第36話 蜂蜜
アニータはルシア・ヴォーリオの寝顔を見つめた。
母のイザベルの膝に金色の髪に彩られた頭を載せて眠りこけている。白い肌に頬が桃色に色付いている。伏せた瞳を縁どっている睫毛がびっくりするほど長く、そして緩やかにカールしているのが解った。
薄く開いた桃色の唇が薄く開いている。そうかと思うと、下唇を真っ白な小さな歯でそっと食んだ。
「かわいいお子ですね」と知らずに呟いていた。
自分の時はどうだったのだろう。
知らずに思う。つまらない事かもしれない。だが誰にでも幼いころはあったのだ。
「そうかしら。そうだといいのだけれど」
そう母親の顔でイザベル・ヴォーリオはそっと呟いた。
「漸く授かったのです。両親、つまり私と夫のという意味でですが、皆男の子を望んでいました。当たり前です。一家の跡継ぎを期待されていたのです」
「女の子でがっかりとされましたか」
「私は---どうだったでしょう。この子を見た瞬間より前の事はあまり。あの人はそれは喜んで」
イザベルはそっとルシアの額を撫で言う。
「娘でよかった。まるで天使だって」
「そうですか」
アニータは小さく言の葉を継いだ。
ルシアを抱え上げる騎士の姿を思い浮かべる。そう言えばあの時は騎士には見えなかった。父親の姿だった。
「その、アニータさんは随分身が軽くいらっしゃるのね」
思い出したようにイザベルが言う。
「えぇ、その。お転婆だったのです。随分怒られたものです」
お転婆、では少々説明しきれないかもしれない。そう思ったが、育ちのいいイザベルは目を丸くして頷いている。
溜息をもらして「なんにせよ、ようございました」という事が出来た。
立ち上がり、牛乳をゆっくりと温めて煮沸した。蜂蜜を少し垂らして温め続ける。
ゆっくりと匙でかき混ぜ続けた。
幼いころ母親が作るこの飲み物がとても好きだった。いつから飲まなくなったのか覚えていない。あの頃はあんなにせがんだものだった。
白いカップにそっと注ぐ。
そのままイザベルに手渡した。
「暖かい。ありがとうございます」
「冷えましたからね」
イザベルは、そっとカップに口を付けて呷る。
「―――美味しい」と小さく言った。
綺麗な顔だった。見ていると自然に笑みを浮かべたくなる。
総じて貴族共にはいい思いをしていないアニータだが、これが血というものかと思う。確かイザベル自身も貴族出身。アンニバーレ家に嫁いだのは四,五年程前だったはずだ。
「―――ずっと、思っていたのです。人の母というのはどういうものかと。未だに自分が小娘という気がして」
「私にはわかりかねます」
アニータもイザベルもルシアの小さな額を見ながら囁くように話をする。
「すぐにお子さんが出来ますわ。だってこんなにお綺麗」
アニータは盗賊としての自分にそんな事があるかと思う。いや、あるのか。父も母と結婚した。平和ならそう言ったこともあるのか。
「どうでしょう」
「ジーノ様。ジーノ様には長くお使いされているのですか?」
「いえ、最近の事」
「そうなのですか。そうとは気付かず。でも長くお使いされているように見えます。不思議ですわ」
大きな瞳をアニータに向けてイザベルは、優しくそう言った。
強い風が吹き、窓を揺らした。
イザベルの膝で眠っていたルシアが微かに身じろぎをした。丸まった手が開き、金髪の丸い頭がゆっくりと持ちあがる。
まだ開かない目を小さな葉のような手が抑えて擦るのを、白い母の指がそっと押さえつけた。
膝の上に上がり母の胸に顔を付けて、真っ青な瞳を片目のみ開けて、ルシア・ヴォーリオがアニータを見て、微笑みを浮かべる。
アニータは、天使みたいだと、そんな風に思った。
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