ましく思っている。おまけに紙もかなり上等で透かし絵が入っていて陽に照らすと花が浮かび上がる。文を見ていたら何となく楽しい気持ちになってきた。
「返事書いてみようかな」
何となく言った言葉に香奈は喜び勇んで紙と硯を用意しだす。
その姿に急にやる気が失せた。
「やっぱり、止めた。面倒くさい」
「えっ??」
呆然とする香奈に無理やり手紙を返して、再び池を眺める。
「姫様!」
陽は天中にあり、温かな光が注ぐ。
のどかな陽だまりを堪能する綾はこの大納言家の総領姫なのは重々承知している。
自分が結婚相手を決めなくてもそのうち、両親のどちらかが家柄に釣り合いの取れた公達を連れてくると思っていた。
わざわざ自分が面倒な文のやり取りをしなくてもいいじゃないか。
池を眺めていたら睡魔が襲ってきた、うつらうつらとまどろむこの時間が一番好きだ。
瞼がゆっくりと降りてくる。
(ずっとこんな時間が続くといいな)
綾は手すりに顔を横たえて眠りについた。
「ひめさま、姫様……」
香奈の呼ぶ声で目が覚める。いつの間にか縁側で大の字になって寝ていたらしい。のそのそと起きだすと、香奈がそっと懐紙を差し出してきた。
どうやら涎も出ていたらしい。
「気持ちよく眠っていたのに何よ」
文句を言いながら体を起こす綾の目の前には父の道良が立っていた。
「綾や、そんなところで寝るな」
溜息をつきながら道良は香奈に目配せをする。
香奈はすっと綾の側に来て告げる。
「姫様、どうぞお部屋に」
綾は仕方なく父の後ろをついて自分の部屋に戻る。
歩きながら綾は父の頭上にある冠が気になった。
(前後ろ反対じゃないかな)
ふと後ろにいる侍女を見るとその侍女も冠のことに気づいているようでオロオロしている。
部屋に入ると上座に父、道良が。下座に綾の席が設けられそこに座る。
「父上、冠が反対では」
「あ? あぁ」
先程後ろにいた侍女が慌てて側により冠を直していた。
綾はつい本当のことを言ってしまう。
こういう時ははっきりと言わないのが好ましいのだが、そんな面倒なことを綾は好まないのでつい言ってしまう。それが駄目だと母上や香奈から毎回口うるさく言われているのだが直す気持ちすらおこらない。
冠を直し、居住まいを正した父はしっかりと綾を見て言った。
「綾、よく聞きなさない。今日、お前に東宮妃宣下がされた」
「はあ?」
「えっ!」
綾は思わず声が出たが、香奈も同じだった。
綾は父が何を言っているのかと怪訝な表情で見るが、側に控えていた香奈は驚きのあまり両手を前について体を乗り出していた。
「驚くのも無理はない。関白左大臣様から何度か打診されていて断っていたのだが、今日帝から直々のお言葉を賜った。これは決定事項だ」
「いや、父上? 私に東宮妃になれとおっしゃるのですか?」
「帝の命に背けというのか?」
綾の質問に父は質問で返してきた。帝を持ち出されてはどうにもできない。
「私が東宮妃なんて無理に決まっているでしょう」
どう考えたって自分は東宮妃の器ではないと自負できる。両親も分かっているはずだ。それなにのどうしてこうなった?
ぐるぐるといろんな考えと感情が渦巻いている間に話はどんどん進んでいく。
「入内は一か月後に決まった」
「早くないですか?」
「関白左大臣様がそう仕向けたのだろうな。こうも手際よく話が進むのもおかしなことだ」
「それでしたら父上が東宮様の後見人になるのですか?」
「そういうことになるだろうな」
父は何処か他人事のような口ぶりで空を見る。これでも一応摂関家の流れを汲む貴族だ。大丈夫なのかと娘の綾が心配になってくる。
それでいくと自分がしっかりしないと東宮もこの大納言家も終わりだ。
綾は小さく首を振る。
本当はやりたくない。
絶対にやりたくない。
逃げ出したい!!
はぁ。ため息をついた。
やりたくないと言って断れる話ではないのだ。綾は諦めた。
「分かりました。お受けします。但し、私も自分なりに頑張るつもりですが、力及ばすとなった時のことは覚悟しておいてください」
魑魅魍魎の後宮に入るのだ。何が起こるか分からない。もしかしたら一族に害が及ぶやも知れないことは覚悟しておいてもらわないといけない。
「いいのか?」
「いいも何も断れないでしょう!」
半分やけくそのように言い返した。
「綾、ありがとう」
父は嬉しそうに今度は腕を前で組んで空を見つめ、うんうんと頷いている。
綾も父の視線の先を見るが、板張りの天井しかみえない。
父の目には何が映っているのか。栄華を極めた自分の未来でも想像しているのかと綾は冷めた目で父を見ていると、突然思い出したかのように言う。
「良智から宮中のしきたりなどを教えてもらうように」
「えーーーー!」
綾は精いっぱいの抵抗をする。
「入内まで一カ月しかないのだ。しっかりと覚えるように。香奈、お前もだ」
綾ばかりか、香奈も言われていた。
綾が入内するのならその侍女も一緒に宮中に上がるのは常だ。香奈はまだ心の整理が出来かねているようで先ほどから床に両手をついたまま固まっている。
綾は心配になってくる。本当に大丈夫だろうか。
しばらくすると、香奈の目がキッと強さを増したのを感じ取る。
さようなら、のどかな日々よ。
綾は大きなため息をついた。
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