第52話 町娘
アニータ・ダッビラがデュエロ橋の中ほどに立って空を見上げると、抜けるような青空だった。
寒さは厳しいが歳が明ければ例年の如く、
石造りの手すりに手を置き、擦れたような跡を指でなぞる。
結局ジーノのプランは思ったより危ないものだったのじゃないか? ロープは丈夫なものを用意した。それはサーカスのお墨付きの物なので、強度は問題なかったのだろうが、本来の用途でもない。
切れるときは切れるし、切れれば命は無かったのだ。
ヴォーリオ家の唯々悲しいだけの片付けが済んだ翌日、ジーノはブガーロ親方とアニータを呼び、これから起こるであろうことに対する計画を打ち明けた。
しかし、計画といえる物だったろうか。アニータは兎に角不満だった。
やろうとしたことは、ある種単純とも言えた。
いずれにせよアルベルトは騎士団を掌握した。城に押し寄せて来ることは容易に予測できた。そこで人狼役を用意して橋の上で待ち受けさせる。人狼役は体にサーカスで使うロープを結び付けて置き、反対側の端は橋の下にいる協力者が保持する。
人狼が本物の化け物ではない事を知っているのはアルベルト・ロッセリーニだけなので、彼だけは突出して襲い掛かって来るだろう。人狼役はそのまま諸共、橋の上から落ちる。
アルベルト・ロッセリーニはそのまま落ちるだろう。人狼役は結び付けて置いたロープで落下を免れるという、乱暴な筋書きだった。
挙句の果てに人狼役は自分がやると、ジーノが言った時に、アニータの怒りは頂点に達した。
「なんで、あんたが落ちる役なのよ。リカルドにやらせなさいよ。そういう軽業は慣れているんだから」
「僕の方がいいんだって。結局アルベルトは人狼の恰好をしたのが僕だってわかれば、ためらわずに襲い掛かって来るよ」
「あんた、斬られて死ぬのよ」
そう言ったアニータに、ジーノは「だからこれを羽織る。これを傷付けはしないよ」と袋に入れた、真っ黒い毛皮を持ち出した。
「狼王のローブですか。なるほどこれに気が付けば、あの方はこれを奪いに来るということですな」とブガーロ親方。
「パパは黙ってなさいよッ。そんなことわからないでしょう。興奮したあのバカ殿が、間際に何するかなんて想像もつかないでしょう」
「ジーノ様、では証人を用意いたしましょう。公証人の先生を目撃者に仕立てておきます。あの方ならば、人狼が出たという言説を支持してくれるでしょう。アルベルト・ロッセリーニは人狼を討ち果たし、自らも命を落とした。その筋書きなのですな」
「人の話聞きなさいよ。怒るわよ」
無視されたアニータが言うと、ジーノは「もう、いいだけ怒っているじゃないか」と困ったように答えた。
アルベルトが騎士団に蜂起を命じたのリカルドから連絡があったのはその翌日だったので、思ったよりも事は早く進んでいると言ってよかった。
すぐに橋上から人払いをしておく。陽が落ちてから動くかどうかは運と言ってよかった。陽が高いうちだったら、人気が無くなっていた橋の上に、アルベルトは不信感を抱いただろうか。
抱くかもしれないが、最早止まれるはずもないだろう。
アニータは橋の反対側に回り、橋の下をみる。
アニータの役割は、アルベルトと騎士団の分離だった。おそらく先頭に立ってやって来るとジーノは予想した。そしてアニータもそれは疑わなかった。
ブガーロ・ダッビラからの合図を受けた男が来る所で、アニータは待ち構え、アルベルトの背後で配下の者に煙幕を張らせる。必要であれば、何も知らない町娘の振りをして、騎士団の前に出るつもりでさえいた。
「……まぁ、そんな必要なかったね」とアニータは思い起こす。
煙幕を張られた騎士共は、簡単に烏合の衆と成り下がって、右往左往し出した。
アルベルトは、どこかでジーノに気が付いたのだろう。剣を抜きもせずに襲い掛かっていった。ジーノは腕力で勝つ必要もなく、アルベルトの体を抱えて橋の上から落ちればよかった。問題になるのは度胸だけだったが、滑り落ちるように落ちて行ったところを見ると、勢いもあったのかもしれない。
騎士二人が目ざとく動いている事が分かったので、アニータは橋の下にいる筈の仲間に姿を消すように合図を送り、姿を消した。
あとは、ジーノの部屋でまんじりともせずに帰りを待ったが、結局ジーノ・ロッセリーニは姿を見せず、翌朝、細かな傷を体中につけて、部屋に転がり込むように帰って来た。
ベットに倒れ込んだので、何も言わずに傷を拭ってやった。
「ありがとう」と両手を包帯で巻かれたジーノが言ったので、「どうなった?」と聞いてやった。
ジーノ・ロッセリーニは疲れ果てたように、
「人狼はもういない―――」と言って、目を瞑り眠った。
―――さて。
アニータは橋の上にできた、縄の擦過痕を足で少し擦り消すと、城に向かう。
橋の上は早くも人通りが戻り始めている。大通りにも商人どもがにぎわい始めていた。
人狼が死んだという噂が広がり始めたのだろう。漸く無事に年を越せると思い始めたのかもしれない。
来年はいい年になるといいのだが。
アニータはそう思う。
そしてあの臆病者のジーノ・ロッセリーニにとってもいい年になるといいのだが。
そう心の底から思った。
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