陽炎立つ日の手紙

唯月湊

陽炎立つ日の手紙

 昨日一日降り続いた雨が上がり、綺麗な晴天に恵まれたその日。モノクロに彩られた葬儀はしめやかに執り行われた。

 大往生、と言われる年齢まで生きた彼女の遺影は、生前の印象をそのまま切り取った愛らしいものだった。カメラマンの腕が良かったのか、はたまた被写体の彼女が写真写りの良い人物だったのか、それは遺影を選んだ青年には預かり知らぬところだ。

 血の繋がりもないこの青年が、かの老婦人と一緒に暮らしていたのは五年ばかり。思い出は様々、胸のうちに残っている。

 その中でもよくよく印象に残っているのは、今日のような陽射しの強い日の記憶。


 暑い夏の盛り、陽炎が立つ日にはきまって、かの老婦人はいつも手紙を読んでいた。


*****


「そろそろお茶でもどうですか?」

 声をかければ、車椅子の老婦人はこちらを向いて「いただこうかしら」とゆるり笑む。どこか幼さすら感じさせるようなその笑みに、青年もつられて笑うのが常だった。お盆に載せた麦茶の氷がカランと小さく音を立てる。

 彼女は手紙を自分の膝の上へ置いて、青年の渡した麦茶を美味しそうに飲んだ。青年も自分の分に口をつける。

「今日の調子はどうかしら? あまり私にばかり目をかけなくても大丈夫よ」

「そうはいきませんよ。今年もやっぱり暑いですから」

 随分と暑い日が続いていた。この屋敷に住むようになって二年目の夏。昨年は彼女が軽い熱中症にかかってしまった。それ以来、彼女の体調にはことさら気を配るようにしている。適切に空調も入れているが、効きすぎると今度は身体を冷やしてしまう。あまり強くも出来ない。

 ただ彼女のせいというわけでは全くないが、彼女が尋ねてきた「調子」はあまり良くなく、作業の進捗状況は芳しくない。

「ご家族からですか?」

 話の矛先を変えるために、そんなことを口にした。青年が視線を向けた淡いクリーム色の便箋と封筒は、まだ新しいものに見えた。

 青年の言葉に、老婦人はふるふると首を横に振った。「あの子達が手紙をくれるようなことはないわ」と続ける彼女の声は淡々としていた。

「これはね、お友達からなの。幼い頃からずっとお手紙のやりとりをしているのよ」

 この文通が私の楽しみなの、と彼女は頬をほころばせる。先の家族の話を振ったときとは雲泥の差だ。やはり、家族とは折り合いが良くないらしい。

 確かに、合法とはいえ自分のような赤の他人がここへ住み込むような間柄だ。家族の話は振らないようにしようと心に決める。

「文通ですか。素敵な趣味ですね」

 最近はもっぱら電子端末でのメッセージが主流だ。青年にしても、手書きで手紙を書いた記憶は随分と昔になってしまう。人と人の距離は電子の海のおかげで随分と近くなったけれど、またたく間に連絡がついてしまうこの世界は、時々どこか息苦しい。もしかしたら、自分には実際に運ぶ時間が必要な手紙のほうが性に合っているのかもしれない、などとすら思った。

 もっとも、青年は字が汚い。人に読んでもらえるような字はお世辞にも書けない。

 老婦人は昔、人に書道を教えていたと聞いている。彼女が手書きで文字を書いているところをしばしば見たが、印刷したのかと思うほど綺麗な字が並んでいた。

 老婦人はそのまま昔の思い出話をしてくれた。年の差は六十以上。教科書の中でしか読んだことのないような話は新鮮で、懐かしむ彼女の様子を見ているのも好きだった。

「あのね、お願いがあるのだけど。便箋を切らしてしまったから、今度の買い物は私も連れて行ってもらえないかしら?」

 買い物はいつも青年がひとりで行っていたが、あいにく自分は便箋がどこに売っているのかもわからない。任せる、と言われるよりはずっと楽だった。二つ返事で了承した。


*****


 この国は緩やかに衰退し、貧富の差はひどくなる一方だった。

 そんな中で施行された、ひとつの制度。いわゆる貧困層と呼ばれる人間を、富裕層の人間が支援と称して面倒を見ることを推奨、斡旋していく、というもの。冗談のようなこの制度は、多くの批判を受けながらも施行された。

 あくまで人道的措置として施行されたはずだが、中には衣食住の面倒を見る代わりに高齢者の介護を被保護者に強制するものや、個人的な「嗜好」に合った人間を囲うなど、様々な問題行為が横行した。

 ネットでは「奴隷法」「人間ペット法」などと揶揄されて久しい。

 青年もこの制度によってこの家にやってきた人間だった。もっとも、保護を申し出たのは一緒に住む老婦人ではない。彼女にはふたりの子どもがいたが、彼らはふたりともすでに独立している。その第一子が契約する形で、青年を老婦人のところへ送り込んだのだった。

 てっきりこの老婦人の世話役として送り込まれたのだと青年自身思ったし、彼が手にしていた僅かな職と自由な時間はこれきり失われるのだと思っていた。

 ただ、その予想は初日から覆されることとなった。事情がわかっていなかった彼女へ説明すれば開口一番で謝られ、青年が嫌ならばどうにか第一子に制度中止を申し出る、とまで言われてしまった。その様子といったらこちらが恐縮するくらいで、青年はこの老婦人と一緒に生活することを決めたのだ。

 老婦人は青年に、今まで何かやっていたこと、やりたかったこと、やってみたいと思っていたかったことはないか、と尋ねてきた。車椅子の彼女がひとりで暮らせるように家は改良が加えられていたが、それでも青年に迷惑をかけることにはなると思っていた。そのお詫びではないが、青年がやりたいと思うことを好きに出来る環境を整えたい、と申し出たのだ。

 少し迷いもしたが、青年はその申し出をありがたく受け取ることにした。外が見える二階の一室をまるごとひとつ借り受けて、今まで使っていた道具を持ち込んだ。

 そうして、この家での共同生活が始まった。


*****


 今日も朝から気温はぐんぐん上がって、陽炎立つ熱気のそばで、老婦人は手紙を読んでいた。先日の手紙とは違うもののようだ。

 けれど、そこではたと気づく。

 今でも数は少ないものの、紙の手紙は存在する。それを家へ取り入れるのは青年の仕事のうちであったが、その中に彼女の持っている手紙はなかったように思う。

 そのうち、老婦人は丁寧に封筒へ手紙をしまうと、机まで器用に車椅子で移動してペンを取った。

 先日購入した便箋を使うのは二回目。思えば先日書いていた手紙の返事も、外へ出してくるように頼まれてはいない。

 一体、彼女は誰に向かって手紙を書いているのか。

 それが少し、怖くなった。記憶や意識ははっきりしている人だと思っていたが、青年がわからないところで病んでいるのかもしれない。

 ただ、それを尋ねるのも失礼にあたる。どうしたものか、と青年はしばらく悶々とした日々を過ごすことになった。


 青年の様子がおかしいことに、老婦人は程なくして気がついたらしい。手紙を書く手を止めて、麦茶を運んできた青年へ「心配させてしまってごめんなさいね」と謝った。

 老婦人は手紙の束を持ってきた。最近のものだけを持ってきたと言うが、それでも二十や三十ほどはあった。それらは確かに老婦人宛のもので、その文字は老婦人が書くものとは全く違う筆跡だった。ただ、その封筒には切手も消印も入っていない。

 中を見ていい、というので、出来る限り丁寧に手紙を取り出して開く。いくつか読んだが、それらは当然中身が全部違う手紙で、どうやらやり取りをして話が続いている印象があった。

「そういえば、あなたはこの町の出身じゃあなかったわね」

 コクリとうなずく。彼は隣町で生まれ育った。

「ここはね、陽炎が常世の住人の手紙を届けてくれる町なのよ」

 突然言われても困ってしまうわねと、老婦人は不思議そうな顔をしている青年に話をしてくれた。

 常世とは死者の住む国である。死した者たちは皆その常世国へ移り、生前と変わらぬ姿で生きているのだという。

 そして、この町は陽炎が立つとりわけ暑い日に、生前縁の深かった死者から手紙が届くのだという。どのように届くのかは、老婦人にもわからないらしい。ただ陽炎が立つその日、ふと視線を向けたときに、先程までなかった手紙が置かれているそうだ。

 それが老婦人だけでなく、この町の人間の多くに起きていた。その特徴から、この町は別名「常世に一番近い町」などと言われているらしい。

 老婦人への手紙の差出人は、彼女がまだうら若い少女だったころ事故で亡くなったそうだ。

 初めて手紙が来たのは、それからあまり日も経たない時期の、暑い夏の日。驚きはしたけれど、それでもこれがなにかのいたずらだとは思わなかった。この町では当たり前のことであったから。

 手紙が置いてあったその場所に、自分が書いた手紙を置いておく。そうすれば、陽炎立つその日に手紙は常世へ手紙が運ばれていくのだという。

 「不思議なことかもしれないけれど、信じてもらえたら嬉しいわ」と老婦人は笑った。


*****


 老婦人は遺言状を残していた。その中には、最期を看取ることになるであろう青年への感謝の言葉と、自分の僅かな財産をいくらか相続させるように、と書いてあった。老婦人の子どもたちは随分と反対したが、青年が「この家を残してくれれば他はいらない」と言えば引き下がってくれた。彼らにとって価値はない家だったようだが、青年にとって、この家は大事な場所になっていた。


 葬儀からそれほど日も経っていない、陽炎立つ暑い夏の日。彼が譲り受けた家の一室、「作業部屋」に見知らぬ封筒が置かれていた。見覚えのある、美しい文字で自分の名前が書いてある。

 ゆっくりたっぷりと時間をかけて読んだ。ひとつ息をつく。

 悩む時間はそれほど必要としなかった。財布を掴んで、以前老婦人と向かった文具店へ駆け出す。


 こんなことなら、ちゃんと文字を習っておくべきだった。文章の返事は、また今度にしようと誓う。

 目的のものを手に入れて部屋に戻った青年は、真っ白な葉書を前に絵筆を握った。

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