第30話 道化
「今日は、劇場に行きます」
勢いよくジーノの寝室の扉を開け、二、三歩足を踏み入れるなりアニータが言った。
「……なんですか」
眼もうまく開かないジーノ・ロッセリーニはベットの毛布に包まったまま、何が起きたのかと思いながら答えた。
昨晩であった公証人ベネティット・マルチェロとの話は、主にマルチェロだけが喋っていたにもかかわらず深夜に及び、敢え無くジーノは『盗賊の家』亭で一部屋借りる事となった。アニーは素晴らしい微笑みを浮かべて「部屋代は前払いよ」と言ったのが昨晩のクライマックスとなった。
「いいから着替えなさい。早く。昼から始まるのよ。座りたいでしょう」と言い、アニータは出て行く。ジーノはぼんやりとした頭を抱えながら、なんでそんな事をしなければならないのか考えたが、そう言えば収穫祭の間は、秋の褒章以外は仕事らしい仕事もない事を思い出す。
アニータはなぜかジーノの予定を把握しており、その上で言っているのだ。
開いた予定に色々と組み入れてくれるのはいいが、ぼんやりと空く一日といったものが最近ないとも思った。
「まぁ良いんだけども」と言いながら、脱ぎ捨てられた衣類を身に纏う。陽も高く登っていて、昔ならではの放蕩者のような気分がした。
そう悪いものでもないと思った。
一階に降りて、パンと蜂蜜を溶かした水を貰って簡単に食事を済ませた。ブガーロ親方はどこかに姿を消しており、女将役のレナが「アニータを末永く、宜しくお願いしますね。ジーノ様」と、やや謎の表現しながら見送ってくれる。
「遅いのよ。立ち見になったら、あんたの下着に針を残して畳んでおいてやるんだから」
アニータはやや猟奇的な事を言い、先に立って歩き出した。
アニータの目指す先はすぐにわかった。
ロッセリーニ市の市壁近くには、贅沢なことに円形の劇場がある。古代ローマに倣った形式の劇場で、野外の為歌劇だけでなく様々な事が出来る。この秋の収穫祭での目玉の一つとして、軽業師たちのサーカスが誘致されていた。
市の城門に近づくだけで、人通りが増えて来る。
流れの芸人たちが、そこかしこで音物を鳴らして、思いおもいの芸を繰り広げていた。
壁外にでてみると、もうそこは異界のようになっていた。
バーミリオンとランプブラック、あるいはスノーホワイトで縞模様に色分けされた、大小の天幕がいくつも立ち並んでいた。天幕と天幕の間に細引きが渡されて、色とりどりの布切れが風に揺れている。
派手に顔を塗った道化共が、奇妙に体をくねらせて踊り通りすぎていく。
それを縫うようにしてアニータは足取りも軽く進んでいく。
「あれね」と彼女は言いながらジーノの手を握り、ひときわ大きな黒と金で色どりされた天幕を指さす。
アニータはそのまま入口に近寄り、手に持っていた半券二枚を禿頭の男の手に叩きつけて、ジーノの手を引きながら入った。
天幕の中は長椅子が二、三十も並び、中央のサークルを囲んでいる。
暗いかと思ったが、小さなランプが用意されており、灯りがともされていることが分かった。既に半ば以上は席も埋まっていたが、アニータは見やすそうなほど良い距離の席に座り、そしてジーノも引き込むように座らせた。
「いい、このサーカスはね。本当に特別だから。めったに見られないの。元々は遠い東の国でやっていたらしいけど、こちらに流れてきたのね。あんたみたいに、ぼぅとしているのはこれが最後かもしれないから良く見ておくのよ」
アニータは真顔でそう言った。
トロトロとドラムが響きだした。
道化が脇の幕からしずしずと出てきて、舞台中央で立ち止まる。真っ赤なマントに黄色い上着。だんだらチェックのタイツにロングブーツ。奇妙なとげのついた帽子を被り、顔を白く塗っていた。
「―――紳士淑女の皆様。本日は我ら『聖トマスの為の道化一座』にようこそおいで下さいました。我らは元は遥か東のかなた。かのマケドニアの先も先からやって来た伝統ある一座。本来は我らは王侯子爵の宮廷にて道化を務めるのですが、本日は特に。―――特にロッセリーニ伯の幸徳に導かれまして、ここに一座お披露目となったのであります。この機を逃せば、もはや我らの芸を見る機会はありますまい。本日お越しになられたお客様には、どうぞ近隣のご近所様を誘いわせて再訪を頂けますよう。改めてお願い申し上げる次第でございます」
道化は口上を高らかに述べ、深々と頭を下げてそのまま脇に掃けていく。
アニータが耳に口を寄せて「端から端まで嘘よ。そんな訳ないもの」と鋭く呟いた。
「解ってるってば」とジーノは答えた。
宮廷道化師がこんな所で芸を繰り広げるわけがない。それくらいはジーノにも想像がつく。宮廷道化師はむしろ政治的な役割をもっている特異な存在なのだ。愚か者として認知されているが故に、絶対の権力者たる王への自由な言動が許される。王への直接の箴言など保身のために誰もが言いたくない事をいう事も、愚か者であるが故に許される。
道化が去った後、脇から二、三人が出てきて、奇妙な道化芝居を繰り広げる。
ジーノも、何度か見たことのある筋だての滑稽劇だったのでリラックスしてみることが出来る。いつの間にやら天幕は満員御礼でなんと立ち見まで出ている。
何と言っても中世は仕事ばかりの娯楽のない生活。
農家はおろか商人であっても、なかなかこんな見世物に立ち会う事が出来ない。数少ない機会を皆楽しんでいた。
「―――さぁさぁお立合い。これなる男は遥か東邦より来たる軽業の名手。かの斜塔より飛び降りたるも無傷だった男が登場です!」
メニューは進み佳境に入ったようだった。
口上を受けて、青いぴったりと衣装に身を包んだ男が、トンボを切りながら舞台中央に現れる。黒髪だがどうも西洋人に見えた。
「あー、なるほど」と、ついさっきまで食い入るように見ていたアニータは、目を半眼にして冷め切ったように溜息を付いて言った。借金取りが、たぶん今日は返してもらえないなと思って、それでも集金に行ったら、やっぱり返してもらえなかった時のような声だった。
高く組んだ矢倉に、青い男は足取りも軽く駆けあがり、垂れ下がったロープの上で、軽業を披露する。相当な高さだったが全く意に介していない。そうこうして、揺れるロープから手を離し、何度も空で宙がえりをして華麗に着地。
これはこれで見事な芸にも思えた。
拍手喝采。
最初の道化が再登場。
「皆様、拍手、拍手をお願いいたします。一世一代の芸でございました。皆様またのお越しをお待ちしております……」
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