一万匹の羊と厭わしい朝

繕光橋 加(ぜんこうばし くわう)

一万匹の羊と厭わしい朝

 水車小屋に住みこみで働く、一人の少年のお話です。だいぶんすりへったシャツに、すすけた吊りズボン姿で、あまり豊かな暮らしではありませんが、カントクや目上の兄さん達に交わって、少年はきりきり働きます。

 働いて働いて働いて、クタクタに疲れ果てた日の、そのまぶたの重いこと重いこと。小さな少年は、狭く急な階段を上がって、ようやく部屋に戻ると、倒れざまに寝息を立て始めます。夜風が優しく小川をなで、心地よい水の音をかなでるのです。


 大抵はそんな具合で、眠ることに苦労なんてしません。が、たまに訪れる、目のさえるあの夜、退屈で仕方のない夜と出会ったら、いったいどうやって眠るのでしょうか?

 そう、「頭の中で柵を跳び越える羊を数える」ことが、どうやら効き目があるらしい。皆さんもきっと聞いたことがあるでしょう。

「羊がいっぴき、

 羊がにひき、

 羊がさんびき……」

ぞろぞろと現れてとびこえる、あののっぺり顔を数えているうちに、いつしか胸のざわめきは、ゆっくり小さくおとなしくなって、少年は安らかに、眠ることができるのでした。

 水車小屋では、地主さんが持ってきた小麦を挽いて、パンやおかゆをこしらえるための、“小麦粉”を作ります。一三時間もかけて、やっと一ブッシェル樽を満たし、「ああ、今日も仕事が間に合った」なんて、皆して胸をなでおろすのが、この小屋の日常です。

 ひとたび下手をすると、たとえ日がかたむこうとも、すっかり暮れてしまおうとも、樽は口を開けたまま、小屋の中に居座り続けるので、少年も若い衆も、石きねやハンドルを壊さぬよう、丁寧に、慎重に仕事をし、水車も職場も回ってゆきます。そうして少年はめきめき働き、大人たちから可愛がられました。


 ある晴れた初夏、風は穏やかで、少し暑いくらいの日に、背の伸びた少年は川をさかのぼるように歩いていました。この日、かまどにくべる、折れた枝集めの当番は彼でした。

 ふと彼は林の先の、少し開けた沢に、誰かがいるのを見つけました。それは明るい肌の女の人で、どうやら行水をしているようでした。一糸まとわぬ姿で身を清める様子を見た少年は、はっとして目を背けようとしました。しかし、肩から背中にかけて水が伝い、陽の光による祝福を受けたかのような、女性のあでやかさに、やわらかさに、少年は目をうばわれました。その場に立ち尽くしたまま、木かげから様子を覗くことを、彼はやめることができなかったのです。

 するとようやく、水浴びの女性は少年に気付き、ザアザアと打つ水音の中に、驚いた声を忍ばせながら、岸へかけていきました。

少年はぎくりとしました。

「どうしよう!覗き見がばれてしまった。偶然とはいえ、罪深いことをしてしまった。僕は悪いことをしたんだ…。」

 その日の夜、少年は頭まで布団をかぶっても、全く眠ることができません。隠れ見た女性の体ではなく、彼女の驚いた顔ばかりが、少年には思い出されます。そうだ、こんな時にこそ羊を数えてみよう。

「羊が、いっぴき、

 羊が、にひき、

 羊が、さんびき…………」

ところが、羊が何匹柵を跳び越えようとも、彼の胸はおどり、息は静まる気配もありません。のっぺり顔はどんどん増えていきます。

「どうしよう、早く寝なきゃあ、朝が来てしまうよ。明日もお仕事があるというのに。」

 夜はふけ、時間ばかりが過ぎてゆき、跳ねる羊は一万匹に達してしまいました。ちょうど一万匹目を数えると、もう朝日が寝床を照らしていました。慌ただしく仕事が舞い込む、真新しい一日が、そこに来てしまったのです。

 一晩の眠りをお預けされた少年は、

「これはどうしたものか、いつもは羊が眠気を引き連れてくるのに。」

と、戸惑う事しかできません。

 気の晴れぬまま、今晩眠ればいいと思い直し、少年はしぶしぶ、水車のある作業場へおりていきました。

 さて少年はこの日、いつもよりずっとずっと、働くことができませんでした。動きは遅く、熱があって寒く、しまいには運ぶための升一つ分の小麦粉を、落としてダメにしてしまいました。カントクからは大目玉です。

 その日の晩も、やはり、少年は羊を一万匹まで数え上げましたが、ついぞ眠ることはありませんでした。まぶたのもやの取れぬうち、また朝日が力強く昇り、村を照らしました。

 少年は「我関せず」の顔をしている一万匹目の羊を、苦々しげに睨みます。そして昨日のように何かやらかしはしまいかと、わずかばかり働き、うろたえるように一日を終え、更にまた一日が、過ぎようとしていました。

 可哀そうな少年は、とうとう膝をついて、しくしく泣きました。うなされる思いです。

「助けてくれ羊さん。僕は眠りたいんだ。体はさび付いて、頭も休まらない、こんな一日をどうして楽しいと思えるだろう。どうか僕の安らかな眠りを、取り返してくれないか。」

 羊達は口々に、彼をさげすんで言いました。

「いいかげん忘れて、寝ておくれ。」

「こっちも疲れて、喉が渇くばかりだ。君が眠る前に、私たちの脚はなえてしまう。」

「いっそのこと、もっと泣いてしまえ。ここにお前の涙で、沢を作るばかりにな。」

 どうしてイジワルなことを言うのでしょう。

 小さな胸はいっそう締め付けられ、彼は堰を切ったようにわあわあ泣きました。涙は川になり、一万匹の羊をほとりに集め、その喉を潤しました。悲しみの赴くままに泣いた少年は、涙と共に罪の気持ちも流れ出して、ようやく朝を恐れることもなくなりました。


 今となっては昔の話。あなたは一日の始まりを、どう迎えているでしょうか。

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一万匹の羊と厭わしい朝 繕光橋 加(ぜんこうばし くわう) @nazze11

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