第38話 訓練
「……ご再考いただく余地はないのでしょうか」
アンニバーレ・ヴォーリオは、アルベルト・ロッセリーニに、囁くように言った。
アルベルト・ロッセリーニは窓の外に目を向けたまま微動だにしない。
薄暗い部屋の中は光が差さない。
開けられた窓から微かに騎士が行う演習の音が聞こえてきた。
祭りの最中だ。アンニバーレは必要最低限の手勢を残して手勢の騎士たちにも休暇を与えるつもりでいた。それぞれ妻や子もいる。普段詰め所に詰めることも多いので、こんな機会に家族の時間を取らせてやりたかった。
しかしアルベルトはそれを許さず、平時の訓練を騎士たちには申し付けた。
―――北を獰猛なロンバルディア、南を貪欲な自治都市ヴェネチアに挟まれたロッ
セリーニ領を守護する騎士が
それがアルベルトが騎士共に申し付けた全てだった。
意外でもある。祭りと言えば、誰よりも早く楽しんでいたこの貴公子は、今年は一切を楽しむつもりがないようで、自身も祭りの初日、正に褒章授受の時以外は全く外出もしない。
騎士たちは膝を付いて粛々と受け入れた。
しかし、騎士であっても人である。
その瞳の中に微かに光る恨みがましさを確かに感じていた。
後で、それなりに楽しみを見繕てやらなければならない。
この寒さの中で、楽しくもない演習に応じるのは確かに騎士には似合いかもしれない。しかし、騎士とても人間であることに変わりはないのだ。
呼び出されてアルベルトの詰めている部屋に入り、もう二刻は経とうとしていた。
風が入り込みうすら寒い部屋だった。
こんな陰気な部屋だっただろうか。少し前までは大抵誰か取り巻きを一緒に連れ込んでいるのが常だった。しかし、その取り巻きはいない。
何が起きたかは知らないが、ここ数ヶ月以上、アルベルト・ロッセリーニは、男女問わず誰一人身近に侍ることを許していない。
良い友人関係とも言えなかったので、それ自体はアンニバーレも好意的に受け止めたが、かえってこれでは前の方がましだったのではないかとも思う。
今のアルベルト・ロッセリーニは、騎士駐屯所の自室から出る様子もない。
「……さすが、狼王のローブの授受者だ、という事か」
「は?」
「聞えなかったか、さすが騎士の中の騎士にもなれば、俺ごときの話は聞けないという事か」
張りのない、溜息が混じったような声だった。
「……飛んでもございません」
アンニバーレは跪いて頭を垂れた。
こんなことを言うお方だったろうか。
微かに空気が動き、差し込む光に埃が舞った。掃除する下男も寄せ付けていないようだった。
目の前にアルベルトの黒のブレーが眼に入る。下げた頭を片手で掴まれる。爪が頭の皮膚に食い込まんばかりに捕まれる。
「……ヴォーリオ卿。私は命じたのだ。卿にはそれに応じる義務がある」
「しかし……」
「卿は分からねばならないよ、いずれ来る日ではあるのだからという言い訳はしない方がいい。今のままの父の日和見的な態度では、いずれこの小さな領土は呑み込まれてしまう。早く、いち早く備えなければならない。こんな壁外に駐屯をさせられているのだ、騎士が重用されているとは卿も思えないだろう」
――――公平な見方だろうか。
すくなくとも自分自身はアルフレッド・ロッセリーニの判断を疑ったことはない。騎士とは剣を捧げた相手に奉仕をするものだ。そしてアルフレッドはその忠誠に答えてくれていると信じている。
「卿よ。勿論あなたの忠誠は父アルフレッドに対して捧げられている。それは俺とて知っている。ではこの市に住まう住民についてはどう思う」
「何のことでしょう」
かろうじて言うと、アルベルトは「おやおや」と薄い嘲り笑いと共に言葉を漏らす。
「これは冷たい事だ。騎士とはかくなるものか。アンニバーレ・ヴォーリオ。では卿はこの市の住民と、アルフレッドの命が天秤にかけられたときには、市の住民の命はどうでもいいと言うのだな」
「そっそんな。そんな事が……」
そんな事にはならない。ならないはずだった。アルフレッドは自らの命が、市民の命と天秤となれば、死を選ぶはずだった。
そんなアンニバーレの動揺を見抜いたように、喉を震わすように嗤ってアルベルトは続ける。
「ヴォーリオ卿。これは遊びだよ。頭の体操くらいに思いたまえ。どうするのかね。ヴォーリオ卿の忠誠は父アフルレッドに捧げられている。しかし市民の命を助ければアルフレッドは死ぬ。どうすると言うのか」
頭を上げようとしたが、万力のような力で抑え込まれる。
「きっ騎士の忠誠を愚弄されておられるのか……」
「違うとも。これはピッポが旅立つまえに良く言っていた冗談だ。妻は夫に忠誠を誓うものだが、夫と子が相反するとき、どちらに付くものかと。この答えは簡単、常に妻は子に味方するものだ。―――最後の最後にはな」
ふとルシアの顔が浮かんだが、目を閉じて追い払う。
「だからだ。卿も本当は市民を守るために力を尽くしたいのではないのかね。つまり卿のアフルレッドのへの忠誠は、アルフレッド・ロッセリーニという個人にではなく、この市を体現する存在である父に奉げられているのではないか?」
―――そうかもしれない。
ふとよぎる思いを否定できない。妻のイザベル、可愛いルシア。そして市を行く市民の姿。穏やかな一日。苦しい日々の中のテーブルの糧。
様々な守るべき物がよぎる。しかし―――。
頭を引き起こされて、顔を上げさせられる。
まともにアルベルト・ロッセリーニの端正な顔を見る。
青ざめた顔をしている。隈が濃くなった瞳が落ちくぼんでいるようだった。唇のみ赤い。
「だからだ、卿は俺の話をまともに取り合わなければならないよ。良く考えるべきだ。この市を守るためにはどうするのがいいのか」
アルベルトは、口を開かずに口先だけで囁くように言った。
やけに生臭い息が匂う。
突き放されるように手を離される。
アンニバーレは、がっくりと膝を落とした。
「祭りももう終わる。数ヶ月もないうちに今年も終わるが、来年はこの市は新しい時代に踏み出さなければならない」
アルベルトは背中を向けて呟くように言った。その背中にアルフレッドの面影を見る。しかしどうだ。まるで薄暗がりに包まれたような心持がする。
アンニバーレ・ヴォーリオはこの寒さの中、額から流れる汗を感じた。
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