ぐうたら姫の後宮生活

橘 葵

第1話 東宮妃宣下

 藤原道良はひれ伏しながらそっと左側に座る実父を見る。


 太政大臣の藤原兼光は諦めろと言った表情をしていた。顔の頬を引きつらせながら今度は右側に座る義父を見る。

 関白左大臣の藤原雅通は満面の笑みで今にも踊りだしそうな様子が窺えた。


(謀ったな、この狸おやじ!)


 道良がそう思っても時すでにおそし、たった今、目の前におわす帝から娘の綾姫を東宮妃として入内させよと命じられたばかりだ。断ることなど到底できない。


 かろうじて返事をして御前を辞してフラフラになりながら何とか牛車に乗り込み、御所を出た。

 のらりくらりとかわしていた東宮妃の話は、貴族であればありがたい話なのは十分わかっている。しかし、到底そのようなことを受け入れる娘ではないのは父である道良が十分すぎるほど分かっている。分かっているからこそ断り続けていた。


 義父の関白左大臣は何としても自分の娘が生んだ皇子を帝にする為、政権を集中に収め、権力を親戚に集めようと必死なのだ。

 そんな道良の妻は関白左大臣の三番目の娘で、親戚中を探しても年頃の娘が道良の娘しかいなかったこともあり、随分前から幾度となく打診されていた。

 断り続けた結果、関白左大臣はとうとう、帝をも巻き込んで己の野望を遂げようとしている。


 帝からのお言葉を賜った以上、断ることなど出来るはずもなく途方に暮れた。


 妻に何といおう。


 娘をどう説得しようか。


 それよりも今後自分の身に起きることを考えると、喜んでいいのか悪いのか、もう分からなくなっている。


 栄華を極めるのか?


 それとも政敵に狙われるのか?


 道良は牛車の中で悶々と今後の事を考えては時には高らかに笑い、そして涙し、突っ伏した。


 牛車に付き添う従者たちは牛車の中から聞こえる主の高笑いやすすり泣く声、更には何をしているのか牛車の中からゴンゴンと音が聞こえてくるのをひたすら聞こえないふりをして屋敷に急いだ。


「旦那様、お屋敷につきました」


 牛車が車寄せにつき、御簾があげられる。

 中から出てきたのは朝、屋敷から出て行った主の姿とは思えないくらいにやつれていた。


「おかえりなさいませ。だ、だんなさま?」


 出迎えた侍女たちでさえいつもの主人と違うことを悟って、思わず一歩下がってしまう。

 そんな侍女たちの心配をよそに上の空で牛車から降りた道良は屋敷の廊下に足を踏み出した。


「うわっ」

「旦那様!」


 侍従や侍女たちが慌てて主人の体を支えるが態勢を崩して侍従もろとも転んだ。頭上にあるはずの冠は床に落ちコロコロと転がり侍女がそれを追いかける。

 侍従や侍女たちに助けられながらなんとか道良は起き起き上がった。


「北の方のところへ」


 やっとの思いでそれだけ告げるとおぼつかない足取りで先導する侍女の後ろをついて行く。その後ろで冠を持った侍女が道良に冠を差し出すが、それに気がつく様子もなく目は彷徨っていた。仕方なく侍女は冠を持ったまま主人の後をついて行った。


○○○

「それで今度のお目当てはどこの姫なの?」

「それはまだ……」


 道良の妻の由比は一人息子、良智の恋のお相手に興味津々だ。

 由比は良智の衣に香を焚き染めながら訊く。


 何処か奥手の息子はそろそろ妻帯してもおかしくない年齢に達しているが、先日長年興味を持っていたお相手はいつの間にか同僚の蔵人の少将の妻になっていた。

 数日寝込むほど落ち込んだ息子に新しい相手を探すように侍女と共に宥めすかし、やっと次の相手を探す気になった。

 そして今夜催される宴は、中納言の四の姫の婿探しの宴と言われている。四の姫はとても奥ゆかしく可愛らしいと噂の姫だ。

 摂関家の流れを組む家柄の良智は右近の少将で将来を嘱望されている。顔は悪くない。自慢の息子だ。ただ、少し押しが弱いだけだ。良智には頑張ってもらいたいと思っている。

 その良智に新しい香が欲しいと言われて先日から準備していたのだ。


 由比は都一の調香の名手で、その香は良縁を生むと言われるほど数々の縁を取り持ってきた。

 香を焚き、香炉の上に籠を置きその上に衣をかぶせて香りを衣に焚き染める。

 今日の参内を終えて帰宅した良智は先ほどから直衣を着崩した格好で香を焚き染められる衣を見ている。由比も今夜の息子の頑張りを応援したい気持ちが重なり、今日の香は特に頑張って作った。その為、いつもなら侍女に頼む香の焚き染めも自ら買って出ていた。


「あら、おかえりなさい」

「北の方、大変なことになった」


 侍女に先導されて現れた夫の姿を見つけた由比は声をかけるが様子がおかしい。

 悲壮ともとれる姿に冠すらしていない。後ろを見ると侍女が冠をもってオロオロしている。


「貴方、冠くらいしっかり付けてください。他の方に侮られますよ」

「あっ、ああ」


 ここは北の方としてしっかりと言っておかないといけないと睨み付ける。

 どこか所在なさげに道良は部屋に設えられた上座に座るのを見て、最近少し太ってきた夫にやっと貫禄が出てきたと感じる。


「綾に東宮妃の話がきた」


 ぽつりと呟く道良に息子の衣に香を焚き染めながら由比はまたかという顔で夫の道良を見た。


「はっきり断ったのでしょう。父はまだ諦めていないのですか?」

「お父上には断ったが……」

「それなら問題ないでしょう。父上のことはほおっておきましょう。第一、綾に東宮妃なんて務まるはずもないのだから」


 北の方は香を焚き染めている衣の位置をずらす。


「昼寝が趣味の綾に東宮妃は無理でしょう」


 綾の兄、良智も妹が東宮妃など勤まるはずもないと常日頃から言っている。

 この大納言家の皆が綾姫に東宮妃は務まらないとはっきりと分かっている。だからこそ、関白左大臣からの話には丁重に断り続けていた。

 もし東宮妃にでもなった日には、道良は恐ろしくて宮中に参内出来ないと常日頃から言っていた。それなら、尚更受けてはいけない話だと夫と話していたのだ。


「それが問題だ」


 俯き、だんだん声が小さくなる道良。


「何が問題ですか?」


 北の方は関白左大臣のことは相手にする必要などないとばかりに顔を顰める。


「帝からのお言葉を賜った」

「はい?」

「えっ?」


 妻と息子からの視線が痛い道良は顔を背けた。


 北の方がずずっと近づいてきた。目の前に近づいてきた北の方の迫力に道良はおののく。


「貴方、今なんとおっしゃいましたか?」

「今日、参内したら帝から呼ばれて、綾姫を東宮妃として入内させるようにと賜った。お父上もご同席されていたよ」


 手のひらを見つめながら道良は北の方に説明する。


「もしかして、父が画策したのですか!」

「今まで帝からそのようなお話は一切聞かれなかった。お父上が動いたのだろう。入内する日まで既に陰陽師に占わせていた」

「なんですって!」


 北の方はキッと道良を睨む。

 思わずのけ反る道良に更に畳み込む。


「入内は何時なのですか!」

「一か月後」

「なんてことでしょう」


 北の方がスクッと立ち上がる。


「小百合、お道具類を準備します。すぐに手配を。あと、御衣裳も新調するので反物の手配もお願いね」


 側にいた侍女頭の小百合に次々と指示を出す北の方を見て道良は呆然とする。


「綾を東宮妃にするのは反対ではないのか」

「帝の命を断れるわけがないでしょう。それなら後宮で肩身の狭い思いをしないようにお道具類から御衣裳もしっかりと準備しないといけませんわ。貴方は綾にお話をしてくださいね。良智、貴方は宮中のしきたりをしっかりと教え込みなさい」

「僕が、ですか?」


 良智は呆けた顔で訊く。


「そうです。あの子が宮中で粗相などしたらお父上や貴方まで類が及ぶのですよ。お務めだと思いなさい」


 北の方は部屋を出て行こうとする。


「母上、私は今宵宴が……」


 先程まで今夜の宴のことを想像して夢心地になっていた良智は北の方に追いすがる。


「香を焚き染めるくらいご自分でなさりなさい。今は綾とこの大納言家の一大事です」


 そう言い残して北の方は自分の侍女たちを連れて部屋を出て行ってしまった。

 道良は侍女に支えられながら立ち上がる。


「あっ、ち、父上」


 良智は父の後姿に追いすがる。


「母の言う通りだ。今から綾を説得してくるから、良智も綾に宮中での作法を教え込むように」


 道良は綾姫の元へ向かう。後ろには冠を持った侍女を従えて。

 良智は涙目になりながら仕方なく焚き染めていた衣を自分で裏返す。


「僕だって今日は大事な日なんだ」

「良智様、こちらは私どもが」


 良智の侍女が香の焚き染めを代わりにしてくれる。良智の目には涙が溢れていた。


「良智様、綾姫様へは明日からでも大丈夫ですよ。それに北の方の香は良縁を結ぶと言われております。今夜の宴で四の姫様にしっかり印象つけることが出来ますよ」


 また寝込まれては堪らないとばかりに侍女たちは必死に良智を宥める。


「うん。そうだね。今夜の宴は頑張るよ」


 良智は気を取り直して侍女たちを見る。

 侍女たちはほっと胸をなでおろした。


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