第25話 侍女

 空虚な暗澹あんたんに満たされた聖堂の中、ピッポ・ロッセリーニは粗末な麻の修道服のみを纏って司祭の前に跪いていた。

 10月のこの時期にしては珍しく、ロッセリーニ伯領は厳しい寒気に苛まれており、昨晩は薄く雪すら降った。

 ピッポ・ロッセリーニは冷たく堅い床に膝をついて、司祭の祝福を聞いていた。


 だが、これは祝福と言えるのだろうか。

 命じられた仕事を放り出し、娼館で発見されたピッポ・ロッセリーニ待っていたのは、修道士として出家し自らの行いを改めよという父の命だった。

 もはや貴族でもなんでもない。一階の修道僧としてこのロッセリーニ領から追い立てられるように出て行かなければならない。


 膝に寒さが滲み、我慢できない程痛む。

しかし司祭の祝福の間は身動きを取ることもできない。まるで拷問のようだと思った。

 話に効く修道士の生活は想像を絶する。只管ひたすら祈りを捧げ、食べる物といったらわずかな粥のみ。貧しい物のため、誰よりも実を粉にして働く。考えただけで大声で叫び、許しを請いたくなる。


 参列しているのは、ロッセリーニ夫妻。ジーノ・ロッセリーニ。そして幾人かの家令たち。ピッポが涙を流して許しを請わないのは、ジーノや家令かれいの前で無様な姿を晒せないという見栄であり、そして追放とまではいかなくとも事実上の縁切りという決心をした、父アルフレッドへの怒りだった。


 なぜこの俺が。このピッポ・ロッセリーニが。


 油断をすると涙が滲む。とにかく膝が痛む。司祭の冷酷な瞳が『これからお前が味わう痛みは、このようなものではない』と告げていて、底冷えするように怯えた。

 兄、アルベルトは調子が悪いという事で欠席をしている。

 調子が悪いが聞いてあきれる。

 兄は、気が狂いつつある。

 父に言いたい。

 ロッセリーニの血筋を残せるのは、本当に俺しかいないのかもしれないのだぞ。そこのしたり顔の金髪の小僧は、あなたの血など一切受け継いでいないではないか。


 祝福が漸く終わる。

 修道僧共が、空気を切り取れそうな程透き通った歌声で讃美歌を歌い始める。

 司祭が冷たい剃刀の刃が、自慢だった黒髪を落とし始めた。

 目を瞑り手を組んでいても、分かる。

 ぷつり、ぷつり、ぷつり。

 髪を落とされ、清貧と貞節を誓う。

 自分の中には一切の信仰もないのに、俺は誰に何をもって仕えると言うのか。

 

 ジーノ。ジーノ・ロッセリーニ。

 気配のみでその存在を探る。

 なぜ、俺の企みを破り生きてお前がそこにいるかは分からない。神でも悪魔でもいいが無力なお前は何かの力を借りて、まんまと生きてそこにいるのだろう。


 いつか、この茶番を抜け出してお前の前まで行く。だからきっと生きていてほしい。正直アルベルト程、お前の事を憎んでいたわけではなかったが、今許されるならばお前の腸を引きずり出して、どんな色をしているのか見てみたい。

 いつかきっとあの穀倉の屋根から、お前の腸でお前の首を吊り下げてやる。


 ジーノ・ロッセリーニは馬車を下車して、曇天の空を見上げた。

 寒さは例年になく厳しい。市中でも貧しい者の中に死者が出ていると言う。

 グレーのマントを体に巻き付けて城の自室に向かう。中庭を抜け小さな通路に入ろうとすると、母のフランカが「夕食には顔を出すように」と声を掛けた来たので、うなずいておく。


 ピッポもなく、アルベルトの影も見えない。

 それでもジーノは、城内の張り詰めた空気に気を緩めることが出来ない。特にアルベルトは姿を見せないだけで、身近にいるに違いないのだ。

 目の前にいる獅子のより、暗がりから不意打ちに襲ってくるナイフの方がはるかに恐ろしい。そういった意味で、ジーノは張り詰めたままだった。

 「可愛らしい侍女にお世話を頂くことになったわね。ジーノったら。余りご迷惑をかけてはだめよ」とフランカが言う。

 背後にいた侍女が黙って膝を折り、控えめに目を伏せて挨拶を送った。


 小さな自室に入る。

 侍女も又ついてきたが、部屋に入ったなり見せていた物静かで淑やかな姿は失われた。

「お城ってのもまぁなんか、辛気臭いのね。もっと華々しいものかと思った」

「こんなもんだって。ローマなんかはいざ知らず。地味なものだよ、実際」

 ジーノは答える。

 鳶色の髪の侍女であったアニータはつまらなさそうにジーノのベットに腰を掛けて、足を組んだ。

 古い家令頭かれいがしらであるガリアーノが、新しい侍女であり、ジーノ専属になると言って、澄ました顔のアニータを紹介した時の事は、忘れられない。


 大声を出そうとしたら、アニータが殺意を込めた目線を送ってきたので、慌てて口を噤んだのだ。曰く、護衛兼ギルドとの連絡役という事でブガーロ親方がわざわざ手を回したらしい。

 思いもしなかったので驚いたが、ジーノにとって年も近いアニータは恰好の話し相手となった。アニータもほかの眼が無ければ、町娘に戻って話しかけて来る。


「あんた、気付いていたかしら」とアニータが言った。

「何をさ」とジーノは、灰の長いマントをクローゼットに放り込みながら答えた。

「あんたのあのピッポとかいう兄貴の事よ。あの目」

「―――わかっているさ」

 あの目。殺意というわかりやすい意識の籠ったあの目。

「いつか殺しに来るわよ」

 アニータが、水差しにある水をグラスで飲みながらぽつりと言った。

 ジーノは「まさか。修道院ってのは、簡単には出て来られないよ」と笑う。自分でも言葉に力がないと思った。


「……わかってないわね。あぁいう手合いは不都合を不可能とは取らないのよ。目的の為なら、聖印だって踏みにじってやって来るわよ」

 アニータは宙を睨みながら、予言めかして言う。

 ジーノは、それが夢物語であると自信を持っては答えることはできなかった。


 

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