第50話 墜落

 従士カルロ・ヴァダは久方ぶりの全装備の重さに思わず足を取られそうになりながら、主人である騎士パオロが騎乗している馬の手綱をゆっくりと引いた。



 四列で縦隊を立てて、ロッセリーニ市の目抜き通りをゆっくりと進んでいる。

 数列前にはアルベルト・ロッセリーニ自身が先頭に立ち、馬の歩みを進めていた。

 その後ろに団旗を持った騎士、次の列に副団長クラスの上位騎士。ついで歩みを進めているのがパオロ隊だった。



―――しかしこれは溜まらんな。これじゃ示威行軍だ。

 従士ヴァダは口の中だけで呟く。

 全装備などしたこともないし、することがあれば、それは市外でなくてはならないと思っていた。騎士団がロッセリーニ市を守るための存在ならばそうであるはずだ。

 しかし、実際は市内のど真ん中で稼働できる全騎士が全装備重装で闊歩している有様だ。

 嘶く馬の呼気が白く吹きあがる。

 どの従士も戸惑いながら、逸る馬を抑えながら歩かせることに集中している。



 ようやく始まった夕刻

 寒さも厳しいが、繰り出している市民も多い。

 その市民を威圧しながら歩む騎士団は、さながら侵略者ではないだろうか。

 従士ヴァダは怯える市民の顔を見て、心の奥底のどこかにあった小さな大事な所が傷つけられた思いがした。

 そっと見上げるとパオロも目を細めて顔を青白くしている。決してそれは寒さのみの事ではないはずだ。

 


 我らが命を賭して守るはずの市街、そして城に向けて進軍とはどういう倒錯だ。どうかしている。従士ヴァダは自分自身が子供の時分に駆け抜けた何でもない小道を見て、頭が真っ赤に沸騰しそうな恥辱を感じる。



 いよいよデュエロ橋に差し掛かりそうなときに、前列の先に少し乱れがあり従士ヴァダは足を止めた。

 ―――なんだ。

 目を細めて、居並ぶ騎士の間から先を見る。

 旗持の騎士が馬を返して上位騎士も足を止めた。アルベルトのみが少し突出している。

 その向かう先に、何か黒いものが見え隠れした。



「嘘だろう―――」

 騎乗しているパオロが言い、物見をする様に馬の上で立ち上がるのが見えた。

 従士ヴァダも先を見透かそうとするが、上手く見ることが出来ない。しかしどこからか強い煙が立ち起こり、前を守っていた騎士共がそれを避けようと退いた事で、目の前の光景が一気に広がる。



 「少し前に出よう」と騎士パオロが言ったので、従士ヴァダも引綱を引き前に進める。見えたのは、アルベルト・ロッセリーニが下馬して、橋の半ばにいる淡く光りの辺り何者か―――。

「―――人狼だッ」と、何者かが鋭く叫んだ声を聴いた。

 


 従士ヴァダは思わず手綱から手を放して腰の剣に手を掛けてしまう。

 そして確かに見た。

 黒い毛皮に覆われた人型の何かが、デュエロ橋の欄干にしゃがみ込んでいる。薄く光る欄干の光を背景にアルベルトを威圧している様子が見えた。



 騎士パオロが馬を進めたのに釣られて、思わず従士ヴァダも足を踏みだす。

 アルベルトが剣も抜かずに人狼に襲い掛かるのが見えた。

 背の高いアルベルトの鎧姿が、黒い獣を抱え込むようにする。いや、あれではどちらかと言えばアルベルトが抱え込まれているようにも見える。



―――いかん、落ちるぞ。

 欄干の上にいた獣と鎧姿の騎士は、暫く縺れるように絡み合ったが、やがて暗がりに一体となって墜落していくのが見えた。

 パオロが馬を止めて欄干から橋の下を覗く。

 しかし、個々の端は川べりまでは八ブラッチャ程はある。到底光も届かず闇のままで見通すことが出来なかった。



「どうすれば川べりまで下りられる」とパオロ。

「いや、ここは降りられないんですよ。険しいからここに橋を掛けているんですから、川上、川下どちらかに暫く走れば……」と思い起こしながら答えた。

「しょうがない、急いで回ろう」とパオロが言いながら、浮足立っている上級騎士共を尻目に駆けだす。

「承知しました」と答えながら、従士ヴァダは意外とこの男は騎士には向いているのだなと、少し場違いな事を思った。



 崖が崩れたような、欠け落ちている場所を見つけて降りようとしたが、武装したままの馬を降ろすことが出来なかった。下馬し転げ落ちるようにして、騎士パオロと従士ヴァダは川べりに降りた。



「―――暗いな」とパオロが舌打ち交じりに言った。

 川べりだけあって、大小の石がゴロゴロと転がり足を取られる。

「あっちですな」と、うすぼんやりと光る橋梁を指さした。

「あぁ、全く重装なんて言うからさッ。歩きにくくてしょうがない」とパオロが言う。確かに騎馬を前提とした鎧を着込んでいては、この川べりを歩くには不便するだろう。

「もう、脱いじまっちゃどうですか。どうせこのまま城には行けませんよ」と言い、足甲のバンドに手を掛けて、鎧を脱がすのを手伝う。



 漸く身軽になったパオロは、気鋭の騎士らしく身軽に駆け出していく。

「用心してくださいよッ」と後ろから声を掛ける。

 アルベルトが欄干から落ちたのは見た。だから生死不明だがいるのだろう。

―――だが、いるのはアルベルトだけとは限らない。

「わかっているとも」とパオロは気軽に応じる。

 本当にわかっている者やらと従士ヴァダは思ったが、大人しく後を付いて行く。



 散々躓きながら苦労して歩く、騎士パオロが漸く足を止め、「あぁ、こりゃだめだ」と自棄になったように呟いた。

 追い越してみると、上背のある男の体が河原に横たわっている。騎士装束をしているので、自分でも意外な程動揺しているのが分かった。

 パオロがじっと見ているのは顔部分だった。



―――あぁこれは。

 顔から落ちたのだろうか、アルベルト・ロッセリーニの顔は、顎の辺りから赤黒く潰れ果てている。端正な顔立ちと優美さで知られた、長子アルベルト・ロッセリーニは、最早この世の人ではない事は明らかだった。



「―――いないな」と、パオロが周囲を見渡し小さく言った。橋上でたいまつを掲げる仲間を見つけた様で、見上げて片手を上げて合図を送っている。

「いませんな」と従士ヴァダも答える。



 一緒に縺れて落ちたはずの人狼は、どこまで見回しても、気配一つ感じることが出来ず、すっかりと消え失せていた。

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