第33話 小鳥

 アニータ・ダッビラは、洗濯物の入った籠を抱えて城の狭い石階段を上がり切る。

 踊り場に立つと、この小さな城の前庭から先が見える。


 アニータはこの城でここが一番好きだった。

 城の中庭で騎士共が演習をしている。城壁の奥には市街が見えた。街を越えれば大きな市壁が見え、市壁の先に金色に染まった麦畑が見える。その遠い先にディスピアチェーレの森が、夕暮れに赤く染まっているのが見えた。


 祭りも三日目。

 遊び惚けている訳にも行かず、ジーノとアニータは城に戻ることにした。

 アニータも侍女としてジーノの身の回りを調えて、おく必要があった。

 

 ひとしきり景色を楽しみ、使用人用の出入り口をくぐると、侍女長が居たので脇に寄り、籠を抱えたまま目礼をした。侍女長は微笑みながら「宜しくやって頂戴ね」と声を掛けて来る。

「承りました」と、アニータは言葉少なに答えた。

 

 ジーノの部屋のある離れまで行くには、いくつか中庭を超える。

 アニータは、古びた塔のの脇を歩いてジーノの部屋に向かっていた。塔は三層ほどの小さなもので、丸い胴回りに螺旋状の階段が、巻き付くようにして取り付けられている。

 

 遠くで騎士の演習の声がまだする。

 アニータは騎士が嫌いだ。 

 居気高で、何かと言うと誇りだなんだと言い、挙句の果てに人を殺す。


 ―――つまり、偉そうなんだ。

 

アニータはそう結論づけている。やっていることは街の喧嘩と変わりない。何かが取られたとか、殴られたとか、バカにされたから仕返ししてやるとか。

 そんな事をいちいち騎士の誇りだなんだという言い訳を付けないと、何もできないのがあの連中だと思っている。


 だから、アニータはあの臆病なジーノ・ロッセリーニの事は少し気に入っている。ジーノはフードに顔を隠して、怯えていることを隠そうともしない。そのくせ死体を掘り出して顔を砕くなど驚くべき事をする。

 緩く巻く金髪と、青い瞳を思い出す。

 今日はどんなことをして、からかってやろうかと思う。

 

 ふと、見上げると白い何かが見えて、眉間に皺を寄せた。

 3階の階段の踊り場にチラチラと白いものが見え隠れする。

 

 ―――子供だ。

 

 小さな葉っぱのような手が見えて、アニータは籠を落とした。

 小さな子供が、踊り場の低い手すりの上に腹ばいになっているのが見えた。風に長い金髪が吹きたてられて、逆立つようにして巻いている。

 

 少し離れてみると、女の子だとわかった。

 手すりの先に小さな鳥が見えて、それを見ているようだ。しかし、随分と手すりに乗りかかっていて、もう半分体が落ちそうな事に気が付いていないようだった。


 ―――落ちるッ。

 ぐらりと揺れる体を見て、アニータは、壁に向かって走る。

 階上から女性の悲鳴が聞こえた。

 小さな取っ掛かりを掴んで、壁を登る。

 

 少々高い壁面だったが、石造りで掴むところが豊富だったのがよかった。アニータは難なく登り切りもうすぐ落ちそうだった。小さな躰を掴むことができた。


 抱え込むようにして手すりの内側に体を落とすと、女の子は鋭く泣き出した。

 金の睫毛が涙で濡れていた。

 三つか、四つくらいか。アニータは思う。しかし天使みたいに綺麗な子だ。


「―――ルシアッ」

 女性が駆け寄ってくるのがわかる。髪の色で直ぐに母親だと思った。

 壁を駆け上がってきたアニータに驚いたようだったが、直ぐに子供を抱き上げる。

「あなた、ありがとうございます。なんとお礼を申し上げればいいか」

 女性はしっかりと子供を抱えたまま、直ぐにアニータに手を差し伸べた。


 アニータは服をはたいて立ちあがった。

「いえ、間に合いましてようございました」と答える。見渡すと、どうも演習中の騎士団の控え所になっているようで、鎧姿の男が何人かいるのが見えた。

「君、申し訳ない。大丈夫でしたか」


 銀の鎧を身に着けた壮年の男が、アニータに声を掛ける。

「私は何ともございませんでした。お怪我が無ければ何よりでございます」

「いや、そんな事では済まない。私の娘のせいで危険な目に……」


 男は、アニータに近寄り言う。

 自分の娘より先にアニータを気遣っている。

「何のケガもございませんので」

「しかし、驚いた。こんな所を君は駆け上がってきたのか」騎士が壁を見て行った。

「非常時の事、必死になったまでの事です。どうかお忘れください」


「あなた。申し訳ありません。お名前を、お名前を聞かせてくれないかしら」

 子供は泣き止んで母親に抱かれながら、こちらを見ていた。

 しかしよく似た母子だった。見ればどこなくジーノの母、フランカに雰囲気が似ていると思った。


「ご容赦ください。騎士の皆様に名乗るほどの身分ではございません」

 そう言うと、騎士は居住まいを正して言う。

「いや、是が非でもお願いします。私の名はアンニバーレ・ヴォーリオ。騎士団に所属するものです。これは妻のイザベルと娘のルシア。あなたは娘の恩人だ。礼をせずにはおられません」

 

 アンニバーレ・ヴォーリオ。騎士団団長。狼王のローブ(アビート・ダ・レ・ルーポ)の授受者。アニータは伏せた顔のまま目を見開いた。

「どうか、どうか名前を教えてくれまいか。騎士の誇りに掛けて礼をさせてほしい」

 

―――騎士の誇り。


 アニータは何度も断るが、夫婦ともに名を聞かねば離さぬと言う。

 最後にアニータはどうにも面倒になる。

 こう言い出した騎士の始末の悪さは考えていた通りだ。


「主人のジーノ・ロッセリーニに聞かねば、私は何もお答えすることが出来ません」

 アニータは、言葉を選びながら訥々と答えた。

 是非もない。ジーノに丸投げだ。

 

「おぉ、ジーノ様のご侍女だったか。かねてより親交を深めたいと思っていたのだ。これは天の采配。必ずジーノ様ともどもお礼を申し上げる」

 アンニバーレは声高らかに言う。

 見た所、他意は無さそうだった。

しかし、アルベルトとの関係はあるに決まっている。油断はできなかった。


 ―――ジーノ、ごめんね。

 アニータは立ち去りながら、心の中でつぶやく。

 本人に聞かせることは、全くと言っていいほどないのだが、アニータは心の中だけでは良くジーノに謝っていた。

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