第29話 満月

「さて、そろそろ行かねば。レナに何を言われるか分かりません」とブガーロ親方は立ち上がった。

 二階と三階を宿泊スペースにしており、一階は居酒屋として使っているこの店にもだいぶ人が詰めかけている。人混みをひらりとすり抜けて、アニータが杯を運んでいるのが見えた。


「すいませんなご主人」と話しかける者があった。

 何者かと振り向くと、身なりのいい初老の男性ががやや伸びた顎髭をさすりながら話しかけてきた。

「マルチェロ先生ではないですか。これはこれは」と親方が言う。

「いやいや、忙しいところに申し訳ありませんでした。この間お約束した書面が出来上がったものですから、一杯やるついでにね。お伺いしたわけで」

 先生と呼ばれた男は、ニコニコと笑みを浮かべながら続けた。

 

 良い身なりをしている。

 地味な焦げ茶の上着を着て黒の厚手の外套を纏っている。革靴を履いている所を見ると、どこかの学士か裕福な商人に見えた。赤い帽子を斜めに粋にかぶっている。

 少しだけ皺の目立つ目尻が垂れていて愛嬌のある表情をしていた。


 男はジーノを見て目を少し開き「これはこれは、意外なところでお見掛けしますな」と言った。

 ブガーロ親方が、同じように笑いながら「ジーノ様。ご紹介しましょう。公証人のベネディット・マルチェロ先生です」と言った。同じようにジーノも紹介されたので、おずおずと頭を下げた。


「いや、こんなところでロッセリーニ家の方にお目にかかれるとは」と、男は言う。

「いや、その。まぁ私はロッセリーニとは言え……」と言おうとすると、公証人は顔の前で手を振り「いえいえ、聞いておりますよ。ジーノ・ロッセリーニ。血縁はなくとも最もアルフレッド公の信頼を得ているとか」

 

 いったいどこの噂なのか。

 ジーノは手のひらが汗ばんできたのを感じる。

 そんな事を聞いただけで、アルベルトは烈火のごとく怒るだろう。

 ジーノは、不器用な言い方で何とか誤解を解こうとするが、どうもこの公証人の中ではそういう事になっているらしく、謙遜と取られてしまう。


ベネディット・マルチェロは軽く手を揉んで、席に掛ける。

釣られて思わずジーノもブガーロ親方も腰を掛けてしまった。

「つい聞こえてしまったんですが、面白いお話をされていましたな」と公証人は随分と生き生きとした顔をして言う。

「あぁいえ、違うのです」と、反対に親方はまずいものを食べたような顔をした。

「いえ、あの人狼とかなんとか」

「噂話ですよ」

 ベネディットはそれを聞いても、逆に目を開いて興奮したように言う。

「人狼が出るとは物騒です。色々と出向いて、人狼が出ると言われたところも行ってみましたが、大抵は過去にそういう事があったというところばかりで、正に今巷に徘徊しているという話に行き会ったのは初めてです」

 やって来た女給に温めたワインを頼み、ベネディットはやや早口で言う。

「私は、まぁ勤めは公証人なのですが、駆け出しのころはフランク王国に勉強しに行ったものです。勿論勉学には励んだのですが、その時に不思議な話を収集する喜びに目覚めてしまいましてね。随分と各地でそんな話を聞きに行ったものです」

 ブガーロ親方はこちらを見ると、眉を見事に八の字にして見せた。

 つまり、困っているという事らしい。


「各地で吸血鬼や人狼、あるいは喰屍鬼と言った話を随分と集めたのですが、地元のイタリアには意外にもこういった話が少なくてね。ローマとしての建国記になるのか、あるいはギリシアの伝説に偏ってしまうんですな」

 ―――この話、もしかしたら長いんじゃ。

 ジーノは思ったが、まったく構わずに公証人ベネディットは続ける。

「それがなんと地元で人狼ですからな。驚きました」

「―――はあ」

 はぁ、くらいしか出て来ない。


「すいませんなぁ。ジーノ様。こちらの方は公証人としてはとても優秀な方なのですが、どうも悪い癖がありまして。こういった不思議な話などを収集しておられているのです。長くお付き合いを頂いているのですが、時折ふいにフランク公国やその先に船に乗って行ってしまうのです」

 親方は、困ったものだとでもいうように首を振って言う。


「いやぁ、そんなに頻繁ではないですよ。ただ先々月はフランク公国で妖精が出ると言うではないですか。急げば証拠の一つも見つかるかと思ったのですな。まぁ見つかったのは茸が丸く繁殖しているのを見せられただけでした」

「それは……残念でしたね」

 ジーノが軽く口を挟むと、ベネティット公証人は首を横に振って答える。

「円状に繁殖している茸は、妖精の痕と言われるのです。妖精が輪になって踊った跡であると言われたりもします。別の地域ではカエルの腰掛として伝えられたりします。こちらは毒を撒くと言われたりしますな」


「もう、ずっとこのような調子でね。困ったお人なのです」

 親方は「ねぇ」と言ってジーノに問いかけた。

 揶揄された公証人は照れ笑いを浮かべて、

「いや、どうも見境がなくお恥ずかしい」と続けた。

「別に知ったからと言って何が起きるわけでもないのは承知なのですが、そう言った話が伝わっていて万が一本当にそんなものがいるかと思った途端に気分が盛り上がってしまうのです」


 お解りになりますか、と聞かれたがさっぱりと理解できない。

「そんな風に思っていたら、人狼だと言うではないですか。それも私の街でですよ。これは興奮しましたな。いや、勿論被害者の方々の事を想えば、面白がるなどとは言語道断なのですがね」

「人狼。フランクの言葉でルゥ・ガルゥですな。このヨーロッパではどこでも似たような伝説を聞くことができます。昼日中は人間なのだが、月を見ると全身から毛が生えだして、半獣半人の姿になる。鋭い牙と爪を持ち人語を介さなくなる」


 ベネディットは夜空を見上げながら言う。ちょうど満月になりかかっている月が見えた。

「狼憑きなどという表現をされることもあります。この場合は悪しき何かに憑りつかれるという表現になるわけです。他方、明らかに人。人なのに意思の疎通ができなくなる。そう言った場合にもこういう風にいう事があります」

「人が変化するとはお考えではないのですね」とジーノは言った。

「であれば、ぜひ見てみたい物ではありますが、どうなのでしょね」と公証人は思慮深く返答をした。

「フランク公国のさらに北。バイキングという部族がいるそうです。部族の男は全員戦士階級として生きるのですが、戦いになると、激高し痛みを感じず、言葉も解さないようになるそうです。彼らはベルセルクと呼ばれます」

「人と話をすることが出来なくなるのですな」と、今度はブガーロ親方が答える。

「えぇ。そして彼らはね。熊だか狼だかの毛皮を羽織るそうですよ」


 ベネディットはそう言いながら「一口に人狼とは言いますが、正に千変万化なのです。しかし私自身は人狼特有の特徴は『変化』ではないかと考えています」と続けた。

「良く月を見て変化する言います。どの伝説も初めから狼と人間の中間のような姿でフラフラとしているわけではないのですよ。それじゃ目立ってしょうがない。いずれにしても、人間が何か一定のきっかけを得て『人ではない』ものに変わる。変化する。恐ろしいのはそこではないでしょうか」

「つまり」

「つまりそう。人狼の恐ろしさとは。普段は巷にいる普通の人間かもしれないというところ。隣人が実は怪物である。それがもっとも恐ろしいのでしょうな」と変わり者の公証人はしたり顔をして言った。

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