第2話 水路に蠢くものⅣ
「そうそう。衛士隊に引き渡した例の男、ちょっと調べてきたわ」
“奈落の魔域”を根城にしていた男は、地上へ連行し、衛士隊に引き渡した。洞穴の書物や資料を見るに、男は
ただ、彼が首から提げていたもう一つの聖印については、最後まで何も分からなかった。これを気にしたアリエッタが調査を頼んでいたのだ。
「やっぱり奈落教の信者だったみたい。世も末ねぇ」
「奈落教?」
「ラーリスとは違うのでござるか?」
山奥で育ったウィリアムと、田舎で育ったイロハが、そろって首を傾げる。宗教方面に明るくないからか、ハニーも無反応だ。分かっているのはアリエッタだけだと見抜いてか、若き支部長は説明してくれた。
「奈落そのものを礼賛する新興宗教よ。出所も開祖も不明だけど、大破局の後から世界中に信者を作ってる。教義の地域差や個人差が激しくて、あんまり統一感ないんだけど、『奈落は大いなる存在が人々にもたらした試練である』っていう考え方は共通みたい」
改めて恐ろしい思想だと思う反面、大破局直後だからこそ、そういった考え方が生まれたのだと想像もできる。“奈落の魔域”や、そこから湧き出た魔神がいたから、迫りくる蛮族軍から逃れられた事例もあったはずなのだ。
「信者の数は? あまり多くなさそうだが」
「世界全体で1,000人にも満たないと思うけど、熱心な信者ほど馬鹿なことをしでかす傾向が強いわ。今回のように、魔域の番人を気取って居座るケースも、何度かあったらしいし」
返答を受けてもなお、ハニーの反応は鈍かった。常に自分の信念を軸に生きる彼は、宗教や説法に「そうか」以上の感想を持てないのかもしれない。
と、ここでネサレットが手を打って立ち上がった。
「とにかく、今日もお疲れ様! 報酬の支払い手続きなんかは、いつも通りこっちで済ませておくから。次の依頼に備えて、英気を養ってちょうだい!」
そう言って、背もたれに掛けてあったエプロンを身につける。これから夕食の準備に取りかかる、というサインだ。
「本当にお手伝いしなくて大丈夫ですか?」
「いいのいいの! みんな冒険終わりで疲れてるでしょ? こっちはオスロットくんに手伝ってもらうから、のんびりしてて!」
「そういえば、オスロットさんは明日からどうなさるんですか? またホームレスに戻るというのは、さすがに……」
「ああ、そこは安心して。ジンさんに相談したら、住み込みで働かせてやる、って言ってくれたから。オスロットくん、前職は割とお高い店のコックさんだったらしいわよ?」
「へー。人は見かけによらねぇもんだ」
「なるほど……どんな料理が出てくるのでござろうかぁ?」
さらりと暴言を吐くウィリアムと、早くもよだれを垂らすイロハ。二人の声に覆いかぶさるように、店の奥からオスロットの声が飛んでくる。
「嬢ちゃん、悪いが手ぇ貸してくれねぇか? 俺ぁ火が苦手でね」
「そりゃクビにもなるわ」
ため息をつくウィリアムの横で、だから葉巻に火をつけなかったのかな、などと想像するアリエッタだった。
***
湯気を立てるポットから、ゆっくりとカップに紅茶が注がれる。最後の一滴がしたたり落ちるのを見ると、すぐさまミルクを投入。紅茶の琥珀色に、じんわりと柔らかな白がほどけていく様に見惚れていると、そのカップを差し出された。
「出来たぞ」
「はい。いただきます」
「ハニー殿。拙者も、拙者もいるでござるよ?」
「分かっている。少し待て」
急かすイロハを制しながら、ハニーが手早く二杯目を淹れる。続いてウィリアムと自分の分、そしてイロハの二杯目を淹れ終えると、カウンターの奥からこちらに戻ってきた。
「んは~、沁みるでござる」
「本当に美味しいです。どなたから教わったんですか?」
「ギルドマスター――本部長の淹れ方を見て盗んだだけだ」
「…………」
のほほんとした会話に、ウィリアムだけが入ってこない。魔動機の照明を反射する紅茶を見つめながら、時折こちらの様子を窺うように視線を走らせている。
何か言いづらいことでもあるのだろうか、と想像していると、
「その、何だ……今日は悪かったな、色々」
指をもじもじ擦り合わせながら、意を決したように口火を切った。
“奈落の魔域”の最奥で、我を忘れて怒鳴ったことを指しているのだろう。なんとなく察したのは他の面々も同じようで、口々にフォローする。
「お気になさらないでください。腹を立てて当然でしたから」
「うむ。むしろ言いたいこと全部言ってもらえて清々したでござる!」
「お前が思ったことだ。好きにすればいい」
「……おう」
ほっとしたような、気が抜けたような、曖昧な表情と声音で呟いてカップを傾ける。そうして喉を潤してから、不意にアリエッタに尋ねてきた。
「なあ、アリエッタ。“奈落の魔域”の崩壊に巻き込まれると、どうなるんだ?」
「それは……“奈落の核”を破壊した後に、ですか?」
首肯され、少しだけ考える。
実のところ、ウィリアムの疑問には専門の学者でも答えられない。魔域の崩壊に巻き込まれ、生還した人物がいないからだ。そのまま奈落本体に飲み込まれると言う者もいれば、世界のどこかに吐き出されるのではないかと考える者もいるが、はっきりした答えは出ていない。
「分かりません。おじ様にも答えられないと思います」
「……ま、そうだよなー」
いつものように飄々と、掴みどころのない顔に戻って独り言のように言うと、ミルクティーをすすって息をつくウィリアム。眼力もいくぶん和やかになったように見える。
「誰かー! 一人でいいから手伝ってくれなーい?」
「あ。はーい! すぐ行きます!」
そこに飛び込んでくる呼び出しに、誰よりも早く応じて席を立った。他の三人に「座っていてください」と目配せし、小走りに厨房に向かう。
道中、昨日のウィリアムの言葉が脳裏をよぎる。
『家族を探すためだよ』
『どこで何をしてるのか、そもそも生きてるのか死んでるのか……何も分からねぇんだけどな』
「…………」
ウィリアムは、後者であってほしいと願っているのかもしれない。
それ以上は推測も想像もせず、料理の乗った皿を仲間のもとへ運ぶことに集中した。
***
営業時間を過ぎた『
「このワイン美味ぇな。どこのだ」
男の方はジョージアだ。赤ワインが注がれたグラスを、目の高さに掲げて揺らしている。
「ノーランド教授からいただきました。元教え子さんが出したお店で買ったそうです。ほとんど教え子自慢ですよね」
「ふぅん」
ネサレットに興味なさそうに返すジョージアだが、口調とは裏腹に、赤い液体を見つめる目は真剣だ。どれほどの値打ちがあるのか、品定めしている。スカウトの性だろうか。
つまみのソーセージを頬張り、肉汁を堪能してから、今度はネサレットから切り出す。
「ジョージアさん」
「ギルドの金には手ぇつけてねぇぞ」
「そういうのじゃなくて。今回はありがとうございました」
「おいおい、明日は槍でも降ってくんのか? 覚えのねぇ礼なんざ――」
「ジョージアさん、下水道に魔域が出現してる、って知ってましたよね」
一瞬にも満たない刹那、表情を凍らせたジョージアは、愉快げに唇を吊り上げる。
「根拠は?」
「靴です。昨日の朝、ここに来たジョージアさんの靴にはヘドロがついていました」
人から情報を集めるうえで、身だしなみが与える第一印象は重要な武器になる。それを誰よりも心得ているジョージアが、靴を汚したまま出歩くはずがない。おそらく、一通り夜の街をぶらついた後、手に入れた情報をもとに下水道に忍び込み、偵察したのだろう。
「危険度も計測したうえで、ウチに依頼を持ち込んだんですよね。今のハニーくんたちに難易度ぴったりとか、さすがに出来すぎですし」
「聡すぎる女はモテねぇぞ。適度にアホになるか、気づいてないフリでもしてみな」
「生憎、うつけを演じてまで落としたい男がいないので」
それもそうだ、と笑うジョージアは楽しげだ。ネサレットの推論は正解だったらしい。
「目的は何です? 悪いことではなさそうですけど」
「決まってんだろ。箔をつけるためだ」
「箔?」
「人里の地下に魔域が出現するなんざ、滅多にないレアケースだ。今回の達成報告は、間違いなく魔術師ギルドと関連団体の目に入る。あいつらの名前を覚える物好きも、一人か二人はいるかもしれねぇ」
「……ずいぶん回りくどいことしますね」
「魔域を見つけたのも、それを解決したのもあいつら――あいつら自身でさえそう思ってなきゃ意味がねぇんだ。多少面倒でも手順は踏むさ」
ガタ、と椅子を鳴らして、小柄な男は立ち上がった。策略家の眼光は瞳の奥に押しやり、人のいい遊び人の眼差しで覆い隠している。ワインをグラスで三杯は飲んだはずだが、顔色に変化はない。
「ご馳走さん。ノーランドのおっさんにも礼言っといてくれ」
「どこ行くんですか?」
「ウィルソンのバー。紹介した娘が今日から客引きするっつーから、様子見に」
「もうウチの名前でツケないでくださいね」
ネサレットの何度目かの小言に、ジョージアは不敵に笑って店を後にした。
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