第7話 悪徳に染まらずⅠ
「どうぞ」
「ありがとうございます、おじ様」
湯気の立つカップを受け取り、アリエッタは会釈した。対する男性――養父のチェスター・ノーランドもにっこり笑い、彼女の向かいの席に腰かける。
「ネサレットさんから、君が体調を崩したと聞いた時は肝が冷えたよ。もう大丈夫かい?」
「はい、もうすっかり。ご心配をおかけしました」
「それは良かった。元気に見えて実は不調です、なんて言われたら、この紅茶をこぼしてしまうところだったからね」
ひょうきんな返しに微笑みながら、周りに目をやった。
二人がいるのは、ノーランドの書斎だ。東に面した窓から陽光が差し込み、壁に吊るされた薬草や動物の爪、きれいに整頓された小箱などを柔らかく包んでいる。背の高い本棚には、操霊魔法や妖精魔法、そして召異魔法に関する書籍がずらりと並ぶ。アリエッタが暮らしていた頃(ほんの三ヶ月ほど前だが)と変わっていない。雑多な中にぬくもりが感じられる、ノーランドそのもののような部屋だ。
妙に郷愁じみたものを感じるアリエッタは、
「しかし、“
わずかに温度が下がった声に、紅茶を喉に詰まらせかけた。思わず背を丸めてむせる。
彼女とは反対に、優雅な所作を崩さず茶をすすったノーランドもカップを置き、両手を膝に運んだ。
「いかなる理由、いかなる状況であっても、“扉の小魔”の言葉に耳を貸してはいけない……君に召異魔法を教えるにあたって、最初に伝えたことだ」
「……はい」
「良くないことをした、という自覚はあるね?」
「はい。申し訳ありません」
淡々と問いかけるノーランド教授に、アリエッタは深く頭を下げ続ける。脳裏に蘇るのは、ジェニーの甘い囁きだ。彼女(?)の誘いに乗った後のことは覚えていないが、仲間たちが見聞きしたことは報告書で読んだ。
自身の力量以上の魔神を召喚し、使役する――普段行使しているものとは異なる召喚術式を、自分は確かに起動したらしいが、いま問題なのはそこではない。“扉の小魔”の甘言に乗るなど、召異術師としてあってはならないことだ。
破門か。勘当か。突き付けられる言葉を想像し、じっとうつむいていると、
「……そろそろ話しておくべき、ということかな」
「? はい?」
ノーランドがぼそりと独りごちた。思わず顔を上げて間抜けな声を出すアリエッタに、彼は普段と同じ、柔らかな笑顔で告げる。
「僕も報告書を読ませてもらったけど……実をいうとね。君があの召喚術式を用いたのは、今回が二度目なんだ」
「え!?」
目を見開いて大声を上げてしまう。こちらを見るノーランドは、ちょっと楽しそうだ。
「覚えていなくて当然さ。あの“
「魔域の跡地……ひょっとして、おじ様が私を保護してくださった時、ですか?」
「うん。いやぁ、僕一人でケルベロスを討伐するのは、さすがに骨が折れたよ」
なはは、と気の抜けた笑みを浮かべながら、さらりと超人じみたことを言う養父。色々と言いたいことはあるが、いま最も注目しなければならないのは彼の戦闘力ではない。
「でも、ケルベロスの脅威度は……!」
「平均して11相当。十歳そこらの女の子が使役できるとは、到底思えないねぇ」
膝に置いていた手を組み、彼は穏やかな口調のまま続ける。
「けれど、あれは間違いなく君が呼んだ魔神だ。当時の君の様子は、報告書の内容と合致していた。何より、あのケルベロスは、辺りをうろつく蛮族や猛獣から君を守っていたんだ。契約を介した主従関係でもなければ、魔神がそんなことをするはずがない」
「…………」
「今回の報告で確信したよ。あれは君にしか行使できない召喚術式なんだ、ってね」
言葉を失っていると、ノーランドは席を立ち、アリエッタの前に膝をついた。真剣に伝えたいことがある時、彼は必ず、こうして目の高さを合わせてくれる。
「『使うな』とは言わないよ。それでしか救えない命も、きっとあるはずだから」
見せてくれる笑顔は、自分が幼い頃から何も変わらない。まるで春の木漏れ日のように、こちらのすべてを包み込んで許してくれるような――優しさと温かさに満ちている。
「だからこそ、自分の意思で使えるよう研鑽しなさい。いいね?」
「……はい。おじ様と、ともに戦ってくださる皆さんの名に賭けて、誓います」
うん、と嬉しそうに頷くと、ノーランドは立ち上がる。
「それじゃあ、本題に入ろうか。悪いね、せっかく来てもらったのに説教しちゃって」
「とんでもありません! 教えてくださって、ありがとうございました!」
恐縮しきりのアリエッタに、「いやいや」と首を横に振りながら、ノーランドは改めて席につく。
「頼みがある、ということだったね。僕が力になれることならいいのだけど」
「いえ、先生にしかできないお願いです」
力強い断言に怪訝そうな顔をする養父に、身を乗り出して懇願する。
「私に、妖精魔法を教えてください!」
***
「ということがあってから二週間だけど、調子はどうかな?」
「まだ触り程度ですが、何とか身についてきました。イロハちゃんやウィリアムさんも付き合ってくださって」
「自然の散策に、かな? お二人とも、ウチの子がお世話になります」
「お世話なんて大層なもんじゃありませんよ。食材探しも兼ねてたんで」
「うむ。拙者たちこそ、色々と勉強させてもらっているでござる!」
酒場で思い思いの席にかけ、和やかに会話する仲間たちを見回しつつ、ハニーはノーランドを観察する。すでに六十歳近いとのことだが、四十代でも通用しそうなほど若々しい風貌だ。
チェスター・ノーランドといえば、ハーヴェス王国の魔法使いなら誰もが知る、魔術師ギルド召異科の重鎮である。魔神だけでなく、ゴーレムや妖精といった使い魔を使役するエキスパートであり、関連した論文や教導書をいくつも執筆している。間違いなく、現代の魔法研究界をけん引する大魔術師だろう。
しかし、見ての通り、本人はいたって庶民的な紳士だ。古民家で弟子たちと共同生活しながら、積極的に市民と交流し、時にはアイリス姫の慈善活動にも参加している(ゆえにハニーとも顔見知りだ)。選民思想が強い魔術師ギルドでは煙たがられているらしいが、市民や教え子からの評判はすこぶるいい。養子のアリエッタがあの性格に育ったのも頷ける。
そんな好人物が紅茶のカップを傾けたのを見計らい、ネサレットが話を進めた。
「本当に、ようこそいらっしゃいました。本日はアリエッタちゃんの様子を見に?」
「半分は。もう半分はお仕事の話です。ネサレットさんは、魔動死骸区をご存知ですか?」
「ええ。あの街が何か?」
「そこに住んでいる古い知り合いから、信頼できる冒険者を派遣してほしいと頼まれましてね」
ソーサーにカップを戻したノーランドは、両手を膝に戻し、居住まいを正す。
「詳しい依頼内容までは聞いていないのですが、おかしなことを頼む人物でないことは保証します。昨今、皆さんに対する心ない噂も耳にしますし、気分転換も兼ねて、いかがでしょう?」
「もちろんです! 当ギルドは、どんな小さな依頼でも大歓迎ですので!」
ネサレットは目を輝かせて即答した。無理もないと思いながら、ハニーは肩をすくめる。
衛士隊の家宅捜索から半月が経った今、『
ネサレットの喜色の裏に必死さを見たのか、ノーランドは何も言わない。ただ微笑むだけの彼に、ウィリアムが尋ねる。
「俺たちはどこに行けばいいですか? その、お知り合いの名前とかは?」
「はい。依頼人の名は、フラット・ウィットレイル。魔動死骸区の郊外で『まほろば』という孤児院を経営しているエルフです」
「…………孤児院か」
思わず口を衝いて出た一言に、ノーランドが一瞬だけ反応した気がしたが、それ以上の追及はせず、一枚の紙片を差し出した。
「こちらの地図を参考にしてください。それから、先方には僕から手紙を出しておきます。“鳩”に依頼すれば、明日には届くでしょうから」
***
サイバースパイダーに揺られること二日。朝方、ウィリアムたちは魔動死骸区に到着した。
事前にアリエッタから聞いた通り、寂れたスラム街が広がっている。古びた家屋や掘立小屋、ともすれば納屋にしか見えない粗末な民家が建ち並ぶばかりで、商店らしいものは一切見当たらない。相当数の人が身を寄せ合って暮らしているようだが、午前七時を回ったばかりとあって、人通りはまばらだった。
(分かりやすい建物で助かったな)
孤児院らしきレンガ造りの建物に向かって、坂道を上りながら、ウィリアムは思う。何度か住人と出会ったが、皆一様に警戒を露わにし、足早に立ち去ってしまった。道案内は望めそうにない。ブルライト地方一治安の悪い街だけあって、住民の自衛意識も高いのだろう。
言葉少なに進むうち、孤児院『まほろば』の門が見えてきた。そこで、先頭を行くハニーの歩調が急に鈍くなる。
「? どうし――」
「ぅおらァァァ!」
尋ねようとしたウィリアムの声を吹き飛ばすような、怒りと気合いに満ちた咆哮。続いて、孤児院を囲む塀の向こうから、みずぼらしい身なりの男性が二人飛んできた。地べたに墜落し、うめきながら身を縮めている。
何事かと身構えていると、
「チッ。下まで行ったと思ったのによォ」
勢いよく門を開き、リカントの青年が現れた。茶色が強い豊かな金髪と丸っこい耳を見るに、ライオンのリカントらしい。
不機嫌そうに眉を歪めたまま、ぶおん、と振りかざして肩に担ぐ得物を見て、ウィリアムの目が点になる。インテリアとおぼしき、長大な木製の街灯だ。あれで二人を打ち上げたのだろうが、チョイスが謎すぎる。
「次ァ歯と手足の指全部へし折るからなァ! 覚えとけやゴラァ!」
「「ひいいい!」」
迫力満点の怒号を受け、男たちは一目散に逃げ出した。慌てふためく彼らの目に、こちらの姿は映っていないようだ。
「あンだよ、見世物じゃねぇぞ。とっとと失せな」
ぽかんとしていると、青年が牙を剥いて威嚇してきた。トミー・ゲスラーのそれとは質の違う、野性味あふれる敵意にひるんでしまうが、ハニーは涼しい顔で答えてみせる。
「冒険者ギルド『十字星の導き』の者だ。こちらの院長から要請を受け、ハーヴェス王国から来た。通してほしい」
淡々と語る顔を睨んでいた青年だが、やがて小首を傾げ、さらに目を丸くした。
「お前…………ひょっとして31番か!」
「やはり25番か」
え、と固まる一行が反応するより先に、25番と呼ばれた青年は相好を崩した。ずんずん歩み寄り、ハニーの肩を鎧の上から叩く。
「やっぱりかァ! 今までどこ行ってたんだよ、この野郎!」
「少しな。25番は、ここの門番か職員か?」
「おう! あと、今はウェイドな! ウェイド・バッキャリー! いやぁ、あのチビがこんなデカくなって冒険者やってるとはなァ! 立派な鎧まで着ちまってよォ!」
「そうか。ちなみに、俺はハニー・ヨーグルで通している。そちらで呼んでくれ」
「……ッハハハハハハハハ!」
「どうした」
「おまっ、お前が『ハニ-』!? 似合わねぇ~! だ、駄目だ、腹痛ぇわ!」
腹を抱えて大笑いする青年――ウェイドに肩をすくめるハニーに、ようやく問いかける。
「えっと……知り合いか?」
「昔の奴隷仲間だ」
冷静な返しに再び目を見開いていると、彼は「言っていなかったか」と一呼吸おいて、
「俺はこの街の出身だ。物心ついた時には暮らしていた、と言った方が正しいが」
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