第9話 異界の理Ⅰ
ふと、アリエッタは目を開けた。
鉱石採掘場跡地の地下に発生し、蛮族に守護されていた
現在、彼女は暗闇の中をぼんやりと漂っている。“奈落の魔域”に侵入した際に特有の浮遊感だ。五感を失って夜の海に浮かんでいるような感覚は、初めて味わった時(養父のもとで修業に励んでいた頃のことだ)こそ恐怖を覚えたが、今となっては慣れたものだ。
しかし、アリエッタは今、これまでにない違和感に眉をひそめている。
(魔域に、到着しない……?)
通常の“奈落の魔域”なら、踏み入って数秒で内部に到着する。必然、この浮遊感を味わうのも数秒なのだが、今回はなかなか知覚が回復しない。命に係わる不都合がないとはいえ、この謎の空間を抜け出せないなら、それはそれで問題だ。
何がどうなっているのか、手がかりを求めて周囲を見回していると、
「天におわす――――の使徒よ」
かすかに人の声がした。目を見開き、その方角に耳を澄ます。
「汝、慈悲と合一をもって、この者に真なる解放を与え給え」
(合一……解放?)
魔法の詠唱のようにも聞こえるそれは、一体何を意味しているのか。さらに集中しようとしたが、
『ダメよ、アリー!』
同時に、アリエッタの意識も闇に溶けるように失われた。
***
頬を風に撫でられて、イロハはゆっくり瞼を上げた。
周囲には岩場が広がっている。溶岩が固まったような色合いだが、付近に火山らしいものは見当たらない。たまたまそういう色をしているだけなのだろうか。考えながら愛刀の柄に手をかけ、辺りを見回す。
地上にも空中にも生き物の気配はなく、しんと静まり返っている。植物や苔は生えているが、いずれも魔物に類する危険な種ではない。見通しのきく開けた場所でもあるので、安全なエリアと言っていいだろう。深い谷に面しているので、滑落しないよう気をつける必要はあるが。
「ん~っ……やっぱ、このくらいの気温が一番いいな」
と、背後からウィリアムの声。振り向けば、彼は空に向かって大きく伸びていた。隣にはサイバーリザードに跨ったハニーもいる。
『周囲に生命反応なし。全システム、動作不良なし。準備万端ですよ、マスター!』
「了解した。常に周囲を警戒しておけ」
「この魔域、奈落教の連中が来てんだよな? 人が行き来する場所には見えねぇけど」
「離れた場所に拠点があるのではござらぬか?」
『ラージャハ帝国の斥候部隊員の証言によれば、ドゥーシェとおぼしき男性に連れてこられた信徒は皆、非戦闘員に見えたのですよね? ここのような、安全なエリアで活動しているのではないでしょうか?』
「だとすれば、魔物のいるエリアを避けて進めば、奴らの拠点を見つけられる可能性が高い、ということか」
「そうと決まれば、善は急げでござる! アリエッタ殿! 足元に気をつけて――」
意気揚々と提案しかけて、ようやく一人いない事実に気づくイロハ。他の二人はもちろん、表情がない
「アリエッタは?」
「ちょっと周り見てくる。でかい声は出すなよ?」
早口で忠告すると、ウィリアムは軽快な足取りで岩場を飛び越えていった。ほとんど足音を立てない身のこなしに感嘆したのも束の間。すぐに帰ってきた彼は、顔に明らかな焦りを浮かべていた。
「どこにもいねぇ。あっちの方で、ゴーレムが棒立ちしてるだけだ」
魔域に入る直前、アリエッタが作成したロームパペットのことだ。一緒に侵入したにもかかわらず離れ離れになるというのは、少なくともイロハには経験がない。いつぞやの、地下洞窟に生き埋めにされかけた時さながらに焦る。
「どどど、どうするでござる!?」
「どうするも何も、まずはアリエッタ探さねぇと……!」
「ウィリアム、ゴーレムの場所まで案内しろ。そこから三方へ散らばり、手分けして探す」
「この辺りにいなかったら?」
「捜索範囲を広げるだけだ。急ぐぞ」
てきぱきと指示を飛ばし、サイバーリザードのコンソールを操作するハニー。普段より語調が強い。彼なりに焦っているのだろう。
(アリエッタ殿……!)
無事を祈りながら、ウィリアムの後を追って岩を蹴る。その勢いで岩片が崩れ、谷底へ落下していった。
***
小さな石の礫が落ちてきた音で、アリエッタは意識を取り戻した。
「…………」
仰向けに倒れたまま、左右の手で拳を作ってみる。右手が握りこんだのは旅行鞄――封入具の取っ手だ。左手も問題なく動くことを確認し、ゆっくりと起き上がる。目覚めたばかりだからか、頭の中は靄がかかったようにぼんやりしていたが、
「っ……!」
びきりと走った痛みで一気に覚醒した。顔をしかめて目を向ける。右足をひねってしまったようだ。破損したブーツの中で、患部がじんじんと熱を持っているのが分かった。
肩をすくめ、鞄に身を預けながら立ち上がる。彼女がいるのは、左右を切り立った崖に挟まれた谷だ。数十メートル上に青空が見えるが、日はほとんど差し込まず、薄暗い。足元を流れる細い川も、どこか陰鬱な雰囲気に満ちていた。
“奈落の魔域”の内部には来たようだ、と確認したところで、魔神語で呼びかける。
「ジェニー」
『はぁい、アリー! おしゃべりタイムかしら? でもお茶菓子がないのは寂しいわね~』
すると、ジェニーは旅行鞄を跳ね飛ばさんばかりに飛び出し、アリエッタの眼前に浮かび上がった。不気味な人形の姿をとる彼女は、この薄暗い空間で相対すると、ますます気味悪く見える。
「あの時、声をかけたのはあなた?」
『そうよ! アリーってば、あのままだったらとっても危なかったんだから! 私にもっと感謝していいのよ!』
「そう……」
腰に手を当て、自慢げな声を出しつつ胸を張るジェニーに、アリエッタは生返事を返した。相変わらず彼女(?)の言っていることは理解不能だが、先ほどの暗闇での出来事は夢ではないようだ。
(ここで活動している奈落教の信徒と、何か関係が……ううん、今は)
考えても結論が出ないと判断し、気を取り直して周囲を見回す。深い谷は、前にも後にも長く続いている。ハニーたちと合流するには、どちらへ進むのがいいだろうか。
手がかりになりそうなものはないか、あちこち観察していると、
「ところで、アリー。今もとっても危ないわよ! 大変ね!」
ジェニーが封入具に戻りながら放った楽しそうな声と、殺意に満ちたおぞましい唸り声が、同時に耳に届いた。右足をかばいながら振り返り、相手を見た途端に総毛立つ。
地面を這い寄ってくるそれは、人族に見える。しかし、両手足を大きく開いて折り曲げ、クモのような四つん這いで距離を詰める様は、人族はおろか、この世のどんな生物とも似ても似つかない。衣服も靴も身につけていないため、角や鱗、鋭い爪や牙、飛翔には使えそうにない小さな翼など、人ならざる器官を備えているのがはっきり見えた。
思わず目を背けたくなるような怪物は、一体だけではない。壁の横穴からも二体、同じような風体の者が唸りながら這い出てくる。挟み撃ちでないのは不幸中の幸いだが、未知の魔物を複数、足を負傷した状態で、あまつさえ一人で相手取らねばならないのは厳しすぎる。
(でも、戦うしかない……!)
腹をくくり、封入具を盾にするように構える。白兵戦に対応するには【デモンズドッジ】が必須だ。封入具の中でマナを練り、詠唱の準備を整える。
そこに、
「ごめ~~~ん、ちょっとそこどいて~~~!」
頭上から、声と人が降ってきた。
硬い何かがアリエッタの頬をかすめるのと、彼女の至近距離に何者かが降り立つのが同時だった。ひえ、と声にならない声を上げて硬直してしまうアリエッタに、
「ふ~、ナイス場所空け(空けてないけど)! 上から突然ごめんね!」
降ってきた人――エルフの女性は、輝くような笑顔で言った。結われた長い銀髪が、背に負う大弓に覆いかぶさっている。先ほどアリエッタの頬をかすめたのは、この武器だったようだ。
「え、っと……はい……?」
「ん~、魔法使いさんかな? 観光客じゃないよね? 足、大丈夫?」
「は、はい、その、たぶん……」
旅行鞄を一瞥し、矢継ぎ早に質問を重ねる女性。突然の登場と遠慮のない態度に圧倒されてしまうアリエッタだが、正体不明の怪物の咆哮に、すぐに意識を現実に引き戻された。
「わぁお、けっこう集まってるね」
「あ、あの! もしよろしければ、手伝っていただけませんか?」
「いいよ~。そのために来たんだし」
女性は即答し、巨大な弓を展開する。そこで初めて、彼女の弓が動物の骨で作られていることに気づいた。暗がりの中に浮かび上がるような純白は、骨でありながら、真珠のように煌びやかだ。
「前衛は私が張るから、後衛よろしく!」
「はい! よろしくお願い」
アリエッタが言い終えるより早く、女性は矢を放ち、一匹の眉間に風穴を開けた。
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