第47話 人形

 愛馬は城から邸宅まで、それこそ風のように駆け抜けてくれた。

泡を吹いている馬を何とか落ち着けようとするが、まだ若い馬は目をむき出し首を振って高揚して一向に収まる様子がない。

 騎士とは騎乗するもの。馬は騎士の象徴であり、騎士を構成するそのものでもある。



 つまり自分の気持ちをそのまま写し取っているのだ。

 アンニバーレ・ヴォーリオは、自らを修行が足りないと叱咤した。常に冷静であれと言って歩いている自分が何たるザマか。

 騎士たるもの常に沈着であるべき。しかし気が焦るばかりで全く落ち着ける気が全くしない。

 ―――これで騎士団長が聞いて呆れる。



 鐙から足を抜き、舞い降りて軽く馬の首を撫でてやると、馬は小さく嘶きを漏らした。

 足早に母屋に向かおうとすると、扉に二人見知った男たちが並んでいる。確かにアルベルト・ロッセリーニの供ずれの男達だった。騎士ではない。しかし帯剣をしているのが気になる。



 ふいに腹の底が熱くなるような怒りが沸き上がり「一体どうしたことかッ」と、声を上げた。

 よく似た二人だった。印象に残らない双子のような顔。何故アルベルトがこのようなものを周りに侍らしているのか分からない。



 驚くべきことにアンニバーレの詰問に二人は「―――何事か、とは」と答えた。

「何事か―――だと」

 アンニバーレは反射的に剣に手を掛ける。主人の許しもなくその邸宅の門前にいて何たる言い分か。

「アンニバーレ様。主人であるアルベルト様の意向に逆らい続けた事、もはや看過出来る事ではありません。裁きを受ける時が来たのです」

「さよう、何が有ろうと自らを省みることが涵養。心を改めてお仕えするが良い」



 ―――裁きとはなんだ。

「どけッ。この館はいやしくも騎士を主人とする館。これ以上邪魔立てするようならば切り捨てるぞ」

 アンニバーレ・ヴォーリオは吐き捨てるように言う。

 シンメトリーの男たちがうっすらと口を開くのを見た瞬間、握りしめた拳を叩きつけて倒した。



 扉を開ける。

 豪華な館ではない。アンニバーレも妻のイザベルもそう華美を好まなかった。必要なものはなるべく趣味のいいものを買う彼女に敬意を持っていた。

 彼女が選びに選んだ、カーペットが土足で汚れているのを見て、腹の底から憤怒が沸き上がる。


 進んだ廊下の隅に、小さな人形が転がっているのが見えた。

 階段を駆け上がると、奥の奥、子供部屋の方から小さなうめき声が聞こえて、今度は反対に血の気が引き、手先が冷たくなってしまう。

―――イザベル、ルシア。

 この世で最も大事な二人の名前を呼ぶ。

 今頃アンニバーレ・ヴォーリオは、自分自身を知ることが出来た。



 私は、騎士ではなかったのだ。

 偉そうに騎士団長などと嘯いてなんというザマだ。今の私は単なる一人の夫であり、父に過ぎない。永遠の忠誠が聞いて呆れる。



―――扉を開ける。  

 最初に飛び込んできた色彩は床に零れた赤。

 青い服のイザベルが眼を剥いて天井を仰いている。胸が切り裂かれて赤い血が流れて、胸元をどす黒く染めているのが見えた。

 顔を上げると、アルベルトが子供の寝台に覆いかぶさるように立っている。



「―――なッ。アルベルト卿ッ。何を」

 何をするかと言いたかったが、体がこわばり、口を上手く開く事ができない。

 寝台の上を見ることが恐ろしい。

 何故そんなに静かなのだ。

 男の背中と肩が小刻みに動いているのを見て、いぶかしく思ったが、アンニバーレ・ヴォーリオはアルベルト・ロッセリーニが卑屈な笑い声をあげているのに気が付く。



「一体―――」

「一体だとアンニバーレ卿。一体何だ。なにが言いたい。貴公そんな事を言っていていいのか」とアルベルトが言った。

 ―――なんだこの声は。

 まるで吹き抜ける隙間風のような声でアルベルトが言う。



「王を前に何のざまだ。跪け。そのつもりがないならそうだな―――」と続けながら、顔を向けて振り返るアルベルトの口元が赤く染まっているのが見える。

 アルベルトは勘違いに気が付く。

 イザベルは、剣で殺されたわけではない。

 それに気が付いた途端、真っ青な冷たい憤怒が沸き上がる。



 瞬時に剣に手を掛けて抜く。

「そうだ。剣を抜くべきだよ。アンニバーレ卿」

 アルベルトは、振り返り左手に持っているものを差し出す。

 金色の髪の毛に縁どられた、愛らしい頬はもはや青ざめて果てている。

 活発な未来を湛えていた瞳が、虚ろに見返している事をみて、アンニバーレは叫び声を上げている自分を自覚した。腹部を割かれている自らの娘から目を離せなくなる。



―――何故。

「何故だッ。何故-――」

「何故だろうな。アンニバーレ卿。信じられないだろうが、実は殺す気はなかったのだ。どちらかと言えば人質のつもりだったのだよ。君を操る上での人質としたかったのだ。ただ、美しい夫人とお子様を見た時、それを投げ捨ててしまったよ」

 アンニバーレは天を仰ぐ。

 なぜ、何故だ。死ぬのだったら私が先であるべきだ。誰より、いや、言ってしまおう。アルフレッド・ロッセリーニよりもルシアは健やかに生きるべきだ。



 ゆっくりと膝を付くアンニバーレ・ヴォーリオは、戦うべき理由を失い天を仰いだ。騎士ですらない、そして今や夫でも父でもないただの男は、殺人鬼の前に無防備に喉を晒して天を仰いだ。

 アンニバーレ・ヴォーリオが問いかけた疑問に答える声はなく、アルベルト・ロッセリーニの尖った犬歯から洩れる嘲笑がそれに答えるばかりだった。

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