第37話 青玉
とっぷりと暮れた深夜、月が薄く光り輝いている。
祭りの最中、普段は早寝をしている市民も夜更かししている者が何人かいる。飾り立てられている店に出入りする男どもの往来も多い。
今夜はもう一人くらい客が見当たるかもしれない。
娼館に所属していない私娼のルイーズは、街で行きずりの男を誘って生計を立てている。
元々はルイーズはベネツィアの裕福な商家の長女だった。
父親の勧めに従って別の商家の長男にでも嫁げばよかったのだが、ルイーズはそうはしなかった。
理由は定かではない。ただ嫌だったのだ。
父は怒り、母は泣き。修道女にするべく修道院に送られることが決まった日、ルイーズは下男を誘惑して手駒にし、館を出る手引きをさせた。
出来るだけ掻き集めた身の回りの金目の物を売って旅をしてきたが、それも早々に尽き果てた。盗める時には盗み、盗めない時には体を売った。
自分の美しさを知っているルイーズはあまり安売りをしたくなかったが、流れ流れてロッセリーニ領までたどり着くときには、港の青玉と謳われたルイーズは立派な安娼婦になり果てていた。
ロッセリーニ領に入り込んだ時、大人しく娼館にでも転げ込めばよかったのだ。だが、それも結局嫌だった。定かではない。何が嫌だったのか説明ができない。
父に婚姻を決められたとき同様、ただ嫌だったのだ。
いいパトロンでも見つけ愛人にでもなるというのが今思い描ける一番いい見通しだったが、しかしまずは今、この寒さを凌ぐ男という財布を見つけなければならなかった。
ルイーズは酒場の裏手に回り、酔客を物色する。
余り酔いどれていない男を探す。泥酔している男には行為の最中に吐き掛けられたことがある。本当に人生は下らない。
ふと目の端に黒くうごめく何かが映った。
路地の暗がり。街の灯りも届かない死角の中。
―――もしかしたら、酔いつぶれた男でもいるのか。
ルイーズは気が軽くなる。
酒臭い薄汚い男に体を弄られて嘗め回された挙句に、嘘でも喘ぎ声をあげて、男の臭い体に唇を付けなければならないよりは、眠り惚けている男の懐を一切合切奪う方がはるかに楽だ。
――――早く。
祭りの最中、懐を失敬しようとしている人間は自分だけではない。
ロッセリーニ領の盗賊ギルドに所属する盗賊は綺麗な仕事ぶりで知られているが、すべての盗賊がギルドに所属しているわけではないのだ。
足早に黒い影を追うと、影が千鳥足で暗がりの奥の奥に向かっていく。
―――面倒くさいね。
ルイーズは思う。早々に昏倒してくれればいいのに。酒が足りなければ、逆に誘って酒を飲ませて潰してしまわなければならないかも。でも、潰れなかったら大損だ。
気が付いたら街灯りも届かず、人も通りかからないような街の隅。廃屋に囲まれた一角にたどり着いた。
暗い塊は今や微動だにしていない。
「―――あんた……」とルイーズは小さく声を掛けた。
ぬるりと黒いものが落ちた。被り物なのかコートなのか。
男だった。
ただ、肌が黒く顔も髪も黒い。笑っているのだろう、黒い顔の中に白い歯だけが浮かび上がっていた。
ルイーズは影みたいな男の右手に白く光るナイフが握られているのを見て、踵を返して逃げ出す。叫び声を上げたかったが、気が付いたら背後から抱え込まれていた。
―――獲物はあたしだったんだ。
大声を上げたが大きな左の手のひらで口を覆われて声を出すことが出来ない。
ナイフを握った右手をコートの中に差しいれてくる。
コートの中は薄手のシャツしか着ていない。手慣れたように男は右手をナイフを握ったまま差し入れて来る。
しゃにむに暴れれるが、男は全く意に返していないようだった。
シャツの合わせ目からナイフと一緒に手を差し入れて、直に肌を撫で回される。
怖気がふるい、ルイーズは男の左手を思いっきり噛み、声を上げようとしたが、男は手を離さなかった。
豊かな尻の辺りに男の腰が押し付けられ、そこに固くなっているものを感じる
―――犯される。
ルイーズはそう思ったが、肩越しに首筋に舌を這わされた後で、それを見てしまった後で、殺されると確信する。
男の口元から見えた歯は、全て牙のように尖り、闇の中で微かに光っている。
―――人狼。
軽々と持ち上げられ、躰を仰向けに路上に転がされる。
男が馬乗りになり、その目を見ることが出来た。白目が真っ赤に充血し微かに涙を浮かべている。しかし人のような感情を探すことが出来ない。
視界一杯に尖った牙が広がり、首筋にチクりとした痛みを感じる。
ルイーズは大声を上げて、身を攀じる。しかし暗い街はずれには人影一つない。遠くに祭りの喧騒が聞える。
ルイーズがまともに物を考えることが出来たのはここまでだった。
意識は男に呑み込まれ、闇の中に包まれて消えた。
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