第15話 聖餅
「……汝、聖なる教会の前に額づき、自ら信仰を明らかにし、寄る辺のない生の道標を自ら定め。理性の前にいかなる悪徳も退けるべし……」
真っ黒なカソックを着た神父が説話をしている。
前列の椅子には、父アルフレッド・ロッセリーニ伯とその妻フランカが目を閉じて、耳を傾けている。アルベルトは、その隣に座り説教を聞くふりをした。
左手に座っている弟ピッポは憔悴した顔を浮かべながら目を閉じていた。
アルベルト・ロッセリーニは誰にも分からないように深く溜息を付いた。
背後の席の従者どもの視線が、未だに恐れと軽蔑を含んだものに感じられて怒りを感じる。あの狩りの晩から散々な事ばかりだった。
ジーノが先導しながら戻った狩りの下見の一団は、無事にアルフレッド伯の使命を果たした。しかし、その栄誉を受けるべき自分自身は、馬車の中で唯々頭痛と吐き気に苦しみながら馬にも乗れずに戻る有様だった。
記憶がないので、従者どもを締め上げて無理やり口を開かせると、自らと実弟ピッポの醜態を漸く自覚できた。
―――嘘だろう。
まずはそう思った。しかし、ピッポから自らの醜態を聞き及び、直ぐに「このことを口外した人間は、不幸な事故が起きる」と同行した従者全員に含み置いた。
しかし、当然ながら父アルフレッドの耳に醜態は入り不興を買うことになった。
不興というよりは、端的に怒りを買った。
普段は気さくな父が、顔を真っ赤にして蟄居を申し付けるとは思わなかった。今日は教会の説話日なので、家族で参加することが求められていたので、久しぶりに外出する事ができた。
頭上にある教会のシンボルたる十字を見る。
ロッセリーニ伯領の
神父が聖餅を父の舌に乗せる。父は手を組み頭を下げて祝福を受ける。教会の権威は絶対なので、父もそれに従わざるを得ない。
―――大した信仰を持っているわけでもないのに。
アルベルトは、そう思い鼻を鳴らす。教会の権威は絶対だ。南部のローマの教皇を考えれば、こんな一都市の支配者など比べ物にもならない。
神父が手に聖餅をもって、その妻フランカに差し出す。
フランカは、今日は薄い青のドレスを着込み、厚手の暗い赤のマントを羽織っていた。貴婦人のたしなみで深めにフードを下ろしていたが、祝福を受けるために顔を上げる。
アルベルトが横目で見ると、微かに紅潮した色白の顔が、金色の髪に縁どられているのが見えた。ジーノの金髪は母譲りなのだろう。大きく青い瞳をうっすらと開けているため、半ば恍惚とした表情に見える。
緩やかに差し出された聖餅を受け取るために、形のよい鼻梁の下の、ふっくらとしたうす桃色の唇をかすかに開き、小さく赤い舌を差し出した。真珠のような小さな歯が少しだけ見える。
フランカは受けた聖餅を素早く口に入れ、手を組み頭を下げる。
マントの隙間から見えた、豊かな胸元が重たげに揺れるのが見えた。アルベルトの鼻孔にかすかに甘い匂いが香った。
アルベルトは暗く重い感情に苛まれる。
この場で表現をすることが差し控えられるような、鉛のような情欲の感情だった。
―――何もかもが気に入らない。
まず、このうす暗い聖堂が気に入らない。そして窮屈に腕を組み座っていることを強要されていることも気に入らない。
初老の神父が眠たそうな顔で聖餅を差し出してきた。アルベルトは厳粛な顔を作り、舌を差し出して、前歯でそれを噛んだ。
頭を下げ、腕を組み、祈りを捧げながら、ジーノがこの場にいないのが腹が立つと思った。
あの狩りの後、ジーノ・ロッセリーニは前にもまして城内にいつかなくなった。フランカは父であるアルフレッドに、どうにかするように言ってほしいと強請っている聞くが、ジーノに甘い父は、まともに取り合わない。
ジーノ・ロッセリーニを殺した時、フランカ・ロッセリーニはどんな顔をするだろう。
アルベルトは、そう思いながら聖印を見る。きっと涙を流すだろうから、それを舌で掬い取って味わってやろうと思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます