第48話 真理
跪き、書棚に額ずいて荒く息を吐いた。目を強く瞑り両こぶしをこめかみに当てた。
あの日、ヴォ―レオ家に遅ればせながらたどり着くと、アニータは既にいて水仙の咲く花壇の前で俯いていた。
ブガーロ親方が、近づいてきて「そっとしておいてやってくださいな」言った。
部屋の中を見て、何があったかを悟った。
衛士を呼ぶように手配をし、アニータを伴って城に戻った。彼女は終始無言だった。瞼が痛々しいほどに腫れ上がっていた。
アルベルトが犯人であるという事を証明する必要はなかった。
なんと自分で「反逆の疑いのあるアンニバーレ・ヴォーリオ卿を誅した」と伝令を回していたからだ。
併せて、騎士団は自分が掌握すると声明を行った。
「それでどうしました」と傍らに立つルイスさんは普段と変わらない言葉で言った。
「城内はひっくり返したような大騒ぎでした。父は出て来ないままだったし、兎に角ヴォ―レオ家の遺体を教会に運ぶ手配をしたり。自分の部屋に戻ったのは真夜中をとっくに過ぎていたと思いますが、そのまま意識を失って」
「ここで意識が目覚めたという訳ですか」
ルイスさんの言葉に頷く。
自分が図書館にいることはすぐにわかった。周りを本に覆われて、本の匂いを感じた途端に涙が溢れた。
あの幸福そうな一家。アンニバーレ・ヴォーリオの善性。可哀そうなイザベルとルシア。気が付くと膝を付いて顔を覆い隠すようにして泣いた。
気が付くと傍に隣に誰かが立ち、それがルイスさんである事もすぐにわかった。
「―――苦しいのですか。佐藤素一」と言われ、一部始終を話した。
話しているうちに少しずつ落ち着きを取り戻すことが出来た。
「未だに分からないんです。何故アルベルトがあぁまで変わってしまったのか。確かにあの人は酷い人でした。でも、どちらかと言ったら体裁とか体面を気にする男だったんです」
「つまり、暴力的ではなかった?」
「暴力的ではあったんです。でも狂ったように人を殺すようなことはなかったですよ。ましてや、子供を殺すなんて」
「想像もつきませんか」
想像が付かないのではなく、そうしたくないのかもしれない。
「人が豹変することを、昔の日本では『狐が憑いた』と表現しましたね」
ルイスさんは平坦な、苦しみも悲しみもない声で言った。たぶん幸福もないのだろう。この終わりのない図書館で延々と真理のみを探す存在には必要な感情ではないのだ。
優雅に書棚から一冊抜き出して、広げながら続ける。
「欧米では、狼憑きとでもいうのでしょうか」
―――狼。
「人狼の伝説は割と広範囲に広がっています。最も盛んであったのはドイツ。古いところで言うとローマ。ただ『博物誌』と著したプリニウスは、人間が狼に成り、そして人間に戻るなどという事はありえないとしています」
「更には、麦芽菌などで麦角菌を摂取してしまい、その結果人格が豹変したり、凶暴な行動をとってしまった人や、狂犬病に罹患した人を狼男扱いしたという表記もありますね。これはもはや病人というべきなのでしょうね」
「何が言いたいんですか、ルイスさん」
―――つまりね。とルイスさんは言った。
「いないんですよ、狼男なんて」と続けた。
「一説によれば、狼男とは中央にいる人間が周辺の人間を差別するためにした表現とも言います。つまり人間です。殺したのは狼男だなどと言った、体の良いごまかしをするべきじゃありません。今、佐藤素一から聞いた話そのものならば、殺したのは狼男などではなく、それはあくまでアルベルト・ロッセリーニでしかない筈です」
「良いですか。怪物なんていない。文字通りいない。いるのは人間だけなのです」
そう図書館を彷徨う男は言った。
「恐ろしい力があるわけじゃ無い。悪魔が憑いているわけでもない。だから佐藤素一。恐れる必要はないのです。どこまで行っても人間に決まっているじゃないですか」
「ただの人間が、気まぐれで子供を殺すっていうんですか」
「そう。いたいけな子供を殺そうが、何百万人殺そうが人間に過ぎません。どんな病気だろうが人格が変化しようが、佐藤素一。それはやはり人間なのです」
「つまり―――どこまでひどい事をしようが、人間だと」
「そう。まるで悪魔の様、人狼の様、鬼の様。どうとでも言えば良い。どれも人間に過ぎません。人間だから遊び半分で人を殺すのです」
手に持った本を書架に戻しながら、ルイスさんは言う。
「逆に言いましょう。悪魔も人狼も鬼もいるとして、それらが人を害するにはきっと理由があるはずです。悪魔は契約だったり、人狼や鬼は食べる為だったりするかも知れません。それらは何らかの文脈の上にある存在です。だからその文脈を外れて存在をする事が出来ない。良いですか。ただ人間だけが無軌道に、無計画に、無分別に人を殺すのです」
そうルイスさんは結論付ける。
「さてジーノ・ロッセリーニは、兄をどうするのでしょう」
ルイスさんが手を腰に回して、まるで小説の筋でも追うように言った。
「あの、人間であるアルベルト・ロッセリーニをどうするのでしょうね。そしてあなた、日本人佐藤素一。もはや肉体もなく、生きているともいないとも言えないあなた。あなたはどうするのでしょう」
ルイスさんはその澄んだ瞳をこちらに向けて言う。
そこには悪意も善意もない。唯々その問いかけを向ける。その瞳を見て自分はこの存在の事をわかっていなかったと思う。
そして、自分佐藤素一がジーノ・ロッセリーニと離れがたいほど意識を共にしていることも自覚せざるを得なかった。
もはやアルベルト・ロッセリーニを放置することはできないと心底思い、そう思う事で漸く―――。
「―――俺は、死んだんですね」と納得することが出来た。
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