第22話 薄絹

 重たい鐘楼の鐘が晩鐘を告げた。

 ロッセリーニ伯領の最も端に位置する小教会。その裏手にある墓地にも一日の終わりが訪れつつあった。教会の墓守である、ニコロ・ベットーリは背中に手をやり強く逸らせて、「やれやれ」と呟きながら、重々しい音を響かせる鐘楼を見上げた。

 

 なんと言っても、今日は埋葬が多かった。

 幸い最近流行っていると聞く黒い死の病ではない普通の死体ばかりだったが、今年六十歳を過ぎるニコロにとっては、墓穴を掘ることはもう軽い仕事とは言えない。


 市に住所がないニコロが教会の端にある小さな小屋に住まう事が許されるのは、ひとえに市民が就くことがない、穢れた墓穴堀りの仕事を延々と続けてきたからに他ならない。

 

 この教会の聖職者たちは善人も多く差別はされたことはないが、生活圏は明確に線引きをされている。死とその傍に生きる者は、相手がたとえ神の使徒とはいえ敬遠される。

 

 ―――さて、今日はスープでも温めて、酒でも飲んで早いところ寝るとするか。

 そう思いながら、埋葬道具を片付けていると、あっという間に陽が落ちた。

 火を灯そうかとも思ったが勝手のわかっている場所だけにそんな気にもならない。それよりも早くねぐらに帰って、温まりたいと思った。


 ―――なんだ。

 

 目の端に何か動くものがあった。

 野犬は出たことがない。猫の類かと思ったが、どうも動きが機敏ではない。

 丁度今日、若くして死んだ女を埋葬したあたり。確か娼婦だったはずだ。客に刺されたとかで無駄に死んだと聞いた。依頼主が分からなかったが、奇特な事だと司祭が言っていた。


「おいッ! お前ッ」と強く声を出した。

 思ったよりも大きなものが動いているように見えて、いぶかしく思った。あるのは死体だけなのに、何をしているのか。


 歳と共に、目がだんだんと見えなくなってきているニコロは、目を細めながら見透かそうとする。「畜生、灯りを持ってきておくんだった」と思うが後の祭りだった。


 いやだと思いながら近寄ってみると、暗がりに真っ白な女の裸体が浮かんだ。まさかと思わなくても、青白いその体は死体だった。


―――何してやがる。

 

 老いた頭に子供の頃に聞いた食屍鬼の伝説が蘇る。墓穴から死体を掘り出して、齧る人にあらざる者。

 もう何年も死体を扱ってきて、そんな事を思い出したことなど一度もなかったというのに、ニコロの頭には恐怖と共に、夜語りに語られた怪物の姿が浮かんだ。

 「おいッ! なッなんだ。死、死体なんか、ど、どうする」

 ニコロはそう言いかけて、突然背後から何かで口を覆われた。


―――恐慌に襲われる。

 

化け物に殺されると恐怖に慄きながら、最後に見た光景は、想像よりも忌まわしい。

 墓穴から女の死体を掘り起こした食屍鬼は、女の死体を曳吊りだして、その顔に大振りの石を落とす。何度か、何かが砕ける鈍い音がして、それが頭蓋骨が砕ける音だと思った瞬間、ニコロは完全に意識を手放した。


 ピッポ・ロッセリーニは、下町の小ぶりの娼館の二階窓から路地を見下ろしながら、ワインを口に含んだ。入浴施設でもあるこの娼館のことは、一族の誰も、つまり兄であるアルベルトも知らない、ピッポの持ち物だった。

 

 階下では、湯上りで出て行く男と、誘い込もうとしている女たちが入り乱れて、路地を埋めている。肌寒い季節になりつつあるので、館の中は火を絶やすなと言っておいてある。客は館の中に足を踏み入れれば、まずは暖かさに安堵を覚えて、そして薄絹のみをまとっている女どもにから目を離せなくなるという寸法だった。


 半分ほど干したグラスの中に、黙って女が酒を注いだ。

 この娼館の管理を任せている女主人で、ピッポとの付き合いも長い。

 「あの女はどうしている」

 酒を注いだ女は、「優しく快適に過ぎしていただいていますわ」と答えた。

「間違っても客など取らせていません」

 白い肌が透けて見える薄絹のみを纏っている女は、ピッポの背中にしな垂れ掛かり、ゆっくり頬を寄せてながら言った。


 柔らかい女の肌から暖かい体温が沁みだして伝わってくる。香料を体に刷り込んでいるため、ふわりと花のような匂いがした。

「誰なんですか。あの人。とてもきれいな人」

「誰もいい。お前には関係のない女だ」


 女は軽く溜息を付いて、黙って男の背中に体を寄せた。背中に暖かい乳房が押し付けられる。いつもだったらとっくに押し倒して楽しんでしまっているのだが、今日は どうしたことかピッポはその気になれなかった。


 階下の風呂場や、部屋では半裸の女と男が、お互いに品定めして、愛情と貞節の代わりに、金貨と銀貨を蕩尽して一夜の恋人の誓いを結んでいる。

 いつもは自分自身も喜んで参加するのに、どうも今日はその気になれない。

 思い余って、地下に足を運ぶ。

 階段で擦れ違う女と男がお互いに絡みあいながら、恥ずかしげもなく個室になだれ込んでいく。女の方だけは冷たい目だけでピッポに挨拶を送る。

 

 ピッポはその全てを無視して地下に赴き、一番奥の鍵のかかった部屋の前に立つ。

 部屋の前には、禿頭の大男が扉の番をしていた。


「―――開けろ」

 男は肩をすくめながら、大きなカギ穴に鍵を差し込んで回す。

 薄く開けた扉から中を覗くと、鳶色の髪の女がうつむいて座っていた。だいぶ暴れたらしく手や素足に細かい傷があった。


―――間違いなくいる。


 そう思って、ピッポは扉を閉めて、鍵を掛けさせる。そして自分の許しが無ければ絶対に開けないようにと男に言い残した。

「安心されました?」

 そう後を追いかけてきたらしい女主人が、暗い廊下に立ち言った。暗がりであっても白い着物で浮き上がっているように見える。

 ピッポは女を抱きしめて肩口に鼻を埋めた。花の匂いに合わせて女の肌の生々しい匂いが香った。

「何を恐れていらっしゃるのですか」と女が言う。

「何も恐れいていない。俺はやるべきことをやるのみだ」

 ピッポ・ロッセリーニは、小さな声でそう言った。

 そうこれも必要な事だ。ジーノは死んでもらわねばならない。そして兄アルベルトも又、いずれは死ななければならない。

 あるいは、父ですらも。

 

 ピッポはそう思い女を強く抱きしめる。女が小さく喘いだ声を出した。ピッポは「いずれは全て俺のものだ」と思いながら、女の白い首筋に思いっきり歯を立て、吸い付いた。

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