第6話 楽園の罠Ⅱ

 魔域に踏み込んだ時に特有の、地面と五感が消え去るような感覚に、反射的に目を閉じる。程なくして、瞼の向こうに光を感じるが、

「いきなりだけど構えろ、ハニー!」

 目を開くより先に、耳にウィリアムの声が突き刺さった。抜刀した大剣を盾のように構えつつ、状況把握に努める。

 彼らが立っているのは、半壊しながらもそびえる古城の庭園だ。一面、靴底が浸る程度の水に沈んでおり、あちこちに生い茂る水草の合間に、抜けるような青空が映っている。日差しも風も暖かく、足元の水も動きを阻害するほど深くない。極めてのどかだ。

 目の前で唸り声を上げる怪物さえいなければ、の話だが。

「――臥薪嘗胆」

 殿しんがりを務めた自分の他は、すでに臨戦態勢に入っている。その最前で獣変貌するイロハの視線の先で、四足獣が三頭、威嚇の構えをとっていた。

 見た目は大柄な狼だが、絶え間なく腐敗と再生を繰り返し、常に血と体液で濡れる体表は異様と言う他ない。こちらに一歩踏み出すたびに、脚の皮膚と肉がとろけるように腐り、水面に落下している。にもかかわらず、苦悶の声も上げずに闘志を燃やすことができるのは、やはりこの世の生物ではないからだろうか。

「魔神か」

「はい。テラービーストです」

 答えるアリエッタは声も表情も固いが、無理もない。テラービーストのおぞましい外見は、正視に耐えるものではないからだ。

 しかし、逃げる訳にはいかない。すでに逃走できる間合いではないし、探索の妨げになる要素を放置するなどもっての外だ。幸い、周囲に他の魔物はいないようだから、ここで斬り捨てるのが妥当だろう。

「ウィリアム。狙えるか?」

「おう。ていうか狙ってるわ、っと!」

 言葉が終わらないうちに、金色の光を纏った太矢が飛んでいく。肩口に突き刺さると同時に、内部で刃を展開する一矢を受けた一頭目が、たまらず体をのけぞらせた。すかさずイロハが懐に飛び込み、腐肉もろとも首を断つ。

 がら空きの彼女の腹へ、猛然と二頭目が突っ込むが、

「我が声に応じて来たれ、紫甲しこうの盾持ちよ!」

 アリエッタが呼び出した、巨大なアルマジロのような魔神――アルガギスが立ちふさがった。毒をはらむ牙を甲羅で弾くと、野太い爪を振りかざし、相手の頬肉を削ぎ落とす。

 頃合いと見て、懐の騎獣スフィアを起動した。

「行くぞ、サイバーリザードMk-Ⅱマークツー

 応えるように現れたのは、本国での改修を終えたサイバーリザードだ。I:2アイツーと一緒に背に飛び乗り、大剣を構える。

「I:2」

『了解! 吶喊します!』

 力強く応じて駆け出したサイバーリザードが、アルガギスと組み合うテラービーストに襲いかかった。太さを増した鋼鉄の尻尾が、鞭のようにしなりながら、倒木さながらの衝撃で叩き伏せる。

 血と腐肉をまき散らし、動かなくなる二頭目を視界の端に捉えつつ、三頭目に向き直る。一回転したばかりの騎獣は隙だらけと見たか、最後の一頭となったテラービーストは、血の混じった唾液をこぼしながら駆けてきた。あまりに凄絶な容貌だが、ハニーはひるまない。淀みない動きで大剣を振り上げる。

『武装帯電システム、起動!』

 刹那、騎獣の動力炉から溢れたマナが、鋭く爆ぜる雷となって大刀に絡みついた。止まろうとする素振りさえない敵を見据え、細く息を吸い、吐く。

「ッ!」

 見舞った袈裟斬りは目測どおり、テラービーストの爪と牙がこちらに届くより早く、その肢体を両断した。


 ***


「ふぃ~。お疲れさん」

 クロスボウをたたみ、背負いながら仲間たちを労う。真っ先に笑顔で返したのはイロハだ。

「うむ! 毎度のことながら見事な射撃、感服にござる!」

「……イロハって褒め上手だよなぁ」

「? そうでござるか?」

「おう、いいことだぞ」

 思わず頭を撫でていると、魔神を送還したアリエッタ、簡易メンテナンスを済ませたハニーも集合する。

「みなさん、お怪我はありませんか?」

「アリエッタ殿と魔神のおかげで無傷でござる!」

「他の敵も“奈落の核アビスコア”も見当たらねぇし、とりあえず入るか?」

 目の前の城を指して言う。城の周りは一面の湿原で、建物はおろか山も森もない。唯一のランドマークの探索は避けられないだろう。

「そうだな……」

 ぴったり三秒、提案に腕組みして黙り込んだ後、ハニーはアリエッタに尋ねる。

「さっきの魔神の脅威度は、9相当か?」

「個体によりますが、8程度だと思います」

「わかった。慎重に行くぞ。例の蛮族が潜伏している可能性もある」

「勝って兜の緒を締めよ、というヤツでござるな! 承知!」

「? イロハ、兜かぶってねぇじゃん」

「ウィリアム殿、これは諺でござる。あのー、アレ、勝利の余韻に浸るあまり装備や所持品を忘れないようにせよ、というアレでござる!」

「……この場面で使う諺なのか、それ?」

 小首を傾げつつ視線を走らせる。アリエッタが苦笑しているのを見るに、たぶん意味を間違えているのだろうな、と思った。




 巨大な門を開いた先には、どういうわけか、いきなり玉座の間があった。

 崩れた天井と最奥の壁から、青い空と、地平線まで続く湿原が見える。左右の壁際には甲冑が並んでいるが、いくつかは倒れて破損していた。

 静寂に包まれた部屋には、おびただしい量の血痕と、汚れながらも威厳を放つ玉座と、

「…………うん?」

 そこに腰かけ、古めかしい装丁の本に目を落とす男がいた。

 無造作に結われた黒い長髪。ハーヴェス王国では見たことのない、ゆったりとした黒い服。どこか異国めいた雰囲気を纏う彼は、ふと顔を上げ、

「おや。これはこれは……」

 こちらを――否、アリエッタを見て、もともと細い狐のような目をさらに細めた。いたって穏やかな笑顔のはずなのに、全身の肌が粟立つような怖気を感じて、反射的に身構える。

「おっと、失礼。こんにちは。素晴らしい読書日和ですねぇ」

 絡みつく濡れ髪のようなものから、燦燦と輝く太陽のようなものへ。

 笑みの印象はがらりと変わったが、内側で蠢く殺意と嗜虐心は、微塵も隠せていなかった。


 ***


 笑みを向けられた、と意識した途端、形容しがたい寒気に体が震える。思わず両肩をかき抱くアリエッタの前に、サイバーリザードが立ちはだかるように移動した。次いでハニーが淡々と問いかける。

「何者だ」

「おや、重ねて失礼をば。わたくし、名をドゥーシェと申します。以後お見知りおきを」

「ここで何をしている」

「釣りです。わたくしの数少ない趣味の一つでしてねぇ」

 朗らかに微笑みながら答える男――ドゥーシェを、努めて冷静に観察する。

 これといって特徴のない中肉中背。筋量は並み。持ち物は手にした一冊の本のみで、武器はおろか魔法の発動体も見当たらない。服の中に隠し持っているのかもしれないが、だとすれば大型武器の使い手という訳ではないだろう。

(この人……)

 ただ者でないのは確かだが、どう見ても脅威度9に相当する猛者とは思えない。ハニーやイロハなら素手でも殴り倒せるのではないか、とすら思ってしまうほど強さを感じ取れないのだ。

 アリエッタの当惑を知ってか知らずか、ハニーはゆっくりと、言葉を選びながら対話を続ける。

「この血は、ここに入った蛮族のものか」

「ああ……お恥ずかしい話ですが、はい。こちらで魔域を用意し、簡易な前線基地にさせようと派遣したのですが、突如として魔域に呑まれ混乱、そして恐怖する様を見て辛抱たまらず……我ながら、我慢弱い幼子のようで恥じ入るばかりでございます。ええ」

(…………え)

 何か、とんでもないことを語られた気がする。

 やけに理解の遅い頭で、懸命に彼の言葉を咀嚼する間に、ハニーが重ねて問いかけた。

「……釣りに来た、と言っていたな。釣れたのか?」

「いいえ――ちょうど針にかかったところでございます」

 わずかに、しかし確実に変わった声音に、全員が総毛立ちながら武器を構える。

 冒険者四人の臨戦態勢を前にしても、ドゥーシェは余裕の笑みを崩さない。ゆらりと立ち上がり、懐から一振りの短剣を取り出す。光を一切反射しない漆黒の塊。まぎれもなく“奈落の核”だ。

「ご所望はこちらでしょうか。見たところ、ハルーラの神官はおられないご様子。攻略するにせよ脱出するにせよ、お求めになるのは道理でしょうねぇ」

 まるで世間話でもするように朗々と言いつつ、細い指を軽快に鳴らす。彼の眼前の空間が裂け、黒い洞穴が三つ現れた。

「ですが、わたくしも釣りに来たのです。釣果ゼロで帰る訳にはまいりません」

 ずるりと、そこから這い出てきた魔物を見て、アリエッタの顔から血の気が引く。全身を結晶で覆われた四本腕の怪人が二体、つる植物が絡み合ったような体を持つ仮面姿の二刀使いが一体。直接見るのは初めてだが、他ならぬアリエッタが知らないはずがない。

「せっかく、こうして……我々の邪魔をする雑魚が、針にかかってくれたのですから」

 セラッサルーイと、ルンゼマーゼ。

 自分たちの手に余る高位の魔神の向こうで、笑顔が冷たく輝いていた。

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