テープ付きOPP袋のオランジェットチョコ

古池ねじ

第1話

「粗く刻むってこれぐらい?」

 頭ひとつ低い位置にある顔が、不安げに俺を見上げてくる。

 清香のそんな顔を見るのも、制服じゃない姿を見るのも久しぶりだった。同じマンションに住んでるのに。今日は黒いゆったりしたパンツにグレイのスウェット。髪もいつもの編み込んで上のほうだけ結んで垂らした、ハーフアップ? じゃなく後ろの低い位置で一つにくくっている。前髪にはでっかいクリップがついていて、真っ白いつるんとしたおでこが見えている。普段より鼻の周りが赤っぽいなと思ったけど、多分化粧をしていないせいだろう。部屋着でそのまま来たような、というか多分部屋着そのものの格好に、紺色に白いうさぎの絵、でっかいポケットがついた、はっきり言えば幼稚なエプロンをしている。裾の縫い目がぐちゃぐちゃで、糸が端からびょんびょん飛び出しているそのエプロンは、小学生のときの家庭科で作ったやつだ。俺もなんか「魂」とか描かれた紺色のやつを作った気がする。漢字が好きだったわけじゃないけど、他にいいのがなかった。もちろんもう使ってない。

「刻めてないだろそれは。ちょっと見てろ」

 まな板には包丁で無理やり砕かれたチョコのかけらが散乱している。俺は狭いキッチンの中で、どうにか清香に触らないよう気を付けて、まな板の端っこでチョコのかけらを刻んだ。清香はそれを真剣に、包丁を握ったまま見ている。

「わかったか?」

「なるほど」

 うんうん頷くと、ものすごい猫背になってチョコを睨みながらゆっくり切り出した。チョコを押さえる指にものすごい力が入っているのが見て取れる。怖い。

「背筋伸ばせ。早く刻まないとチョコ溶けるぞ」

「う……はい」

 不満そうに、でも素直に背筋を伸ばして、チョコに向かって包丁を振り上げる。

 だん!

 俺の顔面をチョコレートの欠片が直撃する。いて。こいつに菓子作りを教えるとか、俺には荷が重いんじゃなかろうか。不安になってきた。清香がはっとする。

「ごめん!」

 それでも笑って、いいよ、と言った。いいよ。別に。全然。でも一旦、包丁は置いてくれ。


 お菓子作り教えて、と言われたのは十二日の金曜日だった。

 俺も清香も帰宅部だから、ホームルーム終わったらそのまま帰るし、同じマンションだから方向も同じ。でも、並んで帰ったりはしない。電車に一緒になったときにちょっと話したりはするけど、特別に仲がいいわけじゃない。一応連絡先は知ってるけどクラスのグループラインでしか話さない。もうずっと下の名前で呼び合うこともない。でも苗字で呼ぶのもなんかしっくりこなくて、用があるときは「なあ」とか「おい」とか言ってる。清香は「ねえ」だ。

 俺たちは小学校に入るときに同じ時期にマンションの二階違いに引っ越してきた。親同士も仲いいし当時は何かと一緒に遊んだし遊園地に泊りがけで行ったりもしたけど、中学入るぐらいに疎遠になった。仲たがいをしたというわけじゃないけど、なんとなく、そういうもんだから、そうなった。昔仲良かったことももう、なんとなくお互いになかったことにしてる感じ。高校が同じなのも示し合わせたわけじゃない。

 清香は中川さんという女子と仲がいい。一年のころからずっとそうだ。中川秋穂さん。清香は秋ちゃんと呼んでいる。背が高くて、肩の下ぐらいの真っ直ぐな黒髪で、やや無表情で無口なのでちょっと怖い感じがする。美人だけど同年代の男のこと馬鹿にしてるか、馬鹿にするほどの興味もないんだろうな、という印象なので、俺が知る限りはあまり男子に人気はない。この年頃の男子は自分では顔にこだわっているつもりでも、明るくて話しかけやすくて女の子っぽい女子が好きなものだ。もちろん全員そうってわけじゃないし内心のことはわからないけど、傾向として。

 金曜日も清香は中川さんと帰っていた。俺はその後ろにいたので、二人の様子が見えた。背の低い清香は中川さんを見上げて話し続け、中川さんはあんまりしゃべっている様子はないけど、それでも楽しそうだ。仲のいい女子二人。中川さんはバスなので、途中で道がわかれる。俺もその頃には普通に清香を見失って、一人で歩いて駅で電車を待っていた。

「ねえ」

 と後ろから声がした。振り返ると、清香がいた。

「なんだよ」

 なるべく普通に聞こえるように言う。自分の気持ちを隠すのは慣れていた。清香は俺をじっと見ていて、俺は居心地が悪くて目を逸らした。電車が来て、二人とも黙って乗る。一つ空いている席があって、座れよ、と言ったけれど、清香は立ったままだった。

「料理得意だよね?」

「え、まあ」

 母親が料理教室の先生をやっているので、小さいころは手伝いをよくしていた。行事があると母と二人でケーキを焼いたり。清香の誕生日とか。それで、ああ、と、なんとなく清香の言いたいことを察した。清香は家庭科が苦手で調理実習では味見担当に任命されていたし、裁縫の時間は俺がこっそり手伝ってやっていた。それも昔の話だけど。

「教えてほしいのか?」

 言いよどんでいる清香は、はっと顔を上げた。それから、情けなさそうに眉を下げる。

「いいの?」

「いいよ」

 別に。全然。

「俺もなんか作ろうと思ってたし」

 嘘だった。清香は気づかない。

「ありがとう」

 ふにゃっと目尻を下げて笑う。それから電車に揺られながら、何を作るのか話した。清香はあげたい人がいる前提で話をした。名前は言わない。

「ケーキ系は好きみたい。よく食べてるの見るから。あとナッツが好き」

「じゃあブラウニーにするか」

 簡単な方だし、と、内心で付け加える。

「うん!」

 電車を降りて、マンションのエレベーターに乗りながら、さっきまでのはしゃぎようとは打って変わって静かになった清香が、ぽつん、と呟いた。

「女子なのに男子にお菓子作り教えてもらうって、女子失格かも」

「そんなことないだろ」

 清香は俺を見上げた。

「性別は、関係ない」

 清香はじっと俺を見つめて、そうだね、と、心細そうに応えた。


「ちゃんと焼けてるかなあ」

 清香はオーブンを覗き込んでいる。そんなふうにしても見えないと思うけど。

 俺は洗ったボウルを拭いている。キッチンは粉まみれで、いたるところにクルミやチョコのかけらが散乱している。なんでブラウニーを作った程度でこんなに散らかるんだ。夕方に親が帰ってくる前には完璧に片付けておかないといけない。

「ねえちょっとオーブン開けてもいい?」

「だめ」

「うー」

 不満そうにしつつもオーブンの前からどいたので、洗い物を拭くのを任せた。さすがにそれはできるらしい。ほっとして、なんでこんなことでほっとしなくてはいけないのかと思う。人にものを教えるのは疲れる。料理や菓子作りを含む家事をしっかり仕込んでくれた母に感謝したい。キッチンを片付ける。清香も手伝ってくれたので、思ったよりもすぐに片付いた。焼き時間が長めのレシピにしたので、まだ焼きあがらない。

「紅茶淹れるけど飲むか?」

「あ、うん。お願い」

「おう」

 ケトルを火にかけると、普段使いのティーバッグではなく、母親が高いところにしまっている茶葉を出す。清香はいかにもそわそわした様子でオーブンを睨んでいる。

「うー。美味しいといいなあ」

「大丈夫だろ。高いチョコだし」

 製菓用の、一番いいやつを買った。

「あ、材料費払うよ」

「いーよ別に。俺んちにあったやつだし」

 案外さらっと嘘がつける。嘘が得意になってきた。嬉しい。冷蔵庫からクッキー缶を取り出して、紅茶を淹れる。

「これ食ってもいいよ」

 と言って、缶を開けた。もらいもののクッキーが入ってた缶は、お菓子入れにしている。

「え、なにこれ! すごい!」

 中に入っているのはオランジェットチョコだ。輪切りにしたオレンジを砂糖漬けにして、半分にビターチョコをかけている。何回もシロップで煮ては冷まして、果肉が飴のようにつやつやと透き通るようになったオランジェット。くっつかないようにテープ付OPPという透明の袋に一つ一つ入れてある。

「え、いいの? これ? 食べても?」

「いいよ。あまったやつだし」

 嘘だ。

「ありがとう! いただきます」

 清香は今日一番はしゃいだ声で言うと、ぺりぺり袋を剥いて食べる。顔が明るくなる。ほっとする。

「めちゃめちゃ美味しい! え、こんなの作れるの!? すごいんだけど」

「そんなに難しくはない」

 これは嘘ではない。難しくはない。手間はかかる。二日かかった。

「えーすごい……なんか……すごいね。本当にお菓子作るの上手だよね」

「結構失敗もするけど」

「見たことない」

 そら成功したやつしか食べさしてないからな。苦笑する。

 紅茶を飲みながら勉強のこととか近所にできたピザ屋の話とかしてると、案外普通に話ができてほっとした。昔みたいな仲のよさじゃないけど、普通に親しいクラスメートみたいな。そんなもんだろうな、と思う。何があったわけでもないのに、どんどん離れていく。

「あの店はパンケーキ有名だけどそれ以外もうまいと思う。パフェとか」

 何年か前にできたカフェの話になる。

「あ、私もこないだパフェ食べた。オレンジのやつ! 中のクッキーの砕いたやつ? とかも手作りなんだよね」

「焼き菓子もうまいよ」

「えーそうなんだ。あそこのお店可愛くて美味しいけど閉店時間五時ぐらいだよね。休日やってないし」

「学校終わってすぐじゃないといけないよな」

「あれ? 何部だっけ? 家庭科部?」

 笑った。うちの高校は家庭科部はあるが、あんまり真面目にやってないことがわかったので俺は入ってない。家で一人で好きなもの作ってたほうがいい。

「帰宅部だよ」

 お前と同じ、とは、言えなかった。

「え、そうなんだ」

 そんなことを話していると、オーブンが焼き上がりを教えてくれる。ミトンをして天板を取り出して、粗熱を冷ます。ココアパウダーをかけようかと思っていたけれど、思いのほか綺麗に焼けていたので省略する。俺が端を切り落として見本に少し切ってみた。清香はそれを参考にしながらたどたどしく切り分けている。斜めになったり不揃いだけれど、まあよしとしよう。

「ちゃんとブラウニーだ」

 感極まった様子で言う。

「そらそうだろ」

「美味しそう…」

「端っこ食べてみたら」

「いいの?」

「いいよ」

 清香は切れ端をつまんで口にする。今までどこか強張っていた顔が、ほわっと緩んだ。

「美味しい……」

「頑張ったもんな」

 俺を見上げてにこっと笑う。化粧をしていないその顔が、子供のころの顔と被って、俺は目を逸らした。


「本当にありがとう」

 綺麗にラッピングしたブラウニーを紙袋に大事にしまって、清香は言った。紺色のシックなリボン。清香が自分で持ってきたやつだ。きっとよく考えて選んだんだろう。相手が喜んでくれるように。紺色は清香の好きな色だ。相手が好きなのかどうかは、俺は知らない。清香はきっと知っているだろう。好きな相手のことは、よく見ているものだ。

「いいよ別に」

「あのね」

 と、清香は何かを決意したように顔を上げた。俺はなんでもないふりをする。

「あのね、これ、私……私、好きな人にあげたくて」

「うん」

 何を言われるのか、なんとなくわかっていた。それでも待っていた。清香が、自分で言うのを。

「私、秋ちゃんが、好きなの」

 俺は微笑んだ。無理に作ったわけじゃなくて、本当に、自分でも意識する前に、笑っていた。そうできてよかったと思った。

「そっか」

 清香の目が潤んだ。初めて人に話したのかもしれない。紙袋を、胸元でそっと抱きしめている。苦手でも、頑張って作ったブラウニー。中川さんの好きなお菓子。

「好きって言えないけど、自分で作ったチョコ、あげたかったの……変なのわかってるけど、」

「変じゃない」

 早口で言う清香を遮った。

「全然変じゃない。誰が誰を好きになってもいいし、好きな人のために頑張るのは、いいことだ」

 そうだったらいい。そうできたらいい。口にして初めて、自分が強く強くそう思っていることに気づいた。誰が誰を好きになってもいい。性別なんて関係なくて、自分を見てない相手を好きになってもよくて、そして好きな人のために頑張るのは、いいことだ。

 俺は清香に顔を隠すように背を向けて、茶色い武骨な紙袋に、クッキー缶から出したオランジェットチョコをいくつか突っ込んだ。ただ透明の袋に一つ一つ包んだだけの、俺のチョコレート。

「持って帰れよ」

「いいの?」

「いいよ。餞別」

「ありがとう」

 清香は笑って受け取って、持ってきたショルダーバッグに無造作に突っ込んだ。ブラウニーの紙袋を大事に持って、玄関に向かう。

「頑張れよ」

「うん。あ、」

「何」

「月曜、ちゃんと友チョコあげるからね。美味しいやつ」

「楽しみにしてる」

 ばいばい、と手を振って、清香は去って行った。ドアを閉めた部屋の中には、まだ甘い匂いが漂っている。清香の恋の匂い。リボンをかけた大事な、手作りの気持ち。本当に、本当に、うまくいけばいい。

 俺は残ったオランジェットチョコを齧った。きらきらと透き通る、甘くて酸っぱくて苦い菓子。清香は昔から、オレンジが好きだった。チョコはビター。清香が何を好きなのか、ずっと見ていたから、知っている。俺が知っていることも、清香は知らないだろう。俺の気持ち。伝わらなくてもいい。

 美味しいと言ってもらえたら、少しでも喜んでもらえたら、それでいい。

 リボンはかけてなくたって、これは本物の気持ちだ。

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テープ付きOPP袋のオランジェットチョコ 古池ねじ @satouneji

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