第2話 水路に蠢くものⅠ

「ふぅ……」

 『十字星の導きサザンクロス』ハーヴェス支部の屋上で、イロハ・ニルヴレンは深呼吸し、獣変貌した。

 時刻はまもなく午前六時。早朝だけあって、普段なら大量に干されている洗濯物はない。自分以外に誰もいない殺風景な空間の隅で、姿勢を低く構える。ストレッチとスクワット、素振りで火照った体を、汗の滴が伝うのを感じる。

 どこか遠くで、ヒバリが朝を告げた直後、


 ティダン神殿の大鐘楼が鳴ると同時に、全力で地を蹴った。


 屋上の端から端を一往復したところで、二度目の鐘。すかさず踵を返してもう一往復。午前六時を知らせる鐘が鳴りやむまで、合わせて六回。屋上をいっぱいに使った全力疾走を繰り返す。

 六本目のダッシュを終えたイロハは、

「ハァッ……ハァッ……ハァッ……!」

 ゆるゆると歩きながら、懸命に息を整えた。長い舌をだらりと垂らし、大鐘楼の残響に耳を傾ける。

 ようやく呼吸が落ち着いたところで、桶に汲んでおいた井戸水に顔を突っ込んだ。幾度か喉を鳴らしたら、残りは頭からかぶって身震いする。水を払い、深呼吸を一度挟んだ頃には、もう頭は獣のそれではない。幼さの残る顔をタオルで拭き、力いっぱい伸びる。

(やはり、肺が鈍っているでござるな……)

 里にいた頃は、あと十秒は早く息を整えられていたはずだ。息切れ、すなわちバッドコンディションを乗り越えるスピードが落ちたなど、師匠に知れたら大目玉だろう。ハーヴェス王国に到着するまでの二週間、あまり鍛錬できなかったツケだろうか。

(明日から走り込みもすべきでござるな。うん)

 決意を新たにしたところで、ぴくりと鼻が反応する。ネサレットとアリエッタが、窯に火を入れたようだ。じきにパンが焼ける香ばしい匂いがしてくるだろう。

「こうしてはおられぬっ」

 タオルと桶を引っつかみ、階段を駆け下りる。それまで鍛錬のことを考えていたはずの頭は、大衆浴場で汗を流し、着替え、最速で店に戻ることだけを考えていた。


 ***


「では、アリエッタ殿は自分の来歴を知らないのでござるか?」

「はい。なんとなく『周りからアリエッタと呼ばれていた』気はするのですが」

 カウンター席でマッシュポテト(朝食の残りである)を頬張りながら尋ねるイロハに頷き、アリエッタ・ノーランドはカップを傾けた。まろやかな茶葉の甘味に、頬を緩めながら続ける。

「いつジェニーと契約したのか、どうして“奈落の魔域”シャロウアビスの跡地で倒れていたのか……四年前におじ様に保護していただく前のことは、何も分からないんです。おじ様は『気にする必要はない』とおっしゃって、とても良くしてくださったのですが、どうしても気になって」

「なるほど。それを知るために冒険者になったのでござるか」

「はい」

 国外に出ることも頻繁な冒険者なら、自分のルーツに触れる機会も来るかもしれない。その程度の可能性でしかないし、危険と隣り合わせの職業であることも承知している。実際、兄や姉――ノーランド教授の教え子たちの中には、反対する者もいた。

 それでも、知りたいと思った。自分は何者なのかと、世界に問うてみたくなった。切々と訴える自分を送り出してくれた養父の、柔らかい笑顔が胸に去来する。ほんのひと月ほど前の話だというのに、ずいぶん遠い昔のことのように思えた。

「アリエッタ殿なら、いつかきっと分かるでござるよ。まあ根拠はないのでござるが」

 しみじみ思い出すアリエッタに、マッシュポテトを紅茶で流し込みながら言うイロハ。いつもと同じ、天真爛漫を形にしたような笑顔だ。

「イロハちゃんは、どうして冒険者に? やっぱり修行ですか?」

「うむ。コウゲツの里には、成人を迎えた者に進路を選ばせるしきたりがあるのでござる」

 皿の隅に残っていたパセリまで平らげると、ぱん、と両手を合わせて(彼女いわく「ごちそうさま」という意味らしい)言葉を続ける。

「里に残って魔神と戦い続けるか、里を出て修行を積むか……拙者は出る方を選んだのでござる。里は馴染みの者たちに任せておけば安泰でござるし、外の世界を見聞きしたい欲の方が強かったでござるから」

「魔神……イーヴ信仰が盛んな場所なんですね」

「いかにも。イーヴ神かハルーラ神、どちらかの信徒が大半でござるな。ああ、でも極端な教えは受けておらぬでござるよ? 魔神は滅ぼすべき敵でござるが、それに関わるすべての者が悪党というわけではない、と教えてもらったでござる」

 添えられた一言は、アリエッタの立場を慮ってのことだろうか。今さら彼女の一挙手一投足におびえはしないが、こうして改めて言葉にしてもらうと、やはり安堵する。

「二人ともしっかりしてんねぇ~。おじさん眩しくて直視できねぇや」

 と、イロハの隣から、素直に感心する声が届いた。昨日買ってきたばかりのマギスフィアを侍らせ、コーヒーを味わっているのはウィリアムだ。二人に紅茶を淹れた後、イロハの隣の席に掛け、じっと会話に耳を傾けていたのだ。

 ちなみに、ハニーはライダーギルドに出かけていて不在である。昨日の朝、彼が淹れてくれたミルクティーがたいへん美味しかっただけに、ちょっと残念に思うアリエッタだった。

「そう言うウィリアム殿は、どうして冒険者になったのでござるか?」

「俺? まあ大した理由じゃねぇけどさ……」

 イロハの眼差しが、あまりに無垢でまっすぐだったからだろう。やんわり誤魔化そうとする雰囲気を一瞬漂わせたウィリアムだが、根負けしたように肩をすくめた。

「家族を探すためだよ」

「家族、ですか」

「ああ。どこで何をしてるのか、そもそも生きてるのか死んでるのか……何も分からねぇんだけどな」

 さらりと言ってのける彼の微笑に、どこか苦いものが混じるのを、アリエッタは見逃さなかった。かける言葉を見失ってしまうが、沈黙が流れるより先に、ウィリアムが先を続ける。

「このギルドの母体――マスターたちが言うところの『本国』ってのは、海の向こうの大陸にあるそうでな。そんだけ広いネットワークがあるなら、入ってくる情報は他のギルドの比じゃねぇだろ。だから来たんだ」

「最初からこちらのギルドを目指していらっしゃったんですね」

「そうでもなきゃ見つかんねぇだろ、ここ」

 そんなことは、と否定しようとしたアリエッタの脳裏に、この近くまで案内してくれた渡し屋の男性の顔がよぎる。口にしたのは「そんなところに冒険者ギルドなんてあったっけ?」という主旨の言葉。どうしよう、否定材料がない。

 内心を隠すようにはにかんでいると、ウィリアムは不意に立ち上がった。

「はいはい、年寄りの長話はここまで。ちっとマスターの様子見てくるわ」

 店の奥を指しながら言う。少し前、ギルドマスターのネサレットが「食後の軽いデザートでも」と厨房に引っ込んだのだ。

「でしたら、私も――」

「狭い厨房に何人も行ったら邪魔だろ? ここは俺に任せて、ゆっくりしてな」

 申し出るアリエッタを制すると、ウィリアムはそそくさと行ってしまった。気遣いの裏側に、これ以上自分のことを話したくないという、ささやかな拒絶が垣間見えたのは気のせいだろうか。

「みんな、何かを探しているのでござるなぁ」

 しみじみと独りごちるイロハと話を続けようとすると、ドアベルの乾いた音。

 続けて、

「あ゙~~~、気持ち悪ぃ~~~…………」

 世界中のマイナス感情を集め、煮詰めたような声が聞こえた。

 何事かと目を向けると、のそのそと人間の青年が歩み寄ってくる。見た目は二十代半ばといったところだが、身長はイロハと同じくらいと、やや小柄だ。黒い髪は所々跳ね、同じく黒い瞳にも覇気がない。

 目を丸くする二人の姿が見えていないのか、男性は倒れこむようにカウンター席についた。うわっ、と舞い上がる酒の臭い。反射的に水を差し出したアリエッタには目もくれず、男性はコップをひったくり、中身を一息に飲み干す。

「っぶぁ~……ったく、あのクソジジイ。安いシードルでぼったくりやがって……」

 ぶつぶつ何か呟いた後、ようやく自分以外に人がいることに気づいたらしい。当惑する女子二名を数秒、じっくり観察した男性は、

「誰だ、お前ら?」

 こっちのセリフだ、と言いたくなるような質問を口にした。

(……イロハちゃん、お知り合いですか?)

(知らないでござる。というか酒臭いでござる……)

 目配せだけで語らうが、イロハも心当たりがないようだ。警戒と困惑がない交ぜになった顔をしている。

 どう返答すべきか、あれこれ考えを巡らせていると、

「あー! ジョージアさん、また朝まで飲んでたんですか!」

 店の奥から、糾弾と甘い匂いがやって来た。ネサレットがパンケーキの皿を手に歩いてくる。いつも快活に笑っている目が、今は三角になっていた。

 一方、叱責を受けた青年――ジョージアは、うんざりしたようにカウンターに突っ伏す。

「うっせぇな~……いいだろ別に。俺の金なんだから」

「店の名前でツケないでください、って言ってるんです。それで評判落ちてるところもありますからね? 分かってます?」

「まあまあ、マスター。仕事終わりに飲みたくなるのは人情ってもんでしょ」

「お。分かってんじゃん、ウィリアム~」

「けど、程々にしろ、って意見には俺も賛成だぜ? 今からそんな調子じゃ、40手前で肝臓死んじまうぞ?」

 ネサレットの後ろから現れたウィリアムも、パンケーキ片手にフォローと忠告を入れる。この二人が知っているということは、ギルドの関係者だろうか。

 首を傾げるアリエッタに気づいたか、ネサレットが咳払いした。

「ごめん、紹介するわね。こちらはジョージアさん。ウチ専属の探し屋さんよ」

 探し屋とは、遺跡や蛮族の拠点を見つけ出し、その情報を売る専門家のことだ。国家の密命で動く者もいれば、冒険者ギルドを中心に出入りする者もいると聞く。しかし、特定のギルドと専属契約を交わしている探し屋というのは、少なくともアリエッタは初耳だった。

「で、ジョージアさん。こちらはアリエッタちゃんとイロハちゃん。こないだウチに入ってもらった新入りさんよ。とっても頼りになるんだから!」

「へーへー。せいぜい早死にしねぇように気をつけな、っと」

 ジョージアは気のない返事をし、懐から紙の束を取り出した。遺跡に関するスケッチとメモのようだ。それを見るなり、ネサレットの眼光がギルドマスターのものに切り替わる。

「どうでした?」

「二つとも『闇を討つ銃弾セイント・ブリット』の連中が再調査に入った後だ。もう何も残ってねぇだろ」

「そうですか……さすがに早いわね」

「代わりと言っちゃなんだが、渡し屋ギルドから依頼をもぎ取ってきた。南部の下水路に毒虫が大量発生して、一部が地上まで湧いてるそうだ。原因調べて取り除いてくれ、ってよ。ギルドと顔を繋ぐいい機会だ、そいつら派遣してやれ」

 早口で言い終えると、重たそうに立ち上がる。

「どこ行くんですか?」

「風呂入って寝る。夜まで起こすなよ」

「女湯を覗いちゃだめですよ」

「んなことに必死になるほどガキじゃねぇっつの」

 心底嫌そうに言い残し、ジョージアは店を後にした。ドアベルが鳴りやむと同時に、店内が静まり返る。

「何というか……嵐のような方ですね」

「むぐむぐ……拙者には洪水のように見えたでござる」

 言葉を絞り出すアリエッタと、いつの間にかパンケーキを食べ始めているイロハ。二人に頭を下げるネサレットは、肩をすくめながら苦笑する。

「デリカシーのない人でごめんね。酒癖が悪いことを除けば、有能な人なのよ」

「はあ……」

「確かに只者ではないでござるな。ふらついているようで、体の芯がちっともブレていなかったでござる」

 意外と(などと言ったら本人に失礼だが)人を見ているイロハの見解を聞きながら、ネサレットが持つ依頼書に目を落とす。ちらりと見えた報酬の欄には、「一人1,500G」と記載されていた。

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