第3話 後宮

 翌日から母様と母様の侍女、小百合に追い立てられ衣裳合わせをさせられ、父と兄からは宮中のしきたり、後宮内の女御たちのことや宮中での立ち振る舞いなどを叩き込まれ、送り出された先は東宮妃と言う物凄く面倒な立場だった。


「ふふっ。かわいらしいこと」


 東宮の母である弘徽殿女御は東宮妃となった綾をみては微笑む。

 十二単を着て弘徽殿に来ている綾は女御の対面に座っていた。

 何処か気まずさを感じながら扇で口元を隠し、綾もどう答えていいのか分からず微笑みで誤魔化す。


「さすが由比の子ね。しっかりしているわ。素敵な姫に来ていただいて東宮も喜んでいますよ」

「ありがとうございます」


 綾は当たり障りのない返事をする。


(東宮様には一度も会っていないのだけど、弘徽殿女御様はご存知ないのだろうか)


「なにか困ったことがあったら遠慮なく言っていいのよ」


(困ることは東宮の御渡りがないことです。とは言えないよね)


 綾はまたしても微笑みで誤魔化す。


 東宮妃になって早一か月、その間、東宮の御渡りやお召しもなく顔すら見たことがない状態が続いている。

 それとは反対に三日と空けずに弘徽殿女御からお召しがあり、こうして話し相手になっていた。


 今日も何とか弘徽殿を辞して自分の部屋として賜っている麗景殿に戻る。

 部屋に入ると同時に手にしていた扇を放り投げると側にいた侍女が慌てて扇を受け取っている。

 綾は部屋の奥へと進みながら侍女に手伝ってもらいながら十二単を上から順に脱いでいく。その後ろで他の侍女たちが脱ぎ捨てられた衣を拾う。

 綾が一番奥に設えられた几帳に閉ざされた間に入ると侍女の香奈が小袿をそっと綾の肩にかける。綾は袖を通すと畳の上に座り、のそのそと脇息を移動させて延ばした足の下に置く。

 ほぼ毎日のルーチンになってしまったこの行動に侍女たちも慣れたものだ。


「つかれたー」


 ふう、と息を吐いて綾は壁に背をあずける。

 だらけた姿を晒しても、侍女の香奈は何も言わなくなった。

 大納言の家にいたころはいつも叱られていたのだが、後宮に来て東宮の御渡りがないと分かると、女御たちの前だけしっかりとしていれば自分の部屋での過ごし方に文句は言われなくなった。

 几帳越しに御簾の先の外が見えた。外の景色はいつもと変わらず、今日もこのまま一日が終わるのかと焦燥感が湧いてくる。


「今日のお衣裳の色の取り合わせが素敵だと弘徽殿女御様からおほめいただいたわ。それと季節のご挨拶も素晴らしいと。みんなのおかげよ。ありがとう」


 綾は部屋で待機していた侍女たちに弘徽殿でのことはなし、礼を言う。

 侍女たちは褒められたことに浮足立って、次の準備に取り掛かりますと一斉に退出していった。

 父と母は選りすぐりの専属の衣裳係と挨拶文を考える者たちを侍女として送り込んだ。さらに宮中での権謀術数に長けた者もつけてくれた。

 綾はその者たちから伝授してもらい傀儡のように立ち振る舞うだけだ。本来ならそのようなことも嫌う綾だが、面倒なことを考えなくていいだけましだと気持ちを切り替えている。


「姫様、今日もお疲れ様でした」


 香奈がお茶を出してきたので、それを一口飲む。冷たくて喉の渇きを潤してくれる。


 弘徽殿女御に呼ばれるのはどうも居心地が悪い。

 東宮の寵を頂いているのなら問題はないが、その寵がないのだ。周囲からは薄々気づかれており、やはり政略的な婚姻で東宮自身は望んでいなかったのだと噂されている。

 それなら、それでいいとさえ思っている綾だが、弘徽殿女御はそう思っていないのだろ。

 東宮は素晴らしいとか必死に訴えてくる。それが苦痛でならない。


 母として東宮の後見に自分の身内を据えたいという思いが痛いほど分かるが、当の東宮はそうは思っていないのではないのか。もしかして別に想う方がいるのならそれでもいいとさえ綾は考えている。所詮、勢力争いの道具でしかないのだ。

 初めからそう言ってもらえれば気が楽だ。

 御簾から垣間見える庭先では警護の要員が最近増えているように思えた。


(もしかして、私が逃げ出すと思われているのかな)


 逃げ出したら父や母、兄に迷惑をかける、そんなこと少し考えれば分かることだ。それに東宮の御渡りがないくらいで嘆き悲しむような感性は持ち合わせていない綾はどうでもいいやと瞼を閉じた。



「姫様、夕餉のお時間ですよ」


 香奈に声をかけられて目を覚ます。綾は辺りを見ると陽は大分傾いていた。


「もうそんな時間?」


 大きく伸びをしながら体を起こす。

 目の前に並べられた食事を摂りながら今夜も眠れそうにないなとため息をつく。


「香奈、庭に出ては駄目かしら」


 綾は毎日、じっと部屋に籠っているのに飽きてきていた。

 香奈は少し考えてから、あまり遠くない場所であればと言ってくれる。

 家にいたころはこの時期、別荘のある吉野に出かけて散策なども楽しんでいた。それがこの後宮に来てからはこの部屋か弘徽殿を訪ねるだけの毎日で飽きていた。それに体も少し動かしたかった。


 食事を終えて、陽もとっぷり暮れたのを見計らって綾と香奈は比較的動きやすい服装に着替えて庭に出る。

 月明かりの中、麗景殿を出て歩いていると風が髪を靡かせる。風を感じながら歩いていると何処からか甘い香りがした。

 長い髪を後ろで束ねて、いつもの引きずるように着ている衣も短めにたくし上げ、沓を履いて歩いていると解放感に浸れた。そして甘い香りの正体が分かった。

 梨の実が生っている林が傍にあった。


「姫様、気持ちのいい風が吹いていますね」

「そうね」


 久しぶりの解放感と梨の香りで気持ちが明るくなる。

 香奈と木々の合間を縫うようにゆっくり歩いて行く。近くにこんな場所があるのならもっと早くに来ていればよかったと綾は思う。


「姫様、東宮様はきっとお忙しいのでしょう」


 どうやら香奈にも心配をかけているようだ。


「いいのよ。東宮様には父様の後ろ盾が必要だったのよ。女御様の様子から分かったでしょう。ただ、それだけよ」

「姫様……」


 綾は目の前に広がる大きな池を眺めながら水に映る月を見ていた。自分はこのまま一生、後宮で過していくのかと考えると虚しく感じる。

 後宮に入って分かったことは東宮には弟宮が二人いる。その一人は右大臣の姉、承香殿女御が生んだ御年十になる皇子、もう一人は前の帝の孫にあたる宮様が一年前に生んだ皇子がいた。それ以外にも帝の寵を貰っているものが数人いて、その中の何人かは内親王を産んでいると聞いていた。


 父や兄からは皇子たちの勢力図なども聞いていたが、後宮内はそれよりも熾烈な争いがあった。女御がというより、侍女たちや女御の親や親族たちが主に自分たちの皇子を推す動きが目立つ。

 いくら東宮の地位があっても、何かの拍子にその地位を奪われることもある。それを心配して、弘徽殿女御は東宮の後見人に自分の親戚を据えたかったのだと分かった。

 東宮がどんな考えを持っているのか一度くらい話してみたいと思っているがそれも叶っていない。


「姫様、そろそろ戻りましょう」


 少し体も冷えてきたのと香奈の言葉で綾も戻ろうと振り返った時、人影が見えた。


「香奈、隠れて」


 香奈の腕を掴んで木の陰に隠れようとしたが目の前に現れた二つの人影の一人は綾を担ぎ、もう一人は香奈を抱えていた。


 えっっ?


 男二人は綾たちを連れて走り出していた。

 激しく揺られながら綾は担がれた男たちの後ろを見ると松明を持った人影が大勢走ってくるのが見えた。


(あれは検非違使では?)


 担がれているのでその振動で上手く呼吸が出来ない。香奈は既に気を失っているようでぐったりしていた。


「追われているぞ」


 綾を担いでいる男が話している。


「まずいですね」


 香奈を抱えている男も言う。


(検非違使に追われるって何をしたの?)


 その時、視界を掠める物が目に入った。

 通り過ぎる時にそれを見ると、木に刺さっているのは弓矢だ。


(ちょっと待って、どうして弓矢で追われているの??)


 綾の心配をよそに男二人は綾と香奈を連れて更に逃げる。

 弓矢は二人の男めがけて次々飛んでくる。松明もかなり近くに見えてきた。

 助けてと叫ぼうとしたが担がれているので上手く言葉が出ない。

まだ死にたくない!こんなところで死にたくない!!

 綾は逃げ出せないかと担いでいる男の背に拳を何度も打ち付けた。


「こら!痛い。大人しくしていろ!」


 男は綾を小脇に抱えなおした。更に振動は激しくなりもう、何がなんだかわからない。


(誰か助けてーーーー)


 綾は心の中で叫びながら松明を見つめるしかなかった。


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