第16話 逆鱗

「あのねジーノさん。いつまでもいて貰ってもいいんだけどサ、お代は大丈夫だよね?」と、テーブルにスープとワインを持ってきてくれた、女将が笑いながら言った。


 笑っているんだけど、笑っていない顔を久しぶりに見た。

 ちょうどバイト先のコンビニの店長が、「お婆さんを助けていて」と言い訳した時にした表情と同じだった。既にちょっと懐かしい思い出になりつつある前世の記憶だった。


「死んでいるんだよな。俺」と思わず悲嘆に暮れそうになるが、パンと濃厚な牛のスープを食べながらワインを含むと、どうも死んだ気がせず混乱してしまう。

 果たして自分は、ジーノ・ロッセリーニなのか、佐藤素一なのか。図書館のルイスさんならどう言うだろうと思わなくもない。


 既にこの居酒屋“ターヴォラ”にしけ込んで、一週間になろうとしていた。

 長兄アルベルトと次兄ピッポの視線が怖すぎて、城の中に居る気にどうしてもならない。母、つまりフランカ・ロッセリーニの咎めるような、悲しい眼も見たくなく、気が付いたら馴染みの居酒屋兼宿屋に長期滞在することになった。

 

 本当にどうしたものかと思う。

 前回の狩りの際に親しくなった幾人かの従者に「ジーノさん。やばいですよ。遂にあの人たち本気ですよ」と言われたことも、とても気になる。

 居酒屋は夕方に差し掛かりだいぶ混んできて、席も埋まりつつある。宿代も食事代もツケにしているので、席を占有しているのが申し訳なく感じられてくる。


 看板娘たちが大急ぎで注文を取りながら走り回っている。

 一人捕まえて、ワインのお代わりを頼んだ。ランプの灯りがゆっくりと揺らめいて、居酒屋の中を照らしている。多くはその日暮らしの日雇いか、ギルド勤めの職人たちが、小さな灯りの下で、笑い合い、ののしり合いながら、大いに食べ、語り合っているのを見た。

 日々は貧しくとも、元気で幸せでいることはできるのだ。


 そんな事を想っていると、ドン! と目の前の空席に女将が腰を掛けた。

 空のコップにワインを継ぎながら、

「今すぐ、払ってもらいましょうかね」と、にこやかに言った。

「いや、払いますって。明日でいいかな?」

「やだよ、ジーノさん。あたしが言っているのはね。今すぐ払えって言っているの。一週間分の宿賃とワイン代食事代諸々合わせて、銀80を払ってもらいましょうかね。勿論、金貨の類だって歓迎さ。―――今すぐ払いな」


 ワインのお代わりがそんなに逆鱗に触れたのか、女将は笑顔のままで、手を突き出してくる。

「さもないと、お城に居場所をタレ込むからね。フランカ様もお悲しみになるよ」

「……申し訳ない。今持ってないのよ。城に明日取りに行かせるから…」


 そう言った途端、女将はたくましい二の腕をまくり上げて、パスタの伸ばし棒を手に取って言った。もう笑っていないのが本当に怖い。

「さっさと持ってこないと、承知しないよッ! この宿六がッ。今すぐ耳を揃えて持ってこなけりゃ、あんたのお父上に訴えるからねッ」と言い、棒を振り上げて打ちかかって来る。


 棒を避けようと俯いたら、むんずと背中を摘まれて、猫宜しく摘まみだされてしまう。気が付いたら、這う這うの体で居酒屋から追い出されてしまった。

 薄暗くなってきた路地に叩きだされてしまい、心細くなる。

 看板娘の一人が出てきて、置き去りにしていたマントを持ってきてかけてくれる。

「ジーノさん、良いから持って来なよ。女将も払ってくれりゃ、お城に内緒にして泊めてあげるって言っているよ」と小声で囁いた。


「あぁ、ありがとうね。女将に今持ってくるからって言っておいて。今夜持って戻るからって」としょうがなく言う。こうなればしょうがない。何とかそっと城に戻って、守衛あたりに金を借りるしかない。


 灰色のマントを体に巻き付けて、寒さが厳しくなりつつある街の路地を歩く。

 どこの路地も現代日本とは大違いで、じめじめと湿っぽさがが残っているし、皮なめしのギルドの近くに行けば、鼻が曲がりそうな臭気が漂っていることだってある。

 気を抜くと足を滑らしてしまいそうだ。

 

 フードを羽織って大通りを通り抜けて、近道をしようと路地に抜ける。しばらく暗がりを行くと、後ろからも足音がして嫌な感じがした。

 足を止めると、後ろの足跡も止まる。

 嘘だろと軽く小走りに走ると、後を付けて来るとわかった。

 

―――顔が見たいな


 そう思って角で曲がって、置き去りになっている荷物の陰に隠れる。上手くすれば姿を見失った追跡者が見られるはずだった。

「―――馬鹿にしてんの? お見通しなのよ」

 声はなぜか後ろからした。

「ヒッ!」と声が出た。

 腰が砕けたように膝が落ちる。


 後ろを振り返ると、フードを被ってナイフを持った人影がいる。持っていたナイフを突き立てようと振り上げていた。その拍子にフードが煽られて、綺麗な鳶色の瞳が見えた。

 勢いよく尻もちをついたせいで、こちらのフードも捲れ上がる。


 髪の色に似た鳶色の眼と眼があったところで、向こうの動きがピタリと止まった。

「ヒィィィィィイ! 死体がッ! 死体が生きているッ」

 フードの人物が大声で叫んだ。

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