第9話 異界の理Ⅲ
「どこだ……私の理論の、一体どこが間違っているというんだ……!」
「高司祭様。少しお休みになってはいかがですか?」
「黙れ! しばらく一人にしろ!」
一心不乱に術式を調べていた男――高司祭は、おずおずとかけられた言葉を一蹴した。そっと立ち去る気配を背に感じつつ、術式の調整に集中する。
祭壇の床に刻まれているのは、人と魔神の人為的な融合を引き起こす術式だ。高司祭の十数年にわたる研究の成果にして、大僧正直々の賞賛を得た大魔術。当然、高司祭自身も絶対の自信を持っていたが、これを利用して
(この私が何というざまだ……早く結果を出さねばならないというのに!)
彼は焦っていた。結果が出ないこと以上に、大僧正の期待に応えられないことに。奈落の秘蹟を用いて魔域を生み出し、実験場として使うよう認めてくれた恩に報いることのできない現状に、忸怩たる思いが積み重なるばかりだ。
顔を上げる。祭壇の中心には、巨大な円形の鏡が設置されている。大僧正が
これを用意してもらうところまでは順調だった。どうして、その先が上手くいかないのか。
(午後の実験は取りやめて、術式の調整に集中すべきか……)
「考え事の途中で悪いけど、お邪魔するわよ」
不意に、ふわりと。
吹き抜ける南風のような声に、肩を大きく震わせて振り返る。
「こんにちは。あと初めまして。今日もいい天気ね」
骨を組み合わせたような異形の大弓を手に、にこやかに手を振るエルフの女性が一人。その十メートルほど後ろには司祭が倒れ、全身を細かく痙攣させている。毒でも盛られたか。
「な、何者だ! ここで何をしている!」
「名前はヴィクトリア。んー、通りすがりの賞金稼ぎ? だったっけ?」
設定作ると後が面倒だなぁ、などと意味不明なことを呟くと、女性――ヴィクトリアは自身の顔を指さし、
「ところで高司祭サマ。私の名前に聞き覚えない?」
「知るか! さっさと質問に答えろ! ここで何をしている!」
腰の魔杖を抜き、先端を突きつけながら吠える。いつでも魔法を行使できるぞ、という脅しも含めた構えなのだが、ヴィクトリアの眼差しは冷たいものだった。
「……うん。まあ、そうだよね」
誰にともなく言いながら、矢筒から矢を引き抜く。
「実験台の名前をいちいち覚えてるような人が、こんなこと続けるはずないもんね」
「訳の分かることを言え、無礼者がァ!」
苛立ちを怒号にし、詠唱しようとした瞬間、ヴィクトリアは掴んだ矢をつがえず、そのまま投げつけてきた。思わずひるむ間に距離を詰められ、こん棒さながらに振るわれた弓に、杖をはたき落とされる。
「訳が分からなくて結構だから、聞くだけ聞いておいてくれる?」
痛みと、ますます募る怒りに舌打ちするが、彼女は平坦な口調を崩さない。
「あの子ね、泣いてたの。ぐちゃぐちゃになった体で、『こんなはずじゃなかった』、『もっと幸せになりたかっただけなのに』って。馬鹿げた宗教にのめり込んだ自業自得だとしても……私は、嘘のない涙を無視できるような人にはなりたくないから」
今度こそ矢をつがえ、引き絞りながら告げる。
「大人しく捕まって。ああ、命までは取らないから安心してね。あなたたちを引き渡せそうな人も、やっと来てくれたみたいだし」
「このッ……馬鹿にするのも大概にしろ、あばずれがァ!」
怒髪天を突いて吠え、足元――祭壇の隅に置いておいた壺に、マナを放り込んだ。
***
岩場の一角に隠れるように開いた洞窟を抜け、谷に面した細道を進んだ末に、アリエッタらはそこにたどり着いた。
古い時代の遺跡によくみられる、石造りの円形祭壇だ。劇場の舞台のようにも見えるそれの中央には、黒い鏡が設置されている。アリエッタの背丈ほどもありそうな鏡面は、真っ黒く濁って何も映していない。あそこから異界にアクセスし、魔神を呼び出しているのだろう。
その脇に置かれた壺から、巨大な魔神が這い出ている。丸太さながらの太い両腕、不自然に盛り上がった肩、そこからどろりと垂れ流される毒液――歩く毒沼・ブガラドレだ。五メートルを悠に超える巨体を完全に現すと、のっぺりとした仮面のような顔面に、小さな赤い眼球を光らせて唸る。明らかに臨戦態勢だ。
そんな異形と、弓一つを手に相対する銀髪のエルフが一人。
「ヴィクトリアさん!」
「アリエッタ!? え、もう来たの? 早すぎじゃ――――」
驚きと喜びが半分ずつ含まれた声を上げたヴィクトリアは、こちらに振り向き、そして固まった。大きな萌黄色の目をさらに大きく見開いて、アリエッタを凝視している。
否、視線の先にいるのはアリエッタではなく、
「…………ネリー」
「…………ウィル?」
その後ろで石像のように硬直する、ウィリアムだった。
二人が見せた予想外の反応に、ハニーですら言葉に窮していたが、
「次から次へとッ……一人残さず毒し殺せ、ブガラドレ!」
奈落教の司祭らしき男の怒号で、全員が我に返った。ブガラドレは一歩踏み出すことで命令に応じる。石床に毒液が滴り、わずかに生えていた苔を瞬時に腐らせた。
この腐敗毒こそ、ブガラドレが持つ最強にして最悪の能力だ。動きが緩慢だからと放置すれば、この祭壇くらい、あっという間に不可侵の毒沼に変えてしまうだろう。
それを分かってか、ヴィクトリア改めネリーは逡巡の沈黙の後、
「私は九時から! そっちは五時! オッケー!?」
「ッ……分ぁってる! お前ら、あのデカいの頼んだ!」
負けじと大声で答えたウィリアムは、仲間に言い置き、地面を滑るように立ち位置を調整した。素早く展開したクロスボウに太矢をつがえ、【クリティカルレイ】を付与して放つ。
必殺の一矢は、高司祭の太ももに深々と突き刺さった。
「ぐぅッ……あああ!」
歯を食いしばり、激痛を声にして吐き出す高司祭は、なおも戦意を露わに杖を構えるが、
「痛い目見てもらうって言ったよ、ねっ!」
ネリーの追撃を受け、たまらず倒れ伏した。足だけでなく肩からも血を噴き、もんどりうつ。
戦闘不能に陥らせたと判断したか、彼女は続けざまにブガラドレの頭を狙うが、野太い腕に阻まれてしまった。ついでとばかりに垂れ流された毒液が、石床を危険な沼に塗り替えていく。
しかし、
「我が声に応じて来たれ、暗夜駆ける腐獣よ!」
もとより腐り果てたテラービーストには関係ない。毒の沼をかき分け、一直線に距離を詰めて食らいつく。
「突撃しろ、
『了解! 泥はねにご注意くださ~い!』
「イロハ、乗れ!」
「――臥薪嘗胆」
魔神の牙と、アリエッタの【アストラルバーン】で食い止めている間に、イロハがサイバーリザードの後ろに飛び乗った。ハニーの背後で、彼女が頭を獣のそれに変えた時、
「! ダメ、下がって!」
アリエッタより先にネリーが警告したが、もう遅い。不格好に膨れたブガラドレの肩が、ブドウ色の砲弾を二発、二人と一機に叩きつけた。腐食毒の塊だ。二人とも咄嗟に得物をかざして防御するも、毒液は粘膜や鎧の内側に容赦なく入り込む。
『マスター!』
「ッ……構うな、行け!」
げぼ、と湿った咳を吐き出すが、ハニーの目は死んでいない。彼の後ろで、イロハも眼光に険をはらみながら腰の短刀を抜く。
二人の闘志を汲んで、I:2は鉄の脚を躍動させる。毒を受け付けない体で、ばしゃばしゃと沼を蹴散らして。当然、ブガラドレは長い両腕を伸ばして叩き潰しにかかるが、
「跳ね飛ばせ!」
『はい! 行きますよ、イロハさん!』
「承知!」
ハニーの指示の方が早かった。尻尾の先端に跳び移り、姿勢を低く構えたイロハを、サイバーリザードが思い切り放り投げる。まるで銃弾のようにカッ飛んだ剣士は、ブガラドレの腕をかわして胴体に到達し、愛用の脇差を突き立てた。さらに、その柄を足場にして跳躍し、外皮を刀で裂きながら天へと昇る。
宙を舞うイロハに毒液まみれの腕を伸ばす魔神へ、もう一撃。
「ッ――――!」
ハニーが振り上げた大刀が、斬撃とともに雷を放ち、ブガラドレの心臓を破断した。
***
めまいと吐き気に襲われながらも、イロハは脇差を丁寧に使い、ブガラドレの傷を拡げていく。やがて、左脇腹に到達した刃が何かを破いた。派手にしぶいた桃色の液体が、イロハの体や周囲の毒沼に飛び散る。
「あったでござる!」
「量は?」
「十分でござろう」
同じく顔色の悪いハニーに返し、液体の出どころを探る。やがて取り出したのは、形も大きさもヘチマに似た臓器。ブガラドレの腐敗毒を即時分解する、特殊な体液を分泌する解毒腺だ。ブガラドレが自身の毒に侵されないのは、この器官を複数備えているからだといわれている(アリエッタ談)。
一つ目をハニーに手渡し、手早く二つ目を切り出す。頭上で雑巾のように絞ると、たっぷりと溢れた解毒液が、瞬時に毒を洗い流した。目や鼻、口といった粘膜周辺の痛みも、きれいさっぱり取り払われる。
三つ、四つと解毒腺を摘出し、辺りの毒沼も浄化したところで、ようやくブガラドレの肉体が崩れ始めた。煤とも灰ともつかない物体になって消えていくが、サイズがサイズだけに、崩壊のスピードは遅い。
「お二人とも、大丈夫ですか?」
魔神の送還を終えたアリエッタが、顔を覗き込むように心配してくれた。笑顔で返す。
「うむ! アリエッタ殿が助言してくれたおかげで、手早く取り出せたでござる!」
「ああ。あとは……」
誰からともなく無言になり、揃って同じ方を見る。
「…………」
「…………」
イロハたちから少し離れた場所で、ウィリアムとネリーが向かい合っている。視線を合わせたかと思えば、すぐに逸らして無言を貫く。ブガラドレ討伐からの数分間、そんなやり取りを繰り返していた二人だが、やがてネリーが口火を切った。
「背、伸びたね」
「……おう」
「ちょびっと筋肉もついたし」
「ちょびっとは余計だ」
「ごめんごめん」
「……元気、だったか?」
「うん」
「心配したんだぞ」
「うん。ごめん」
「……謝るとこじゃねぇよ」
バツが悪そうに微笑むネリーと、迷子のように言葉を詰まらせるウィリアム。言いたいことも聞きたいことも山ほどあるのに、上手く言葉にできない――もどかしくも温かな沈黙は、ウィリアムと目が合ったことで終わった。
「あ~……お前ら、体は大丈夫か?」
じっと見られていることに気づいて恥ずかしくなったのだろう。頭を掻きながら歩み寄ってくる彼に、ネリーも肩をすくめて着いてくる。
「解毒はできた。現状を見るに、後遺症もないだろう」
「そっか…………あ~、改めて紹介するわ」
言葉を選ぶように、ゆっくり言いながらネリーを指すウィリアム。
「ネリー・シャーウッド。俺の姉貴にあたる」
「? あたる?」
「血が繋がってないの。いわゆる義理のお姉さんね」
イロハの質問に答えたのはネリーだ。少し身をかがめ、目線を合わせてくれる姿は、まさしく「お姉さん」である。
「ウィル――ウィリアムのご両親は、彼が小さい頃に亡くなってしまってね。家族ぐるみの付き合いがあった私のお父さんが、家族として迎えたの」
「その親父さんも早くに死んじまって……五十年前、村が魔域に飲まれるまで、ずっと二人で暮らしてたんだ」
「まあ、その実? ただの姉弟って感じでもなかったけどね~」
一瞬だけ悲壮な雰囲気を漂わせかけたウィリアムだが、ネリーの意味ありげな笑みを受け、目はおろか顔まで背けた。みるみるうちに耳が真っ赤になっていく。
なんとなく意味を察したがゆえに、イロハもアリエッタも返答に窮してしまうが、
「そうか。ところで、なぜこの魔域にいる?」
ハニーだけは通常運転だった。彼らの間に漂い出した甘い空気に、(おそらく気づいていながら)あえて割って入って話を進めようとする気概に、今だけは感謝を禁じ得ない。
一方、問われたネリーは煮え切らない顔で唸った後、左の頬を掻きながら、
「ん~、それに関しては後で話すから。今はここを抜け出すことだけ考えましょ?」
「……それもそうだな」
明らかに濁されたが、ハニーは追及しなかった。背の大刀に手を運びながら、祭壇に向き直る。
円形舞台の中心で、黒く染まった巨大な鏡。どんな手で加工したか分からないが、“奈落の核”で間違いないことは、先刻アリエッタが断言した。あれを破壊すれば、この魔域も終息に向かうだろう。
行ってくる、と言わんばかりに目配せして、ハニーが一歩踏み出した、その時だった。
「ぐ、ぅあ、ああああアアアアアああァァァ!」
この世のものとは思いたくない、凄絶にすぎる絶叫が轟いたのは。
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