第9話 異界の理Ⅴ

 魔神語には文字がない。あらゆる物事を記憶する魔神にとって、記録するための文字は不要なものだったからだ。

 しかし、アリエッタは理屈抜きに確信していた。

(あれは、魔神語だ)

 直感を信じ、敵とネリーが展開した魔法陣を思い返す。攻撃用と防御用の違いはあれど、双方が肉体変容系の術式を行使したのは僥倖だった。両者の相違点から文字を解読し、共通点から式の組み方を模倣する。

 すっごいヤツ、とネリーは言ったが、アリエッタは大仰なものは望まない。数週間前、師匠にかけられた言葉が脳裏をよぎる。

『自分の意思で使えるよう研鑽しなさい。いいね?』

「……はい、先生」

 かすかな笑みとともに独りごちて、組み立てたばかりの術式にマナを注ぐ。ぐるりと一周、彼女の体の周りを覆うように展開した魔法陣は、ぷつりと切れ、一本の帯となって“異界の門”に吸い込まれた。重厚な黒い門扉に、魔神語が白く浮かび上がる。

 直後、メキ、と音を立てて門扉の装飾が伸び、細い両腕のように変貌する。黒曜石を思わせる光沢を放つそれは、左手でダルグブーリーを鷲掴み、門の中へ放り込んだ。右手はアリエッタの胴を包むように囲い、鋭い爪を肌に食い込ませて血を吸う。

「天に魔性、地に命脈。巡り廻りて円環まどかを描き、面上げるは無道のとば口」

 詠唱に応じ、扉に刻まれた術式が活性化。アリエッタの血とマナ、そして供物代わりの魔神を燃料に、彼女の力量を超えた存在を呼び出すべく、門扉から青白い炎を漏出させるほど滾っていく。

「通りてここにまかり越せ、暴風のみなしごよ!」

 頭の奥で薪が爆ぜるような感覚がするが、痛みも不快感もない。不思議な高揚のままに、術式末尾の起動コードを読み上げた。

 それは、数ある召異魔法の埒外にして、番外。

「 【異界の理:磨穿鉄硯】デモンズコード:エクスノレッジ! 」


 ***


 “異界の門”が勢いよく開き、強風を吐き出す。

 その流れに乗って飛び出した影が一つ、ネリーやサイバーリザードの合間を縫い、半魔神デミ・デーモンに鉤爪を突き立てた。巨大な鷲の翼と、やはり巨大な象の頭。ちぐはぐ極まるコミカルな外見とは裏腹に、優れた機動力と魔力、そして残忍な頭脳を併せ持つ上位魔神――マハティガだ。

( ……やっぱり、天才だったか )

 期待半分で発破をかけてみたが、まさか本当に構築してみせるとは。舌を巻くしかないネリーの視線の先で、アリエッタが吠える。

「ハニーさん!」

「ウィリアム! ネリー! 援護しろ!」

「お、おう!」

「 任せて! 」

 突如として異形の魔術を繰り出したアリエッタに、ウィリアムは未だに戸惑い気味のようだが、ハニーは構わなかった。鋼鉄の巨竜を駆り、再び半魔神に突進する。マハティガに押さえつけられる半魔神に、かわす術はない。

 相手の視界が塞がっている隙に、骨の鎧にマナを結集。肩口の装甲を伸長させ、投擲槍さながらの矢を一本、形成する。

「 邪魔だ、っつってんだろうが、よォ! 」

 乱暴に、しかし楽しそうに振りほどき、蹴りを見舞って引きはがすと、敵はハニーたちに向き合った。三本になった腕の先で、刃が鉈状に変容する。すんでのところで、一人と一機に対応する準備が間に合った形だ。

 しかし、

「やっと見せたな、隙を」

 警戒すべき対象が増えたからだろう、ウィリアムへの備えが疎かになった。【クリティカルレイ】で鋭さを増した一矢が、半魔神の脛を貫く。続けざまにネリーも射撃。自身の骨から形成した一撃は、多量のマナをもって、相手の腕をさらに一本吹き飛ばした。

「ハァァァ!」

 深手を負い、バランスを崩した相手に、ハニーが騎獣の上から鬨の声と大剣を振り下ろす。クチバシを思わせる切っ先が肩口に突き立つと同時に、サイバーリザードの巨躯が衝突。たまらず跳ね飛ばされた半魔神は、祭壇中央の鏡――異界の門に、したたかに背を打ちつけた。

「 こ、の野郎ッ……! 」

「斬り裂いて!」

 ぼろぼろになってなお、愉快げに唇を歪める半魔神は。

 マハティガが生んだ暴風の刃を受け、異界の門もろとも細断された。


「 ……っあ~~~…… 」

 血だまりの真ん中で、気の抜けた声を吐き出していた半魔神は、

「 まあ……楽しかったから良しとすルカァ、ッハハハ 」

 笑い声の途中で、煤とも灰ともつかない残骸となって散った。

 後には、自在に変じてこちらを苦しめた両刃が四本、無表情に転がるばかりだった。


 ***


 マハティガを送還し終えると同時に、それまでアリエッタの体を掴んでいた装飾もろとも、異界の門が消失した。ふらりと力なく宙を漂ったジェニーは、彼女にしては珍しく、無言で旅行鞄に吸い込まれていく。疲れたのはアリエッタだけではない、ということだろう。

「お疲れ様。想像以上だったわよ」

 と、こちらに歩み寄りながらネリーが労ってくれた。全身を覆っていた骨の鎧は、すでに半分以上脱ぎ捨てている。服がぼろぼろになってしまっているが、本人は気にしていないようだ。

「ネリーさんのおかげです。ありがとうございました」

「私もあいつもヒントを出しただけよ。一人で答えを出したアリエッタは、やっぱりすごいわ」

 裏のない賛辞を、朗らかな笑顔で送ってくれるネリー。アルガギスの首を切り落とした容赦のなさも、半魔神の腕を吹き飛ばした力強さも感じないが、間違いない。彼女もまた半魔神だ。人族としての意識が強いのは、奇跡というべきか、皮肉というべきか。

「…………」

 同じことを考えているのか、ウィリアムも無言でネリーを見つめている。困惑と戸惑いに揺れる眼差しは、まるで迷子のようだった。

「あ~~~~、っと~~~~…………」

 ネリーもバツが悪そうに唸るだけだ。険悪ではないが穏やかでもない沈黙を破るべく、ハニーがイロハを抱えて口を開く。


 言葉が紡がれるより先に、バキ、と空に亀裂が走った。


 地面が大きく左右に揺れ、思わず膝をつくアリエッタ。他の面々がかろうじて踏ん張っているのを見やりつつ(平衡感覚の差だろうか)、空を仰いだ。青空に開いた亀裂の向こうは、見通すことのできない黒一色。地震で砕けて舞い上がる大地の破片を、次々と吸い上げている。

「崩壊を始めたか」

「いや、それにしたってペース早すぎねぇか!?」

「たぶん、さっきの半魔神のせいよ!」

 こんな状況でも冷静なハニーと、狼狽を露にするウィリアム。二人に鋭く答えながら、ネリーは空の穴を睨む。

奈落の核アビス・コアを通じて手下を呼んだ時、この魔域を形成するマナを、リソースとして無理やり使ったんだと思う!」

「なら早く出ないと! このままでは崩落に巻き込まれます!」

『もちろんです! マスター、お願いします!』

 元気に応じたI:2アイツーは、自身をサイバーリザードから切り離した。すかさずハニーが、騎獣をスフィアに格納する。魔域を脱した先が狭い坑道であることを考慮したのだろう。

 その傍らで、ウィリアムがネリーの手を取ろうとするが、

「ごめん。無理」

 ぴょん、と距離を置かれた。唖然とする青年に向けられる笑顔には、申し訳なさとやるせなさが半分ずつ滲んでいる。

「外に出たら死んじゃう。今はそういう体なの、私」

「……何、を…………」

 ウィリアムは絶句し、こちらに振り返る。すがるような眼差しを前に、しかしアリエッタは何も言えなかった。いたたまれなくなって目を逸らす。

 奈落や“奈落の魔域”シャロウ・アビスのような、異界のルールが色濃く反映される場所でしか生きられない――半魔神の生態について判明している、数少ない情報の一つだ。人族の要素が混じっている分、通常の魔神のようにはラクシアに顕現できないのだろう。メンタリティが変異前と変わらないネリーであっても、例外ではないようだ。

 では、彼女はどうやって魔域の崩壊を回避するつもりなのか。その答えは、すぐに彼女自身の口から語られた。

「とりあえず、奈落本体に帰還するわ。飛べそうな魔域を見つけ次第、そこを巡ってみるつもり」

 奈落限定の転移能力。魔術師ギルドの面々が聞いたら、よだれを垂らしながら食いつきそうな話題だが、今はそんなことを追究している場合ではない。時間的にも、心情的にも。

「行くぞ」

「っ、ですが……!」

 ハニーの催促は正しい。自分にできることもない。それでも弱々しく抗弁し、ウィリアムの背中を見つめる。

 五十年間、探し続けた家族と――否、大切な人と再び別れなければならない彼の心中を思うと、切なさと悔しさがこみ上げてならない。

 ネリーも同じ気持ちのはずだが、悲しさも寂しさも、わずかに笑みに滲ませただけだった。

「……ごめんね、ウィル。縁があったら、またね」

 言葉とは裏腹に期待のこもっていない、社交辞令じみた挨拶を残して。

 ネリーはくるりと踵を返し、岩場の奥地へ踏み出した。


 ***


 こちらに背を向け、岩場の陰へ去ろうとした義姉の――大切な女性の腕を掴んだ。

「俺は! お前を諦めない!」

 丸く見開かれた、美しい萌黄色の瞳をまっすぐ見据えながら、魂を吐き出すように吠える。

「必ずお前を見つけ出す! お前を元に戻して、一緒に帰る方法を探してみせる! だから、それまで……それまで…………」

 しかし、言葉が続かない。引き留める腕の力はそのままに、語調だけが萎んでいく。

 頑張れ、と言えばいいのか。今日まで五十年間、誰にも頼れないまま生きてきたであろう彼女に、まだ頑張り続けろと。一人で生きてくれ、と。

 それがどれほど残酷か、分かっているから。そんなことしか言えない自分の無力さが、心底嫌になってしまったから。二の句を継げずに押し黙る。


 ぐい、と。

 逆に腕を引かれた、と思った次の瞬間、ネリーの顔が文字通り目前に迫った。


 数秒が永遠に感じられるような、人生初の口づけは、

「……よしっ、百年分の元気もらった!」

 ネリーが勢いよく顔を離し、はつらつと笑ったことで終わった。呆然とする他ないウィリアムの前で、再び骨を急発達させ、鏃として体外に排出する。

 それを差し出しながら、

「じゃあ、お願いね。私も頑張るから」

 自分が言えなかったことを、言った。

 少し足りなかった勇気を、補ってくれた。

「ッ…………ああ、待ってろ!」

 その笑顔に応えるように、大きく頷く(呼吸すら忘れていたことに今さら気づいた)。必死な自分がどう見えているのか、考えることも忘れて。

 仕方ない子だなぁ、と昔のままの笑顔を浮かべたネリーと、一度だけしっかり抱き合って、離れる。名残惜しさなんて感じさせない、踊るような足取りで数歩だけ距離を置き、虚空をひと掻き。引き裂かれた箇所から空間が綻び、ぐばりと広がって、奈落本体へのゲートと化す。

「アリエッタ。ハニーさんと、イロハさんも」

 人の身では叶わない荒業を披露したネリーは、ふわりと身を翻すと、

「私の未来の旦那様を、どうぞよろしく」

 花のような微笑みを残して、飛び込んだ。

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