第53話 共和
ジーノ・ロッセリーニはチュニックの上にいつもの灰色のマントを着て、控えの間に座り込んだまま待機している。既に小一時間は経っていた。
いつもながら放置されているなと思ったが、気にもならなかった。
目の前にタペストリーが掛けられていて、ユニコーンと戯れる処女の絵が描かれている。ユニコーンが懐くのは無垢な乙女のみ。であるならば、二重の意味で自分には縁遠くなったものだと思った。
今更ながら男であるし、当たり前ながら無垢でもない。
それどころか、今となっては罪人と言ってもいい。
あの日橋の手すりの上で、奇妙な仮装をして蹲っている自分自身は心底滑稽だと思った。何故こんな格好をしたのか。アルベルトは何をしたかったのか。毛ほども想像できない。
騎士装束でやってきたアルベルトが自分に気が付いたのは、おそらく本当に手を伸ばせば、届く所までだった。
おそらく、自分自身の人狼の仮装を目にして、隠蔽したかったのか迷わずまっすぐに向かってきた。
顔を黒く塗ったジーノの青い目に気が付いたのだろうが、さほど気にしたように見えず、ローブに手を伸ばしてきたので、そのままアルベルトを抱え込み、真っ暗な闇の中に身を躍らせた。
もしかすると、ただ狼王のローブが欲しかっただけなのかも知れない。
「お待たせいたしました」と言う声で、顔を上げる。
目の前にはいつもの侍従が控えていた。心なしか青ざめて見えた。
立ち上がり奥の間に誘われる。扉に手を掛けた所で「……あまり長い時間はご遠慮ください」と呟かれた。
控えの間と異なり、日当たりのいい暖かい部屋だった。
厚い絨毯が敷き詰められ、奥まったところにある暖炉に火が入っていた。
大きな寝台がありアルフレッド・ロッセリーニが横たわっている。
「……久しぶりだな、ジーノ」
「父上」
アルフレッドは片手を振って、周囲に取り巻いていた男たちを追い払った。おそらく医者なのだろう。厚手の敷布に包まれた体を起こした父アルフレッド・ロッセリーニは一回り小さく見える。
「いつからですか?」
「最近だ。祭りの前だったかな。腰が痛かったんで医者を呼ん途端に、悪くなった。ヤブだったかな」とアルフレッドは、他人事のように言った。
「あのな。あらかじめ言っておくが、俺はぼつぼつ死ぬよ」
ジーノは、改めて父の顔を見る。
こんなに痩せていただろうか。
アルフレッド・ロッセリーニは死相の浮き出た顔に、微かな微笑みを浮かべて、ジーノを見返していた。
「さて、いくつかお前には伝えておく。遺言と思っておけ」
「随分元気な遺言ですね」
「又減らず口を。まずな、俺はこの市領を共和制に移行する」
そう言ってアルフレッドは大きく溜息を付き、頭上にあるロッセリーニ領旗を見た。
「いつからそう思っていたんですか」と辛うじて聞いた。
アルフレッドは「そうだな」と言って腕を組む。手首が露わになりとても痩せている事に気が付いた。
「この構想自体はもう何年も前に思っていた。結局皇帝とその所領を預かる王政の形では時代遅れだと思ったのさ。ヴェネツィアを見ろ。共和制は確かに合議制だから時間もかかるし、金権政治になりやすい。むろん悪いところはある。しかし個人の判断に寄らないがゆえに、その合議が力を生む。そう思ったのだ」
「ほかにこの話を知っている者は?」
「お前の想像通り、アルベルトには言ったよ。それが不味かったのだろう。アルベルトは俺の跡目を継ぎたがっていた。というより、俺になりたがっていた。ショックを受けていたよ。実の父が自分を目指すなと言ったに近い」
アルフレッドはそう言いながら目を強く瞑る。
「話した直後に後悔にした。この話をした時のヤツの顔は忘れられん。すぐに承服できないと反対したよ。しかし奴には新しい共和制となったこの街の中心に立ってもらいたかった。そう言ったつもりだったんだがな」
「憧れだったんでしょう」
ジーノはそう言うのが精いっぱいだった。
この話を聞いたおかげで、延々と理解が出来なかったアルベルトの、何かが一つ理解できた気がした。
「息子二人が迷惑かけたな、ジーノ。だがな。今でも俺はお前を身内だと思っているよ。だからお前には、早々にヴェネツィアに向かってほしい。出来るだけ直ぐだ。共和制を学んで戻ってこい。俺は死んでいるだろうが、その死を隠すようにする。残念だよ。もう少し時間があれば、俺自身の手でそうするんだが」
そう言ってアルフレッドは遂に疲れ切ったように体を横たえた。
ジーノ・ロッセリーニは、あの夜にデュエロ橋の下で起きたことを思い起こす。
抱え込んだアルベルトは思いのほか軽かった。勢いよく橋の外の闇に身を躍らせるのは怖かったが、真っ暗闇であることが逆に良かった。
宙に躍り出て、直ぐに痛いほどに体に食い込むロープを感じて、何度か強く跳ね返された。
反動が収まるとするするとロープが繰り出されて、地面に下ろされた。
ロープを切りアルベルトを探した。
幸いなことに、騎士装束の赤いサーコートは直ぐに目に付いた。大きな岩の合間に挟まるようにして、アルベルト・ロッセリーニは横たわっていた。そして、驚くべきことに生きていた。
「この、薄汚い愚民風情が。狼王のローブを纏って英雄気取りか」
アルベルトは口の端から血を吐きながら毒づいた。
「違うなアルベルト。“英雄”は君だ。君がなるんだ」
ジーノは、両手で抱えられるほどの岩を持ち上げる。
それをアルベルト・ロッセリーニの顔に打ち付ける。特に口の周り。牙を折るように。二度、三度。振り落とすごとに手におぞましい感触のみが残る。
やらなければならない事を、断固たる決意でやる。そう思っていた。しかしこの手に残る感触は忘れる事はできないだろう。殺人者に成り下がった記憶と共に永遠に残り続ける。
「父上。アルベルトを殺したのは僕ですよ」と、ジーノは言った。
「言う必要のない事を言うな。でもな。正直でいてくれてありがとうよ、ジーノ」とアルフレッド・ロッセリーニは、蒼白の顔でそう答えた。
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