声を失った猫
不二川巴人
声を失った猫
その猫は、すごくふつうの猫でした。
別に長靴をはいているわけでもなく、百万回生きたわけでもなく、音楽隊を目指しているわけでもない、いたってふつうの三毛猫でした。もちろん、ホームズを気取っているわけでもありません。
ある年の春、満開の桜を散らせる雨が降っていた日の夜。桜の木の下に、段ボール箱に入れられて、捨てられていました。
それを、たまたま通りがかったお父さんに拾われたのです。
三毛猫ですから、やっぱり女の子でした。
お父さんは、その猫を「さくら」と名付けて、家族の一員にすることに決めました。お母さんも、一人娘も、おばあさんも、誰も反対しませんでした。
さくらは拾われた頃、まだ目も開いていない仔猫でした。弱って死んでしまう寸前で拾われ、一家と獣医さんの懸命の世話が実り、すくすくと愛らしく育っていきました。
さくらは、はっきりと覚えていました。
自分の目が開いた頃、何を一番最初に見たか。
それは、獣医さんではなく、嬉しそうなお父さんの顔です。
ああ、この人が、わたしのいのちの恩人なんだ。
さくらは、お父さんがすぐに大好きになりました。
ですから、いつもお父さんのそばにいるようにつとめました。
でも、お父さんは仕事が忙しく、さすがに一日中は無理でした。
けれど、お父さんがつかれた顔で家に帰ってくると、さくらはまっさきにお父さんをいたわりました。
もちろん、他の家族とも仲良くなりました。
お母さんもやさしい人。
お嬢さんもやさしい人。
おばあさんは、もっとやさしい人。
さくらは、
「ああ、ここの家族になれて、わたしは、ほんとうにしあわせだなあ」
と、しみじみ思いました。
そこで、ひとつ。さくらは、自分で気付いたことがありました。
それは、自分に、「みんなの『いのちの光』」が見えると言うことでした。
さくらの目には、家族のみんなが、暖かな光を放っているのが見えました。
ああ、みんな、生きているんだ。そのことが分かる自分が、さくらは、ちょっぴり嬉しく思いました。
季節はめぐり、三年も過ぎた頃でしょうか。もはや、さくらは「一家の一員」として、かけがえのない猫になりました。
さくらは、とてもかしこい猫でした。
とくに「哀しみ」にはたいへん敏感で、一家の誰かが、なにかの事情で哀しみの中にいる時、決まってなぐさめてくれました。
家族みんなの感謝と、愛と、やさしさを一身に受け、月日が流れました。
十年が過ぎた頃、ある事件が発覚しました。
それは、お父さんの病気でした。がんだという診断。しかも、末期の。
余命は半年ということでした。
お父さんは、もう長く生きられない。
さくらには、お父さんの「いのちの光」が消えかかっていることを、見ることができました。
お父さん。
わたしを救ってくれたお父さん。
大好きなお父さん。
死なないで。
けれど、わたしにはなにもできない。
さくらは彼女なりに考えました。
でも、どれほど考えようが、なにもできない自分を、とても悔やみました。
お父さんは、入院を断りました。どうしても、最期は家で迎えたい、という強い希望でした。
さくらは一日中、お父さんのそばにいました。
日に日に、お父さんの「いのちの光」が弱まっていくのが見えました。
皮肉なもので、お父さんが病にふせって一ヶ月後が、お父さんとお母さんの銀婚式の日でした。
誰が祝えるでしょうか?
お母さんも哀しみの淵にいて、お嬢さんだって、おばあさんだってそうです。
でも、一番つらいのは、さくらでした。
だって、弱まるいっぽうの、お父さんの「いのちの光」が見えるのですから。
さくらは、その「光」が見えてしまう自分の目を恨みました。
そう。お医者さんは「半年」と言ったけれど、「もうすぐ、今にも」だということが分かってしまったからです。
「お父さん!」
さくらは、哀切に叫びました。
けれど猫ですから、
「にゃあ!」
という鳴き声にしかなりません。
「泣いて、いるのかい? さくら」
「にゃあ……」
弱々しいお父さんの呼びかけに、さくらは再度鳴きました。
猫だって、涙を流すんです。
涙をこぼす大切な家族を見て、どこの誰がほうっておけるでしょうか。
「ありがとう、さくら」
やさしく、やせ細った手で、お父さんはさくらを撫でました。
あたたかい手。
やさしい手。
それは「守るもの」の手。
けれど。
もう、今日。
お父さんの「いのちの光」は、消える。
ああ、わたしの涙が、どんな病気でも治す魔法を持っていたならいいのに。
さくらは心底思いました。でも、そんな魔法なんてありません。
せめてと思って、夜。さくらはみんなを、お父さんの寝室に集めました。
お父さんは、まさしく、いまわのきわでした。
「あなた……!」
お母さん、哀しそう。
「パパぁ……!」
お嬢さんも、哀しそう。
「ヒデ坊……!」
おばあさんも、哀しそう。
分かる。分かる。分かる。
みんなの哀しみが、ちくちくと刺さるほど、ううん、刃物で切られるように痛い。
さくらには、やはり見えていました。
ああ、もう。
お父さんの「いのちの光」が。
神様。
ああ、神様。
あなたはとても冷たいお方。
こんなにもわたしを愛してくれた、お父さんを死なせてしまうなんて。
「……マ、マ……」
お父さんは、最後の力を振り絞って、言葉を紡ぎました。
「な、なあに? あなた?」
でも。
「……あ……」
お父さんは、そこで琴切れてしまいました。
「あなた? ねえ、あなた!?」
みんな、がくぜんとしました。
あんまりにも、あっけなさすぎて。
あんまりにも、むごたらしすぎて。
神様!
あなたは、あなたという方は、どこまで残酷なんですか!?
お父さんに、最期の一言も言わせてあげずに、「いのちの光」を消すなんて!
ああ。
ああ。
ああ、ああ。
お父さんは、最期に何が言いたかったの?
お願い、神様。
一言。たった一言でいいんです。
わたしに、人の言葉を、ください!
「お父さんが言いたかったこと」
を、みんなに伝えさせてください!
それができるなら、わたしはどうなってもかまいません!
神様!!
やがて、さくらは見ました。お父さんの身体から、魂が抜け出てくるのを。
哀しげな顔でした。
さくらには、泣きながらそれを見つめるしかできませんでした。
その時です。
お父さんの魂が、すこし天を仰ぎ、軽くうなずきました。
なんだか、わずかな希望を見つけたような顔に見えます。
そしてお父さんは、おだやかな笑顔で、さくらに言いました。
「ちょっと、身体を借りるよ。さくら」
すうっと、お父さんの魂が、さくらに入っていきました。
そして、さくらは、みんなに言いました。
人の言葉、それも、お父さんの声で。
「ありがとう、みんな。愛してたよ。本当にありがとう」
とつぜん人の言葉を話したさくらに、目を丸くする家族のみんな。
おどろくべき奇跡は、それっきりでした。
けれど、届きました。哀しいながら、みんな微笑みました。泣きながら笑いました。
お父さんの魂が、さくらから離れていきます。さくらも、目に涙をいっぱいに溜めながら、笑顔で見送りました。
それからのち、さくらは、いっさいの声を失いました。まったく、話せなくなったのです。
でも、そんなことぐらい、さくらにはなんの問題でもありませんでした。その「奇跡の思い出」が、彼女の中に刻まれている。それで、じゅうぶんでした。
お父さんが天に召されてから十五年後。偶然にも、その命日に、さくらが虹の橋を渡るまで、ずうっと彼女は、幸せでした。
おわり
声を失った猫 不二川巴人 @T_Fujikawa
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